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  • あなたの祈りは『香として調えられて』いますか
    ものみの塔 1999 | 1月15日
    • あなたの祈りは『香として調えられて』いますか

      「わたしの祈りがあなたのみ前の香として……備えられますように」― 詩編 141:2。

      1,2 香をたくことは何を象徴的に表わしましたか。

      エホバ神は,イスラエルの崇拝の幕屋で用いるための神聖な香を調えさせるよう預言者モーセにお命じになりました。神の定めた調合法に従い,4種類の芳香性物質が混ぜ合わせられました。(出エジプト記 30:34-38)その香は,実に甘い香りがしました。

      2 イスラエルは律法契約に導き入れられましたが,その契約の規定によると,毎日,香をたくことになっていました。(出エジプト記 30:7,8)香を使用することには特別の意味があったのでしょうか。確かに,ありました。詩編作者はこう歌っています。「わたしの祈りがあなた[エホバ神]のみ前の香として,たなごころを上げることが夕べの穀物の捧げ物として備えられますように」。(詩編 141:2)使徒ヨハネは,「啓示」の書の中で,神の天のみ座の周りにいる者たちを,香を満たした黄金の鉢を持っている者として描いています。そして,「その香は聖なる者たちの祈りを表わしている」と,霊感によるその記述は説明しています。(啓示 5:8)ですから,甘い香りのする香をたくことは,エホバの僕たちが夜昼ささげる,受け入れられる祈りを象徴していたのです。―テサロニケ第一 3:10。ヘブライ 5:7。

      3 『祈りを神のみ前の香として調える』うえで何が助けになるはずですか。

      3 わたしたちは,自分の祈りを神に受け入れられるものにしたいのであれば,イエス・キリストの名によって祈らなければなりません。(ヨハネ 16:23,24)しかし,どうすれば祈りの質を改善できるでしょうか。祈りをエホバのみ前の香として調えるうえで,聖書中の手本を幾つか考察することは助けになるはずです。―箴言 15:8。

      信仰のうちに祈りをささげる

      4 信仰は,受け入れられる祈りとどのような関係がありますか。

      4 わたしたちは,自分の祈りを甘い香りのする香のように神のもとへ上るものにしたいのであれば,信仰のうちに祈らなければなりません。(ヘブライ 11:6)クリスチャンの長老たちが,霊的な病気になった人に聖書的な援助を差し伸べて,当人がその援助を受け入れるとき,長老たちの「信仰の祈り(は)病んでいる人をよくし」ます。(ヤコブ 5:15)信仰のうちにささげる祈りは天の父に喜ばれるものであり,祈りつつ神の言葉を研究することもそうです。詩編作者は,「わたしは自分の愛したあなたのおきてに向かってたなごころを上げ,あなたの規定を思いに留めます。善良,分別,そして知識をわたしに教えてください。わたしはあなたのおきてに信仰を働かせたからです」と歌い,立派な態度を示しました。(詩編 119:48,66)わたしたちも,『たなごころを広げて』謙遜に祈りましょう。神のおきてに従うことにより信仰を働かせましょう。

      5 自分に知恵がないと思う場合,どうすべきですか。

      5 仮に,試練に対処するための知恵が自分にないとしましょう。もしかしたら,ある聖書預言がいま成就していることに確信を持てないでいるかもしれません。しかし,そのために霊的な安定性がなくなるにまかせるのではなく,知恵を求めて祈りましょう。(ガラテア 5:7,8。ヤコブ 1:5-8)もちろん,神が華々しい仕方で答えてくださる,と期待することはできません。わたしたちは,神がご自分の民すべてに,行なうよう期待しておられる事柄をすることにより,自分の祈りが真剣なものであることを示さなければなりません。「忠実で思慮深い奴隷」を通して供給される出版物を手引きとして,信仰を築く聖書研究に携わることが必要です。(マタイ 24:45-47。ヨシュア 1:7,8)また,神の民の集会に定期的に参加して知識を増し加える必要もあります。―ヘブライ 10:24,25。

      6 (イ)わたしたちすべては,今の時代と聖書預言の成就について何を悟るべきですか。(ロ)エホバの名が神聖なものとされることを祈り求めるほかに,何をすべきですか。

      6 今日,クリスチャンの中にも,今が「終わりの時」の相当経過した時点にあることを見失っているかのように,自分の関心事や仕事に精力を傾けている人がいます。(ダニエル 12:4)仲間の信者たちは,そのような人が信仰を再び燃えたたせる,もしくは強めるよう祈ることができ,そうするのは良いことです。そのような人には,エホバがキリストを天の王として立てた1914年にキリストの臨在が始まり,キリストはいま敵のただ中で支配しておられる,ということを示す聖書的な証拠に対する信仰が必要なのです。(詩編 110:1,2。マタイ 24:3)わたしたちすべては,次のことを悟るべきです。すなわち,偽りの宗教 ―「大いなるバビロン」― が滅び,マゴグのゴグがエホバの民に悪魔的な攻撃をしかけ,ハルマゲドンの戦いで全能の神がご自分の民を救助するという予告された出来事が,びっくりするほど突然に起き得ること,しかもそのすべてが比較的短期間のうちに生じ得るということです。(啓示 16:14,16; 18:1-5。エゼキエル 38:18-23)ですから,霊的に目覚めていられるように神の助けを祈り求めましょう。わたしたちすべては,エホバの名が神聖なものとされること,神の王国が来ること,神の意志が天におけると同じように地上においてもなされることを,切に祈りたいものです。そうです,引き続き信仰を働かせ,自分の祈りが真剣なものであることの証拠を示してゆけますように。(マタイ 6:9,10)実際,エホバを愛するすべての人が王国と神の義を第一に求め,終わりが来る前に良いたよりを宣べ伝えることに可能な限り十分にあずかれますように。―マタイ 6:33; 24:14。

      エホバに賛美と感謝をささげる

      7 歴代第一 29章10-13節に一部記されているダビデの祈りについて,あなたはどんな点に感銘を受けますか。

      7 『自分の祈りを香として調える』一つの重要な方法は,神に対する心からの賛美と感謝の念を言い表わすことです。ダビデ王は,エホバの神殿を建造するために自分とイスラエルの民が寄進をした時,そのような祈りをささげました。ダビデはこう祈りました。「私たちの父イスラエルの神エホバよ,あなたが定めのない時から定めのない時までもほめたたえられますように。エホバよ,偉大さと力強さと麗しさと卓越性と尊厳とは,あなたのものです。天と地にあるものは皆あなたのものだからです。すべてのものの頭として自らを高めておられる方,エホバよ,王国も,あなたのものです。富と栄光はあなたによるものです。あなたはすべてのものを支配しておられます。あなたのみ手には力と力強さがあります。あなたのみ手にはすべてのものを大いなるものとし,強さを付与する能力があります。それで今,私たちの神よ,私たちはあなたに感謝し,あなたの麗しいみ名を賛美しております」― 歴代第一 29:10-13。

      8 (イ)あなたは詩編 148編から150編にあるどんな賛美の言葉に,特に共感を覚えますか。(ロ)わたしたちは,詩編 27編4節で表明されているのと同じ気持ちであれば,何をするはずですか。

      8 賛美と感謝の気持ちを何と美しく言い表わしているのでしょう。わたしたちの祈りも,これほど感銘を与えるものとならなくとも,同じほど心のこもったものにすることはできます。詩編の書には感謝や賛美の祈りがたくさん記されています。詩編 148編から150編には,選り抜きの賛美の言葉が数多く含まれています。神に対する感謝も,多くの詩編の中で表明されています。ダビデはこう歌いました。「わたしは一つのことをエホバに願い求めた ― わたしはそれを待ち望む。すなわち,エホバの快さを見るため,その神殿を感謝の思いを抱いて見つめるために,命の日の限りエホバの家に住むことを」。(詩編 27:4)わたしたちも,エホバの集合した群衆の活動すべてに熱心に参加することによって,そのような祈りに調和した行動をしましょう。(詩編 26:12)そうすると共に,日ごとに神の言葉について黙想すれば,心からの賛美と感謝の念を抱いてエホバに近づく多くの理由を持つことになります。

      謙遜な態度でエホバの助けを求める

      9 アサ王はどのように祈りましたか。その結果どうなりましたか。

      9 わたしたちは,エホバの証人として心をこめてエホバに仕えているなら,助けを求めて祈るとき神が聞いてくださることを確信できます。(イザヤ 43:10-12)ユダのアサ王のことを考えてください。その41年に及んだ治世(西暦前977年-937年)の最初の10年間はまさしく平和でした。その後,ユダにエチオピア人ゼラハの率いる100万人の軍隊が侵入しました。数のうえでは甚だ劣勢でしたが,アサとその部下たちは侵入者たちを迎え撃つために出て行きました。しかし,戦う前に,アサは熱烈に祈りました。救出をもたらすエホバの力を認めていたのです。王は助けを懇願してこう言いました。「確かに私たちはあなたに頼りますし,あなたのみ名によってこの群衆に向かって来(ました)。エホバよ,あなたは私たちの神です。死すべき人間があなたに逆らって力を保つことがありませんように」。エホバがご自分の偉大なみ名のためにユダを救われた結果,完全な勝利がもたらされました。(歴代第二 14:1-15)神がわたしたちを試練から救い出してくださるか,試練を耐え忍べるように強めてくださるかは分からないにしても,援助を求めるわたしたちの嘆願を神が聞き入れてくださることは間違いありません。

      10 ある種の難局にどう対処すればよいか分からないとき,エホシャファト王の祈りはどのように助けとなりますか。

      10 わたしたちは,ある種の難局にどう対処すればよいか分からない場合でも,助けを求めるわたしたちの請願をエホバが聞き入れてくださることを確信できます。その一例と言える出来事が,ユダの王エホシャファトの時代にありました。25年にわたるその治世は西暦前936年に始まりました。ユダがモアブ,アンモン,およびセイルの山地の連合軍に脅かされた時,エホシャファトはこう嘆願しました。「私たちの神よ,あなたは彼らに裁きを執行してくださらないのですか。私たちに攻めて来ているこの大群の前で,私たちのうちには力がないからです。私たちは,どうしたらよいか分かりません。ただ,私たちの目はあなたに向かうのみです」。エホバはその謙遜な祈りに答えて,ユダのために戦い,敵の隊伍に混乱を生じさせて敵同士が互いに殺し合うようにされました。その結果,周囲の諸国民は恐れを抱くようになり,ユダには平安が行き渡りました。(歴代第二 20:1-30)わたしたちも,難局に対処するのに必要な知恵がないとき,エホシャファトのように,『エホバよ,私たちは,どうしたらよいか分かりません。ただ,私たちの目はあなたに向かうのみです』と祈ることができます。そうすれば,問題を解決するのに必要な聖書的な点を聖霊が思い起こさせてくれるかもしれず,あるいは,人間の思いも及ばないような方法で神が助けてくださるかもしれません。―ローマ 8:26,27。

      11 エルサレムの城壁に関連したネヘミヤの行動から,祈りについてどんなことを学べますか。

      11 わたしたちは神の助けを求めてたゆまず祈らなければならないかもしれません。ネヘミヤは,エルサレムの城壁が崩されたままであることや,ユダの住民が絶望的な窮状にあることについて,数日の間,悲しみ,嘆き,断食し,祈りました。(ネヘミヤ 1:1-11)ネヘミヤの祈りは明らかに,甘い香りのする香のように神のもとへ上りました。ある日,ペルシャの王アルタクセルクセスは,意気消沈しているネヘミヤに,「あなたが願い求めているこのことはどういうことなのか」と尋ねました。「直ちに,わたしは天の神に祈った」とネヘミヤは報告しています。その短い無言の祈りは聞き届けられました。ネヘミヤは,崩されたままの城壁を建て直すためエルサレムへ赴くことによって自分の心の願いを遂げることを許されたのです。―ネヘミヤ 2:1-8。

      イエスに祈り方を教わる

      12 イエスの教えた模範的な祈りの主要な点を,自分の言葉でどのように要約できますか。

      12 聖書に記されている祈りすべての中でも特に教訓的なのは,イエス・キリストが甘い香りのする香のようにささげた,模範としての祈りです。ルカの福音書にはこうあります。「[イエスの]弟子のある者がこう言った。『主よ,ヨハネもその弟子たちに教えたように,わたしたちにも祈りの仕方を教えてください』。そこでイエスは彼らに言われた,『いつでもあなた方が祈るときには,こう言いなさい。「父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。その日の必要に応じてその日のためのパンをわたしたちにお与えください。また,わたしたちの罪をお許しください。わたしたち自身も,わたしたちに負い目のある者すべてを許しますから。そして,わたしたちを誘惑に陥らせないでください」』」。(ルカ 11:1-4。マタイ 6:9-13)暗唱させるためではなく一つの指針となるよう意図された,この祈りについて考察しましょう。

      13 「父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」という言葉の重要性を,あなたはどのように説明しますか。

      13 「父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」。エホバに向かって父と呼びかけることは,神に献身した僕だけの特権です。心配なことがあればすぐ憐れみ深い父親のもとに行く子供のように,わたしたちは定期的に神への品位ある敬虔な祈りに時間を費やすべきです。(詩編 103:13,14)わたしたちの祈りには,エホバのみ名が神聖なものとされることに対して自分の抱く関心を反映させるべきです。なぜなら,わたしたちはみ名に浴びせられてきた非難すべてが晴らされるのを見たいと切に思っているからです。そうです,エホバのみ名が取り分けられて,聖なるもの,すなわち神聖なものとみなされることを望んでいるのです。―詩編 5:11; 63:3,4; 148:12,13。エゼキエル 38:23。

      14 「あなたの王国が来ますように」と祈ることは何を意味しますか。

      14 「あなたの王国が来ますように」。王国とは,メシアによる天的な政府を通して表明されるエホバの支配権のことであり,その政府は神のみ子およびイエスと共になる「聖なる者たち」の手中にあります。(ダニエル 7:13,14,18,27。啓示 20:6)その王国は間もなく,地上で神の主権に反対するすべての者たちを攻めるために『来て』,これを舞台から除き去ります。(ダニエル 2:44)その時,エホバのご意志は天におけると全く同じように,地上においてもなされます。(マタイ 6:10)宇宙主権者に忠節に仕える被造物すべてに何と大きな喜びがもたらされるのでしょう。

      15 エホバに「その日のためのパン」を求めることは何を示唆していますか。

      15 「その日の必要に応じてその日のためのパンをわたしたちにお与えください」。エホバに「その日のための」食物を求めることは,食料を大量にではなく,一日の必要な分だけ願い求めることを示唆しています。わたしたちは,神が与えてくださることを信じますが,自らも働き,食物その他の必需品を得るために,何であれふさわしい手段があれば活用します。(テサロニケ第二 3:7-10)もちろん,そうした必要物が手に入るのも,天におられる供給者の愛,知恵,力が背後に働いているからであり,わたしたちはその方に感謝すべきです。―使徒 14:15-17。

      16 どうすれば神の許しを受けられますか。

      16 「わたしたちの罪をお許しください。わたしたち自身も,わたしたちに負い目のある者すべてを許しますから」。わたしたちは,不完全で罪のある者であり,エホバの完全な規準に十分かなうことはできません。ですから,イエスの贖いの犠牲に基づいて神の許しを求める必要があります。しかし,「祈りを聞かれる方」にその犠牲の価値を自分の罪に適用していただきたいのであれば,悔い改めていなければならず,神から与えられるどんな懲らしめも進んで受けなければなりません。(詩編 65:2。ローマ 5:8; 6:23。ヘブライ 12:4-11)さらに,わたしたちは,「わたしたちに負い目のある人々」,つまりわたしたちに罪を犯した人々を「許し(て)」初めて,自分も神に許していただけると期待できます。―マタイ 6:12,14,15。

      17 「わたしたちを誘惑に陥らせないでください」という言葉はどういう意味ですか。

      17 「わたしたちを誘惑に陥らせないでください」。聖書は,神が物事を単に許しているにすぎなくても,エホバがそれを行なっておられると述べている場合があります。(ルツ 1:20,21)神は,わたしたちを誘惑して罪を犯させることなどされません。(ヤコブ 1:13)悪を行なわせようとする誘惑は,悪魔や,わたしたちの罪深い肉体や,この世からのものです。サタンは,わたしたちを操って神に罪を犯させようとする誘惑者です。(マタイ 4:3。テサロニケ第一 3:5)「わたしたちを誘惑に陥らせないでください」と願い求めるとき,わたしたちは,自分が神に背くよう誘惑されるような時にも,それに負けるままにさせないでください,と言っているのです。神はわたしたちが「邪悪な者」サタンに屈したり,打ち負かされたりしないように導くことがおできになります。―マタイ 6:13。コリント第一 10:13。

      祈りに調和した努力をする

      18 幸せな結婚や家族生活を願うのであれば,どのように祈りに調和した努力をすることができますか。

      18 イエスの教えた模範的な祈りは主要な点を包含していますが,わたしたちはどんな事柄についても祈ることができます。例えば,幸せな結婚をしたいという願いについて祈るかもしれません。結婚まで貞潔を保つために,自制心を祈り求めることでしょう。そうであれば,不道徳な文書や娯楽を避けることにより,祈りに調和した努力をしましょう。また,『主にある者とだけ結婚』するという決意も固めましょう。(コリント第一 7:39。申命記 7:3,4)そして結婚したなら,神の助言を当てはめることにより,幸せを求める祈りに調和した努力をしてゆく必要があります。また,子供を持つ身であれば,子供がエホバの忠実な僕となるようにと祈りますが,それで十分というわけではありません。聖書研究を通して,また定期的にクリスチャンの集会に子供と一緒に出席することにより,神の真理を子供の思いに植え付けるために,できる限りのことをしなければなりません。―申命記 6:5-9; 31:12。箴言 22:6。

      19 宣教奉仕について祈っているのであれば,何をすべきですか。

      19 わたしたちは宣教奉仕に祝福を祈り求めているでしょうか。では,そのような祈りに調和した行動として,王国を宣べ伝える業に意味ある仕方で参加しましょう。もし永遠の命に至る道を歩むよう他の人を助ける機会を祈り求めるのであれば,関心を示した人について十分な記録を取り,自分の予定の中に家庭聖書研究を司会する時間を進んで設ける必要があります。開拓者となって全時間の宣べ伝える業を始めたいと思っているなら,どうでしょうか。その場合は,祈りに調和した段階的行動として,自分の宣べ伝える活動を増やし,宣教奉仕を開拓者たちと一緒に行ないましょう。そのような段階を踏むことは,祈りに調和した努力をしている証拠となります。

      20 次の記事ではどんなことを考察しますか。

      20 わたしたちは,エホバに忠実に仕えていれば,自分がご意志に調和した祈りをするとき神が答えてくださることを確信できます。(ヨハネ第一 5:14,15)確かに,聖書に記されている祈りを幾つか調べて,有益な点をいろいろ学べました。次の記事では,『祈りをエホバのみ前の香として調え』たいと思っている人のための他の聖書的な指針を考察します。

  • 忠節な手を挙げて祈りなさい
    ものみの塔 1999 | 1月15日
    • 忠節な手を挙げて祈りなさい

      「わたしは,どの場所でも男が祈りをし,忠節な手を挙げ,憤りや議論から離れているように望みます」― テモテ第一 2:8。

      1,2 (イ)テモテ第一 2章8節は,エホバの民の関係する祈りにどのように当てはまりますか。(ロ)これからどんなことを考察しますか。

      エホバは,ご自分の民がご自分に対して,また互いに対して忠節であることを期待されます。使徒パウロは忠節さを祈りと結び付けました。「わたしは,どの場所でも男が祈りをし,忠節な手を挙げ,憤りや議論から離れているように望みます」と書いています。(テモテ第一 2:8)パウロは,クリスチャンの集まり合う「どの場所でも」ささげる公の祈りのことを述べていたようです。会衆の集会でだれが神の民を代表して祈ることになっていたでしょうか。それは,神に対する聖書的な責務すべてを注意深く守り行なっている,聖なる,義にかなった,敬虔な男子だけでした。(伝道の書 12:13,14)それらの人は,霊的また道徳的に清く,疑問の余地なくエホバ神に専心していなければなりませんでした。

      2 とりわけ,会衆の長老たちは,『忠節な手を挙げて祈る』べきです。長老がイエス・キリストを通して心のこもった祈りをささげることは,神に忠節を示すものであると共に,議論したり,つい憤ってしまったりするのを避ける助けになります。実際,だれであれクリスチャン会衆を代表して公の祈りをささげる特権を与えられる男子は,憤りや恨みを抱いていない,またエホバとその組織に不忠節ではない人であるべきです。(ヤコブ 1:19,20)聖書にはほかにも,他の人たちを代表して公の祈りをささげる特権を与えられる人のための,どんな指針があるでしょうか。また,わたしたちが個人的な祈りや家族でささげる祈りに適用すべき,どんな聖書的原則があるでしょうか。

      祈るべき事柄を前もって考えなさい

      3,4 (イ)公の祈りに含めるべき事柄を前もって考えることが有益なのはなぜですか。(ロ)祈りの長さに関して聖書は何を示していますか。

      3 公の祈りをささげるよう求められた場合,恐らく,祈るべき事柄を少しは前もって考えることができるでしょう。そうすれば,ふさわしい重要な事柄をすべて含めても,長々しい,とりとめのない祈りにはならないかもしれません。もちろん,個人的な祈りは,声に出してささげることもできますし,どれほど長いものでもよいでしょう。イエスは,12使徒を選ぶ前に,夜通し祈られました。しかし,ご自分の死の記念式を制定された時の,パンとぶどう酒に関する祈りは,むしろ短いものであったようです。(マルコ 14:22-24。ルカ 6:12-16)そして,イエスの祈りは短くても神に全く受け入れられるものであったことを,わたしたちは知っています。

      4 仮に自分が,家族を代表して食事の前に祈る特権を与えられたとしましょう。そのような祈りは,かなり短いかもしれません。しかし,何を言うにせよその祈りには食物に対する感謝の言葉を含めるべきです。クリスチャンの集会の前か後に公の祈りをささげる場合も,多くの点を含めた長い祈りをする必要はありません。イエスは,「見せかけのために長い祈りをする」書士たちを批判されました。(ルカ 20:46,47)敬虔な人は,決してそのような祈りをしたいとは思わないでしょう。しかし,公の祈りは長めであってもふさわしい場合があります。例えば,大会で結びの祈りをささげるよう選ばれた長老は,祈る事柄を前もって考えるべきであり,幾つかの要点に触れたいと思うかもしれません。しかし,そのような祈りでも,過度に長いものであってはなりません。

      恭しく神に近づきなさい

      5 (イ)わたしたちは,公の祈りをささげるとき,どんなことを念頭に置くべきですか。(ロ)品位ある敬意のこもった祈りをすべきなのはなぜですか。

      5 わたしたちは,公の祈りをささげているとき,人間に語りかけているのではないことを忘れるべきではありません。わたしたちは,主権者なる主エホバに請願する,罪ある被造物なのです。(詩編 8:3-5,9; 73:28)ですから,言う事柄や言い表わし方によって神に不快感を与えないように,という恭しい恐れをはっきり示すべきです。(箴言 1:7)詩編作者ダビデはこう歌いました。「わたしは,あなたの豊かな愛ある親切によってあなたの家に入り,あなたへの恐れを抱きつつ,あなたの聖なる神殿に向かって身をかがめます」。(詩編 5:7)そのような態度でいるなら,エホバの証人の集会で公の祈りをささげるよう求められた場合,どのように考えや気持ちを言い表わせるでしょうか。もしも人間の王に話しかけるとすれば,敬意のこもった品位ある話し方をすることでしょう。であれば,「とこしえの王」であられるエホバに祈るときには,なおさら品位ある敬意のこもった祈りをすべきではないでしょうか。(啓示 15:3)ですから,祈りの中で「エホバ,おはよう」とか,「わたしたちからの愛を送ります」とか,「よい一日をお過ごしください」といった表現は避けるはずです。聖書を読むと分かりますが,神の独り子イエス・キリストが天の父にそのように語りかけたことは一度もありません。

      6 『過分のご親切のみ座に近づく』とき,どんなことを念頭に置くべきですか。

      6 パウロは,「はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか」と述べました。(ヘブライ 4:16)わたしたちは罪のある者ではあっても,イエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を抱いているので,「はばかりのないことば」でエホバに近づくことができます。(使徒 10:42,43; 20:20,21)しかし,その「はばかりのないことば」とは,神とおしゃべりをするという意味ではなく,また,神に無礼なことを言ってもよいという意味でもありません。自分の公の祈りをエホバに喜んでいただけるものにしたいなら,適切な敬意と品位をもってささげなければなりません。祈りの中で発表を行なったり,個人に対する助言を述べたり,聞いている人たちに説教をしたりするのはふさわしいことではありません。

      謙遜な霊をもって祈りなさい

      7 ソロモンは,エホバの神殿を献納するに当たって祈りをささげた際,どのように謙遜さをはっきり表わしましたか。

      7 公の祈りをするときでも,個人的に祈るときでも,念頭に置くべき重要な聖書的原則は,祈りに謙遜な態度を表わすということです。(歴代第二 7:13,14)ソロモン王は,エルサレムに建てたエホバの神殿を献納した時,公の祈りの中で,謙遜さを表わしました。ソロモンは,かつて地上に築かれた最も壮大な建造物の一つを完成させたばかりでしたが,謙遜な態度でこう祈りました。「神は本当に地の上に住まわれるでしょうか。ご覧ください,天も,いや,天の天も,あなたをお入れすることはできません。まして,私の建てたこの家など,なおさらのことです!」―列王第一 8:27。

      8 公の祈りをささげる際,どのように謙遜さを表わせますか。

      8 ソロモンと同じようにわたしたちも,他の人々を代表して公の祈りをささげる時,謙遜でなければなりません。信心家ぶった口調は避けるべきですが,謙遜さは声の調子によって示される場合もあります。謙遜な祈りは,大げさな,あるいは芝居がかった印象を与えません。皆の注意を,祈っている自分にではなく,自分が語りかけている方に向けます。(マタイ 6:5)謙遜さはまた,祈りの中で言う事柄によっても示されます。謙遜な態度で祈るのであれば,神に対して,こちらの言うとおりに物事を行なうよう要求しているかのような言い方はしないでしょう。むしろ,エホバにその神聖なご意志に沿って行動してくださるよう請願します。詩編作者は,その良い例となる正しい態度を示しました。こう嘆願しています。「ああ,どうか,エホバよ,救ってください。お願いです! ああ,どうか,エホバよ,成功させてください。お願いです!」―詩編 118:25。ルカ 18:9-14。

      心から祈りなさい

      9 マタイ 6章7節にはイエスの与えたどんな良い助言がありますか。それをどのように適用できますか。

      9 公の,あるいは個人的な祈りをエホバに喜んでいただけるものにしたいなら,心から祈らなければなりません。ですから,自分が何を言っているのかも考えずにただ型どおりの言葉を何度も繰り返すだけ,というような祈りはしません。イエスは,山上の垂訓の中でこう助言しました。「祈る際には,諸国の人々がするように同じことを何度も繰り返し言ってはなりません。彼らは言葉を多くすれば聞かれると[間違って]思っているのです」。言い換えれば,「べらべらと言葉を出してはなりません; むだな繰り返しを述べてはなりません」とイエスは言われたのです。―マタイ 6:7; 脚注。

      10 同じ事柄について再三祈るとしても,それはなぜ適切なことですか。

      10 もちろん,同じ事柄について何度となく祈る必要もあるでしょう。それは間違ったことではありません。「求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます」とイエスは言われたからです。(マタイ 7:7)もしかしたら,地元での宣べ伝える業をエホバが伸展させておられるので新しい王国会館を必要としているかもしれません。(イザヤ 60:22)個人的に祈る際,あるいはエホバの民の集会で公の祈りをささげる際に,いつもその必要について述べるのは適切なことでしょう。そのようにするとしても,『むだな繰り返しを述べている』ことにはなりません。

      感謝と賛美を忘れてはならない

      11 フィリピ 4章6,7節は,個人的な祈りや公の祈りにどのように当てはまりますか。

      11 多くの人は何かを願い求めるときにだけ祈りますが,わたしたちはエホバ神への愛に促されて,個人的な祈りの中でも公の祈りの中でも感謝と賛美をささげるべきです。パウロはこう書いています。「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」。(フィリピ 4:6,7)そうです,祈願と請願だけでなく,霊的また物質的な祝福を与えてくださるエホバに感謝を言い表わすこともすべきなのです。(箴言 10:22)詩編作者は,「感謝のことばをあなたの犠牲として神にささげ,あなたの誓約を至高者に果たせ」と歌いました。(詩編 50:14)また,祈りのこもったダビデの調べには,「わたしは歌をもって神のみ名を賛美し,感謝をもって神を大いなるものとします」という感動的な言葉が含まれていました。(詩編 69:30)わたしたちも公の祈りや個人的な祈りの中で同じようにすべきではないでしょうか。

      12 詩編 100編4,5節は今日どのように成就していますか。したがって,何について神に感謝し,神を賛美することができますか。

      12 詩編作者は,神に関してこう歌いました。「感謝のことばをもってその門に入れ。賛美をもってその中庭に入れ。神に感謝をささげ,そのみ名をほめたたえよ。エホバは善良な方だからである。その愛ある親切は定めのない時に及び,その忠実さは代々に及ぶ」。(詩編 100:4,5)今日,あらゆる国の民がエホバの聖なる所の中庭に入って来ています。ですから,わたしたちはそのことで神に賛美と感謝をささげることができます。あなたは地元の王国会館について神に感謝の意を表わし,神を愛する人たちと一緒に定期的にそこに集まることによって正しい認識を示しますか。また,そこにいて,愛情深い天の父への賛美と感謝の歌を歌う時には,心から声を上げますか。

      祈ることを恥じてはならない

      13 わたしたちは,罪を意識してふさわしくないように思える場合でも,エホバに祈願すべきですが,そのことを示すどんな聖書的な例がありますか。

      13 わたしたちは,罪を意識してふさわしくないように思える場合でも,神に心を向けて真剣に祈願をささげるべきです。ユダヤ人たちが異国の妻をめとることによって罪を犯したとき,エズラはひざまずき,神に自分の忠節なたなごころを伸べて,謙遜な態度でこう祈りました。「私の神よ,私は実際恥ずかしくて,私の神よ,あなたに向かって顔を上げることにもまごついております。私たちのとがは,私たちの頭の上に増し加わり,私たちの罪科は増大して天にまで達したからです。私たちの父祖の時代から今日に至るまで,私たちは大いなる罪科の中にありました。……そして,私たちの悪い行ないと大いなる罪科のために私たちに臨んだすべてのことの後 ― 私たちの神よ,あなたは,私たちのとがを実際より軽く見てくださり,このような逃れた者たちを私たちに与えてくださったので ― 私たちは再びあなたのおきてを破り,これら忌むべきことをする民と姻戚関係を結んでよいでしょうか。あなたは私たちに対して極度にいきり立ち,残る者も,逃れる者もいないようにされるのではないでしょうか。イスラエルの神エホバよ,あなたは義にかなっておられます。私たちは今日のように,逃れた者として残されているからです。ご覧ください,私たちは罪科のうちにみ前におります。このことのためにみ前に立つことができないからです」― エズラ 9:1-15。申命記 7:3,4。

      14 エズラの時代の例にも見られるように,神に許していただくためには何が必要ですか。

      14 神に許していただくためには,神に告白すると共に,悔恨の念や「悔い改めにふさわしい実」も示さなければなりません。(ルカ 3:8。ヨブ 42:1-6。イザヤ 66:2)エズラの時代に見られた悔い改めの態度には,異国の妻を去らせることにより悪を正すという努力が伴っていました。(エズラ 10:44。コリント第二 7:8-13と比較してください。)もし重大な悪行を犯したために神の許しを求めるのであれば,謙遜な態度で祈って告白し,悔い改めにふさわしい実を生み出しましょう。また,悔い改めの霊を持ち,悪を正したいという願いがあれば,それに促されてクリスチャンの長老たちの霊的な助けを求めることでしょう。―ヤコブ 5:13-15。

      祈ることによって慰めを受けなさい

      15 ハンナの経験は,祈ることで慰めが得られることを,どのように示していますか。

      15 わたしたちは,何らかの理由で心が痛むとき,祈ることで慰めが得られます。(詩編 51:17。箴言 15:13)忠節なハンナは慰めを得ました。ハンナは,イスラエルで子だくさんが普通であった時代に生きていましたが,一人も子供を産んでいませんでした。夫のエルカナはもう一人の妻ペニンナによって息子や娘たちをもうけており,ペニンナはハンナをうまずめとしてあざけりました。ハンナは真剣に祈り,もし恵みとして息子を与えられるなら,「その子をその一生の間エホバにおささげ致します」と約束しました。祈ったことにより,また大祭司エリの言葉によって慰められ,ハンナは「もはや自分のことを気遣っているようではな(くなり)」ました。ハンナは男の子を産み,これをサムエルと名づけました。そして,後にその子をエホバの聖なる所での奉仕のために引き渡しました。(サムエル第一 1:9-28)ハンナは,自分に対する神のご親切をありがたく感じ,感謝の祈りをささげました。それはエホバを比類のない方としてたたえる祈りでした。(サムエル第一 2:1-10)わたしたちもハンナのように,神はご自分の意志にかなった事柄であればどんな求めにも答えてくださる,と確信して祈ることにより慰めを受けられます。神に心の内をすっかり話したなら,「もはや自分のことを気遣(わない)」ようにしましょう。神が重荷を取り除いてくださるか,あるいはわたしたちがその荷を担えるようにしてくださるからです。―詩編 55:22。

      16 ヤコブの例に示されているとおり,不安になったり心配になったりした時,なぜ祈るべきですか。

      16 もし何らかの状況で,恐れや,心痛,あるいは心配が生じたなら,必ず神に心を向け,慰めを求めて祈りましょう。(詩編 55:1-4)ヤコブは,疎遠になっていた兄エサウと間もなく会うという時,不安になりました。それでも,ヤコブはこう祈りました。「わたしの父アブラハムの神,父イサクの神,エホバ,『あなたの土地に,あなたの親族のもとに帰れ。あなたに良いことがあるようにしよう』と言っておられる方よ,私は,あなたがこの僕にお示しくださったすべての愛ある親切と忠実さとには値しない者です。ただ自分の杖だけを携えてこのヨルダンを渡りましたのに,今わたしは二つの宿営となっているのです。お願い致します。わたしの兄弟の手から,エサウの手から私を救い出してください。わたしは彼を恐れているのです。やって来て,きっとわたしを,母も子もともに襲うのではないかと。ですがあなたご自身は,『わたしは必ずあなたに良いことがあるようにし,あなたの胤を海の砂の粒のようにする。それは多くて数えつくせない』と言われたのです」。(創世記 32:9-12)エサウはヤコブとその付き添いの者たちを襲いませんでした。ですから,エホバはその時ヤコブに『良いことがあるようにされた』のです。

      17 詩編 119編52節に調和して,厳しい試練を受けたときに祈ると,どのように慰められますか。

      17 わたしたちは,祈願をささげている間中,神の言葉の中で言われている事柄を思い起こせば,慰められるかもしれません。最も長い詩編 ― 曲をつけた美しい祈り ― の中で,「エホバよ,わたしは定めのない時からあなたの司法上の定めを思い出しました。そして自分のために慰めを見いだします」と歌ったのは王子ヒゼキヤだったかもしれません。(詩編 119:52)わたしたちも,厳しい試練を受けたときに謙遜な態度で祈ると,聖書の原則や律法を思い起こせる場合があります。その原則や律法が,自分は天の父に喜ばれているという慰めとなる確信をもたらす歩みを続けるための助けにもなるのです。

      忠節な人はたゆまず祈る

      18 『忠節な者は皆,神に祈る』と言えるのはなぜですか。

      18 エホバ神に対して忠節な人は皆,「たゆまず祈り」ます。(ローマ 12:12)詩編 32編は,ダビデがバテ・シバとの間で罪を犯した後に作詩されたものと思われますが,その中でダビデは,許しを求めなかった時の苦悩と,悔い改めて神に告白した時に得られた安堵について描写しています。その時ダビデはこう歌いました。「それゆえに[つまり,本当に悔い改めた者にはエホバの赦しがあるので],忠節な者は皆,あなたが見いだされる時にのみあなたに祈るのです」― 詩編 32:6。

      19 忠節な手を挙げて祈るべきなのはなぜですか。

      19 わたしたちは,エホバ神との関係を大切にするのであれば,イエスの贖いの犠牲に基づいて神の憐れみを祈り求めるでしょう。信仰のうちに,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づいて,憐れみと時宜にかなった助けを得ることができます。(ヘブライ 4:16)それにしても,祈るべき理由は実に沢山あります。ですから,「絶えず祈り」ましょう。しばしば心からの賛美と感謝の言葉をもってそうしましょう。(テサロニケ第一 5:17)昼も夜も,忠節な手を挙げて祈りましょう。

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