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  • 祈りを聞かれる方であるエホバを恐れなさい
    ものみの塔 1990 | 5月15日
    • 祈りを聞かれる方であるエホバを恐れなさい

      「祈りを聞かれる方よ,あなたのもとに,すべての肉なる者は来るのです」― 詩編 65:2。

      1 エホバは祈りによってご自分に近づくことを願う人たちに対して条件を設けておられる,と考えるべきなのはなぜですか。

      エホバ神は「とこしえの王」であられます。また「祈りを聞かれる方」でもあり,「すべての肉なる者は[その方のもとに]来るのです」。(啓示 15:3。詩編 65:2)しかし,彼らはどのようにしてとこしえの王のもとに来るべきでしょうか。地上の王たちは,謁見を許された者たちが守るべき服装や礼儀についての規定を設けます。そうであれば,とこしえの王はなおのこと,祈願と感謝をもってみ前に来ることを望む者が満たさねばならない条件を設けておられると考えて然るべきです。―フィリピ 4:6,7。

      2 祈りの問題について,どんな質問が生じますか。

      2 とこしえの王は,祈りのうちにご自分に近づく者たちに何を求めておられますか。だれが祈ることができ,だれの祈りが聞かれますか。また,何について祈ることができますか。

      とこしえの王に近づく

      3 神の昔の僕たちがささげた祈りのどんな例を挙げることができますか。彼らは仲介者を通して神に近づきましたか。

      3 「神の子」であったアダムは罪人になる前,とこしえの王と親しく会話したようです。(ルカ 3:38。創世記 1:26-28)アダムの息子アベルが「自分の羊の群れの初子の中から」神にささげた時,その捧げ物には祈願と賛美の表現が伴っていたに違いありません。(創世記 4:2-4)ノア,アブラハム,イサク,ヤコブは祭壇を築き,捧げ物をもって祈りのうちにエホバに近づきました。(創世記 8:18-22; 12:7,8; 13:3,4,18; 22:9-14; 26:23-25; 33:18-20; 35:1,3,7)また,ソロモン,エズラ,神の霊感を受けた詩編作者たちの祈りは,イスラエル人がどんな仲介者をも通さずに神に近づいたことを示しています。―列王第一 8:22-24。エズラ 9:5,6。詩編 6:1,2; 43:1; 55:1; 61:1; 72:1; 80:1; 143:1。

      4 (イ)1世紀に,祈りによって神に近づくためのどんな新しい方法が制定されましたか。(ロ)イエスの名において祈りをささげることが特にふさわしいのはなぜですか。

      4 西暦1世紀には,祈りによって神に近づくための新しい方法が制定されました。それは,人類に対して特別な愛を抱いておられた,み子イエス・キリストを通して近づく方法でした。人間になる前のイエスは,人類に関係した事柄を好み,「優れた働き手」として喜びにあふれた奉仕を行なわれました。(箴言 8:30,31)地上の人間であった時のイエスは,愛をもって不完全な人間を霊的に助け,病気の人を治し,死者をよみがえらせることさえ行なわれました。(マタイ 9:35-38。ルカ 8:1-3,49-56)何よりもイエスは,『自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えられました』。(マタイ 20:28)ですから,贖いの益にあずかる人々が,それほどまでに人類を愛しておられるこの方を通して神に近づくのは,何とふさわしいことでしょう。今はこれだけが,とこしえの王に近づくための道です。イエスご自身こう言われたからです。「わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」。「あなた方が父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名によって与えてくださるのです」。(ヨハネ 14:6; 16:23)イエスの名によって何かを求めるということは,祈りを聞かれる方に近づく道としてイエスを認めることを意味しています。

      5 人類の世に対して神はどんな態度を示しておられますか。そのことと祈りにはどのような関係がありますか。

      5 わたしたちは特に,エホバが贖いを備えて示してくださった愛を認識すべきです。イエスはこう言われました。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされた(の)です」。(ヨハネ 3:16)神の愛の深さは次の詩編作者の言葉に見事に言い表わされています。「天が地よりも高いように,その愛ある親切はご自分を恐れる者たちに対して優れたもの……である。日の出が日没から遠く離れているのと同じく,神はわたしたちの違犯をわたしたちから遠くに離してくださった。父が自分の子らを憐れむように,エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。神ご自身がわたしたちの造りをよくご存じであり,わたしたちが塵であることを覚えておられるからだ」。(詩編 103:11-14)エホバの献身した証人たちの祈りがみ子を通し,これほど愛の深い父のもとに上ることを知ると,本当に心温まる思いがします。

      限られた特権

      6 祈りによってエホバに近づくには,どんな態度が必要ですか。

      6 人間の王なら,人が取り次ぎの案内も受けずだれかれなしに王宮に入って来るのを許しません。王に謁見するのは限られた特権です。とこしえの王への祈りもそれと同じです。言うまでもなく,神の栄光ある威光を正しく認識し,イエス・キリストを通して神に近づく人たちは,祈りが聞かれることを期待できます。とこしえの王には,崇敬の念のあふれた敬虔な態度で近づかなければなりません。また,祈りが聞かれることを願う人たちは,「エホバへの恐れ」を表わさなければなりません。―箴言 1:7。

      7 「エホバへの恐れ」とは何ですか。

      7 「エホバへの恐れ」とは何でしょうか。それは,神の不興を買うことに対する健全なおののきを伴った,神への深い崇敬の念のことです。この畏怖の念は,神の愛ある親切と善良さに対する深い感謝の気持ちから発します。(詩編 106:1)それは,神をとこしえの王,つまりご自分に従わない者にはだれにでも死を含む処罰をもたらす権利と力を持つ方として認めることを意味しています。エホバへの恐れを表わす人々は,祈りが聞かれることを期待して,神に祈ることができます。

      8 神がご自分を恐れる者たちの祈りをお聞きになるのはなぜですか。

      8 当然のことながら,神は邪悪な人,不忠実な人,独善的な人の祈りにはお答えになりません。(箴言 15:29。イザヤ 1:15。ルカ 18:9-14)しかしエホバを恐れる人々の祈りは聞かれます。神の義の規準に従ってきたからです。それに加えて,彼らはほかのことも行なってきました。エホバを恐れる人たちは祈りによって神に献身し,その象徴として水のバプテスマを受けました。彼らはそのようにして,祈りという無制限の特権を享受しています。

      9,10 バプテスマを受けていない人は,祈りが聞かれることを期待して祈ることができますか。

      9 神に聞いていただくためには,神のご意志に調和した,敬虔な気持ちを表わさなければなりません。誠実であるべきことも大切です。しかし,さらに多くのことが求められています。使徒パウロはこう書きました。「信仰がなければ,神を十分に喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分を切に求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」。(ヘブライ 11:6)では,バプテスマを受けていない人に,祈りが聞かれることを期待して祈るよう勧めることができますか。

      10 ソロモン王は祈りが限られた特権であることを知っていたので,エルサレムの神の神殿に向かって祈る外国人の祈りだけをお聞きになるようエホバに頼みました。(列王第一 8:41-43)何世紀か後,非ユダヤ人の外国人であったコルネリオは,篤信の人として「絶えず神に祈願をささげて」いました。コルネリオは正確な知識を得ると神に献身し,神はそのときコルネリオに聖霊をお与えになりました。そのあとコルネリオと他の異邦人たちはバプテスマを受けました。(使徒 10:1-44)今日でも,コルネリオのように献身を目ざして進歩している人であれば,祈ることを勧められるかもしれません。しかし,聖書研究への取り組み方が不誠実であり,祈りに関する神の条件も知らず,神を喜ばせる態度をいまだに示していない人については,エホバを恐れているとか,信仰を持っているとか,真剣に神を求めているとか言うことはできません。そのような人は神に受け入れられる祈りをささげられる立場にはいません。

      11 献身を目ざして進歩していたある人々にどんなことが起きましたか。そのような人々はどんなことを自問すべきですか。

      11 ある人々は,献身を目ざして進歩した時期があったものの,その後はしりごみしているように見えるかもしれません。心の中にある神への愛が,神に無条件の献身をするほどに強くないとしたら,それでも自分は祈りのすばらしい特権を持っているかどうかと自問してみるべきです。恐らくその特権はないでしょう。神に近づく者たちは,神と義と柔和を真剣に求めていなければならないからです。(ゼパニヤ 2:3)本当にエホバを恐れる人は皆,神に献身し,その象徴としてバプテスマを受けた信者です。(使徒 8:13; 18:8)また,祈りによってとこしえの王に近づく無制限の特権を得ているのは,バプテスマを受けた信者だけです。

      「聖霊をもって祈る」

      12 どのような場合に,人は『聖霊をもって祈っている』と言えますか。

      12 神に献身し,その象徴としてバプテスマを受けたなら,その人は「聖霊をもって祈る」ことのできる立場にあります。その点についてユダはこう書きました。「しかし,愛する者たちよ,あなた方は,自分の抱く極めて聖なる信仰の上に自らを築き上げ,聖霊をもって祈ることにより,自分を神の愛のうちに保ちなさい。そして,永遠の命を目ざしつつわたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ちなさい」。(ユダ 20,21)神の霊つまり活動力の影響のもとで,また神の言葉に述べられている事柄と調和して祈るとき,人は聖霊をもって祈っているのです。エホバの霊の霊感を受けて書かれた聖書は,祈り方と,祈りによって何を求めることができるかをわたしたちに示しています。例えばわたしたちは,神がご自分の聖霊を与えてくださるとの確信をもって祈ることができます。(ルカ 11:13)聖霊をもって祈るとき,わたしたちの祈りは,エホバが愛しておられる心の状態を明らかにします。

      13 聖霊によって祈るとき,わたしたちはどんなことを避けますか。また,イエスのどんな諭しを当てはめますか。

      13 聖霊をもって祈るとき,わたしたちの祈りは仰々しい言葉の羅列とはなりません。その祈りは,機械的に繰り返される祈祷文ではありません。その祈りには,事実上無意味な栄誦,賛美の不誠実な表現は含まれていません。キリスト教世界および偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの残りの部分には,その種の祈りが氾濫しています。しかし,真のクリスチャンは,次のイエスの諭しに注意を払います。「祈るとき,あなた方は偽善者のようであってはなりません。彼らは他の人の目にとまるよう,会堂の中や主要な街路の角に立って祈ることを好むからです。……また,祈る際には,異教徒のように言葉をただ繰り返してはなりません。彼らは,自分たちの言う言葉の多さによって聴いてもらえると[誤って]考えているからです。ですから,彼らのようであってはなりません」― マタイ 6:5-8,バイイングトン訳。

      14 ある人々は祈りについて,洞察力のあることを示すどんな意見を述べていますか。

      14 イエスや聖書筆者のほかにも,祈りについて洞察力のある意見を述べた人たちがいます。例えば,イギリスの作家ジョン・バニヤン(1628-1688年)は次のように言いました。「祈りは,神が約束しておられるような事柄を求めて,聖霊の力と助けにより,キリストを通し,誠実な,分別のある,そして愛情の込もった態度で神に魂を注ぎ出すことである」。清教徒の牧師であったトマス・ブルックス(1608-1680年)はこのように述べています。「神は,あなたの祈りがどれほど気品のあるものか,祈りの雄弁術に注目されることはない。また,あなたの祈りがどれほど長いか,祈りの幾何学に注目されることもない。あなたの祈りがどれほど多いか,祈りの数学に注目されることもない。神は,あなたの祈りがどれほど整然としているか,祈りの論理学に注目されることはない。神は祈りの誠実さに注目される」。さらにバニヤンが,「祈りにおいては,心の伴わない言葉よりも,言葉の伴わない心のほうが価値がある」という見解を述べたことも付け加えてよいでしょう。しかし,わたしたちが誠実であって神が求めておられる条件を満たしているなら,とこしえの王がわたしたちの祈りを聞いてくださるということを,どうして確信できますか。

      追い返されることは決してない

      15 イエスはルカ 11章5-8節で,要するにどんなことを言われましたか。

      15 エホバ神はご自分の献身した僕たちの祈りに耳をふさぐようなことは決してされません。その点は,弟子たちが祈りに関する教えを求めたときの心温まるイエスの言葉に明確に示されています。イエスは一部次のように言われました。「あなた方のうち,友人がいて,真夜中にそのもとに行き,『友よ,パンを三つ貸してください。友人が旅の途中でちょうど今わたしのところに来たのですが,出す物が何もないものですから』と言うのはだれでしょうか。そして,その人が中から答えてこう言うのです。『わたしを煩わすのはよしてくれ。戸にはもう錠が下ろしてあるし,幼子たちはわたしと一緒に寝床に入っているのだ。起きて行ってあなたに物を上げることなどできない』。あなた方に言いますが,その人は,自分が彼の友だということでは起きてきて物を与えないとしても,その大胆な執ようさのゆえには,必ずや起きてきてその必要とする物を与えるでしょう」。(ルカ 11:1,5-8)この例えの要点は何でしょうか。

      16 イエスは祈りに関して,わたしたちが何をすることを望んでおられましたか。

      16 イエスは,エホバがわたしたちを助けるのをいやがっておられると言われたのでは決してありません。むしろキリストは,わたしたちが神に全幅の信頼を寄せ,絶え間なく祈るほどに神を愛することを願っておられるのです。それでイエスは続けてこう言われました。「わたしはあなた方に言います。求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです」。(ルカ 11:9,10)ですから,迫害や何らかの根深い個人的な弱点に関する悩みなど,どんな試練を経験する場合でも,わたしたちは確かに祈り続けなければなりません。エホバには,ご自分の忠実な僕たちを助ける備えが常にできているのです。エホバは決して,「わたしを煩わすのはよしてくれ」などとはおっしゃいません。

      17,18 (イ)聖霊を求めるよう,イエスはどのようにわたしたちを励ましておられますか。また,何を知ればイエスの言葉は強力になりますか。(ロ)イエスは,地上の親の行動と神の行動をどのように比較されましたか。

      17 もしわたしたちが神との親密な関係を享受したいのであれば,聖霊,つまり活動力が必要になります。そのためイエスは続けて次のように言われました。「実際,あなた方のうちどの父親が,自分の子が魚を求める場合に,魚のかわりに蛇を渡すようなことをするでしょうか。あるいはまた,卵を求める場合に,さそりを渡したりするでしょうか。それで,あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供に良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天の父は,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださるのです」。(ルカ 11:11-13)マタイ 7章9節から11節は,パンのかわりに石を与えることについて述べています。聖書の地で古代に作られたパンの大きさと形が,平たくて丸い石のようであったことを知ると,イエスの言葉は一層強力なものになります。ある種の蛇はある種の魚に似ています。また,やや卵に似た小さくて白いさそりがいます。しかし,パンや魚や卵を求められた場合に,どんな父親が子供に石や蛇やさそりを与えるでしょうか。

      18 イエスは次に,地上にいる親が子供に対してどのように行動するかということを,神がご自分の崇拝者の家族の成員に対してどのように行動されるかということと比較されました。わたしたちが受け継いだ罪深さのゆえに多少邪悪な者であるとしても,自分の子供たちに良い贈り物をするのであれば,わたしたちの天の父は,謙遜に求める忠節な僕たちにすばらしい聖霊という贈り物を与えてくださるということには,ずっと大きな期待を抱くべきです。

      19 (イ)ルカ 11章11-13節およびマタイ 7章9-11節に記されているイエスの言葉には,何が示唆されていますか。(ロ)もしわたしたちが聖霊に導かれるなら,自分の試練をどのようにみなしますか。

      19 イエスの言葉は,わたしたちが神の聖霊をより多く求めるべきであることを示唆しています。わたしたちが聖霊に導かれるなら,「自分の境遇について不平を言う」ことはなく,試練や落胆を自分にとって実際に有害なものとはみなさないでしょう。(ユダ 16)確かに,「女から生まれた人は,短命で,動揺で飽き飽きさせられ」,多くの人は,生きて自分の問題や心痛が終わるのを見ることがありませんでした。(ヨブ 14:1)しかし,自分の試練は,祈りを聞かれる方がなぜかわたしたちに渡された石や蛇やさそりであるなどと,決して考えないようにしましょう。神は愛そのものであられ,だれかを悪いことで試練に遭わせるようなことはされません。むしろ,「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物」をわたしたちに与えてくださいます。そして究極的には,ご自分を愛し恐れる者すべてにとって万事がよくなるようにされるのです。(ヤコブ 1:12-17。ヨハネ第一 4:8)幾年も真理のうちを歩んできた人たちは,自分に臨んだ最も厳しい試練が,祈りと信仰を通して自分たちの益となり,生活における神の霊の実を増し加えてきたことを,経験から理解しています。(ヨハネ第三 4)実際,わたしたちの天の父に頼って,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制といった霊の実を培う助けを得る方法として,これに勝る方法がほかにあるでしょうか。―ガラテア 5:22,23。

      20 ルカ 11章5-13節に記されているイエスの言葉は,わたしたちにどんな影響を与えるはずですか。

      20 このように,ルカ 11章5節から13節に記されているイエスの言葉は,エホバの愛と優しい世話に関する祝福された保証をわたしたちに与えています。それによりわたしたちの心は,最大の感謝と愛に満たされるはずです。また,信仰が強められ,とこしえの王の足台にしばしば近づき,愛にあふれた神のみ前にいつまでもいたいという願いが深まるはずです。さらにイエスの言葉は,わたしたちがむなしく追い返されるようなことは決してないことを保証しています。わたしたちの天の父は,わたしたちが自分の重荷を父にゆだねるようになることを非常に喜ばれるのです。(詩編 55:22; 121:1-3)それに,わたしたちが神の献身した忠実な僕として聖霊を願い求める時,神はそれを惜しまず与えてくださいます。これがわたしたちの愛ある神なのです。ですからわたしたちは,神がわたしたちの祈りを聞かれる方であることを十分信じることができます。

  • 「わたしたちにも祈りの仕方を教えてください」
    ものみの塔 1990 | 5月15日
    • 「わたしたちにも祈りの仕方を教えてください」

      「弟子のある者がこう言った。『主よ,……わたしたちにも祈りの仕方を教えてください』」― ルカ 11:1。

      1-3 (イ)イエスの弟子たちが祈りに関する教えを求めたのはなぜですか。(ロ)祈りについて,どんな質問が生じますか。

      ある人々は立派な歌声に恵まれています。演奏家として天性の才能を持った人もいます。しかし,それらの歌手や演奏家たちでさえ,能力を最大限に発揮するには,教わる必要があります。祈りの場合も同じです。イエス・キリストの弟子たちは,自分たちの祈りを神に聞いていただくには,教わる必要があることを理解するようになりました。

      2 イエスはいつもは個人的に祈ることによって父のもとへ行かれました。十二使徒を選ぶ前にもそのようにされ,夜を徹して祈られました。(ルカ 6:12-16)イエスは弟子たちにも個人的に祈ることをお勧めになりましたが,弟子たちはイエスが公に祈られるのを聞き,イエスが,人に見られたくて祈る偽善的な宗教家のようではないことに注目しました。(マタイ 6:5,6)ですから,イエスの追随者たちが,祈りに関するさらに進んだ教えを求めたのは当然のことでした。そういうわけで,こう記されています。「さて,イエスがある場所にいて祈りをしておられた時のこと,それを終えられると,弟子のある者がこう言った。『主よ,[バプテスマを施す人]ヨハネもその弟子たちに教えたように,わたしたちにも祈りの仕方を教えてください』」― ルカ 11:1。

      3 イエスはどのように答えられましたか。わたしたちはイエスの模範から何を学べるでしょうか。また,祈りに関するイエスの教えからどんな益が得られますか。

      わたしたちに対する教訓

      4 わたしたちが『絶えず祈る』べきなのはなぜですか。そうすることにはどんな意味がありますか。

      4 わたしたちは,祈りの人としてのイエスの言葉と模範から多くを学ぶことができます。一つの教訓は,神の完全なみ子にとっても定期的に祈る必要があったのであれば,不完全なその弟子たちが導きと慰めと霊的な支えを求めて絶えず神に頼る必要はもっと大きいということです。ですから,『絶えず祈る』べきです。(テサロニケ第一 5:17)もちろん,それは,いつも文字通りひざまずいていなければならないという意味ではありません。むしろ,終始祈りの態度を保たなければならないということです。洞察力をもって行動できるよう,また常に神の是認を得られるよう,生活のあらゆる面で神の導きに頼るべきです。―箴言 15:24。

      5 祈りに用いるべき時間が何に奪われることがありますか。そのことに関して,わたしたちは何をすべきですか。

      5 この「終わりの日」には,祈りに費やすべき時間がさまざまな事柄に奪われることがあります。(テモテ第二 3:1)しかし,もし家庭内の心配事や仕事のことなどで,天の父に対する定期的な祈りが妨げられているとすれば,わたしたちは今の生活に関係した事柄にかまけ過ぎていることになります。そのような状況はすぐにでも正さなければなりません。祈りを怠ることは,信仰の喪失につながります。世俗の責任を軽くするか,より真剣に,また頻繁に心を神に向けて導きを求め,生活の心配を相殺しなければなりません。わたしたちは「祈りのために目をさまして」いるべきなのです。―ペテロ第一 4:7。

      6 これからどんな祈りについて,またどんな目的で研究しますか。

      6 イエスはいわゆる模範的な祈りの中で,細かな言葉遣いではなく,祈りの仕方をご自分の弟子たちに教えられました。ルカの記述は,関係する場面が異なるため,マタイの記述と少し異なっています。ではイエスの追随者またエホバの証人としてのわたしたちの祈りになければならない特質を示す実例として,この祈りを研究しましょう。

      わたしたちの父とそのみ名

      7 エホバに「わたしたちの父よ」と呼びかける特権を得ているのはだれですか。

      7 「天におられるわたしたちの父よ」。(マタイ 6:9。ルカ 11:2)エホバは人類の創造者であられ,天の領域に住んでおられますから,エホバに向かって,「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるのはふさわしいことです。(列王第一 8:49。使徒 17:24,28)「わたしたちの」という言葉を用いるのは,他の人たちも神と親しい関係にあることを認めているからです。しかし,神に父よと呼びかける無制限の特権を得ているのはだれですか。それは,神の崇拝者の家族の中の,献身してバプテスマを受けた人たちだけです。エホバを「わたしたちの父」と呼ぶことは次のことを示唆しています。それはつまり,わたしたちが神を信じており,イエスの贖いの犠牲を全面的に受け入れるのが神と和解する唯一の基盤であるという点を理解しているということです。―ヘブライ 4:14-16; 11:6。

      8 エホバへの祈りに時間を過ごすことを熱烈に願うべきなのはなぜですか。

      8 わたしたちは天の父を本当に身近に感じるはずです。自分の父親のところへ行くのを決していやがらない子供のように,神への祈りに時間を過ごすことを切望しなければなりません。神が与えてくださる霊的また物質的な祝福に対する深い感謝の念があれば,神の善良さに感謝する気持ちになるはずです。神はわたしたちを支えてくださるという確信を抱いて,自分にのしかかる重荷を神にゆだねたいという気持ちを持つはずです。(詩編 55:22)神はわたしたちを気遣っておられるので,もしわたしたちが忠実であれば,最終的にはすべてがうまくゆくことを確信できるのです。―ペテロ第一 5:6,7。

      9 神のみ名が神聖にされることを求める祈りは,何を願うことですか。

      9 「あなたのお名前が神聖なものとされますように」。(マタイ 6:9。ルカ 11:2)「名前」という語は人自身を表わすことがあり,「神聖なものとする」とは,「聖にする,取り分ける,あるいは神聖とみなす」ことを意味します。(啓示 3:4と比較してください。)それで,神のお名前が神聖なものとされることを求める祈りは,実質的にはエホバがご自分を神聖な方とする行動を起こされるよう願うことなのです。どんな方法でですか。これまでみ名にさんざん浴びせられてきた非難すべてを拭い去ることによってです。(詩編 135:13)神はそのことを目的として,邪悪なことを除き去り,ご自分を大いなる者とされ,ご自分がエホバであることを諸国民にお知らせになります。(エゼキエル 36:23; 38:23)もしわたしたちがその日を見ることを熱烈に願い,エホバの威光を本当に認識しているのであれば,「あなたのお名前が神聖なものとされますように」という言葉に示唆されている崇敬の念にあふれた精神をもって,常に神に近づくでしょう。

      神の王国と神のご意志

      10 神の王国が来ますようにと祈ることにはどんな意味がありますか。

      10 「あなたの王国が来ますように」。(マタイ 6:10。ルカ 11:2)ここで言う王国とは,イエス・キリストおよびその仲間の「聖なる者たち」の手中にある,天のメシアの政府を通して表明される,エホバの最高の支配を意味しています。(ダニエル 7:13,14,18,27。イザヤ 9:6,7; 11:1-5)その王国が『来る』よう祈り求めることにはどのような意味がありますか。それは,神の王国が来て,神の支配に反対する地上の人すべてに敵対することを願うという意味です。その王国は『地上のすべての王国を打ち砕いて終わらせた』後,地を世界的な楽園<パラダイス>に変えます。―ダニエル 2:44。ルカ 23:43。

      11 エホバのご意志が宇宙全体で行なわれることを切に願っているなら,わたしたちは何を行なうことになりますか。

      11 「あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」。(マタイ 6:10)これは,神が地に対するご自身の目的を遂行されるよう願うことです。その目的には,ご自身の敵を除き去ることが含まれます。(詩編 83:9-18; 135:6-10)実際それは,わたしたちが宇宙全体で神のご意志が行なわれるのを見たいという切なる願いを抱いていることを意味しています。その願いが心の中にあれば,最善を尽くしてエホバのご意志を行なうことに絶えず努めるでしょう。もしわたしたちが,自分自身に対して神のご意志が行なわれるよう真剣に努力していないなら,心からそのように懇願することはできないでしょう。そのように祈っているのであれば,不信者に求愛したり,世のやり方を取り入れたりするような,ご意志に反することは決して行なわないようにすべきです。(コリント第一 7:39。ヨハネ第一 2:15-17)むしろわたしたちは,どんな時にも,『この問題に関する神のご意志は何だろうか』と考えていなければなりません。そうです,もしわたしたちが心を込めて神を愛するなら,生活のあらゆる面で神に指示を求めるようになるのです。―マタイ 22:37。

      わたしたちの日々のパン

      12 『日々のパン』だけを願い求めることから,わたしたちはどんな良い影響を受けますか。

      12 「今日この日のためのパンをわたしたちにお与えください」。(マタイ 6:11)ルカの記述には,「その日の必要に応じてその日のためのパンをわたしたちにお与えください」とあります。(ルカ 11:3)「その日のための」必要な食物を備えてくださるよう神に求めるなら,日々のわたしたちの必要を世話してくださる神の力に対する信仰が培われます。イスラエル人は,マナを1週間かそれ以上の分ではなく,「各自自分の量を一日分ずつ」集めることになっていました。(出エジプト記 16:4)この祈りは,珍味やあり余るほどの食糧ではなく,日々に生じる必要物を求めるものです。日々のパンだけを願い求めることによって,わたしたちは貪欲にならないようにも助けられます。―コリント第一 6:9,10。

      13 (イ)日々のパンを願い求めることは,広い意味で何を示すものですか。(ロ)懸命に働くのに,ぎりぎりの生活しかできない場合でも,どんな態度を取るべきですか。

      13 日々のパンを願い求めることは,広い意味で,自分は食物,飲み物,衣服などの必要物に関して他のだれにも依存していないと感じるのではなく,いつも神に頼っていることを示すものです。わたしたちは神の崇拝者の家族の献身した成員として,わたしたちの父を信頼しますが,神が奇跡的に備えてくださるのを手をこまねいて待っているわけではありません。食物や他の必要物を得るために働き,活用できる方法はどんなものでも実行に移します。それでも,それらの備えの背後に天の父の愛と知恵と力があることが分かるので,祈りによって神に感謝するのは正しいことです。(使徒 14:15-17。ルカ 22:19と比較してください。)わたしたちが勤勉であれば,繁栄することになるでしょう。しかし,懸命に働いたのにあまり豊かにならないとしても,感謝して満足するようにしましょう。(フィリピ 4:12。テモテ第一 6:6-8)実際,敬虔な人は,食事や服装が普通程度でも,物質的に繁栄している人々よりもはるかに幸福である場合があるのです。ですから,自分ではどうにもならない状況にあるために物があまりないとしても,落胆しないようにしましょう。わたしたちはそれでも霊的に富むことができます。実際,わたしたちが信仰,希望,エホバへの愛などにおいて貧しくなる必要はありません。わたしたちの賛美と感謝は,心からの祈りによってエホバのみもとに上るのです。

      わたしたちの負い目を許す

      14 わたしたちはどんな負い目の許しを求めますか。神はその負い目に何を適用されますか。

      14 「また,わたしたちに負い目のある人々をわたしたちが許しましたように,わたしたちの負い目をもお許しください」。(マタイ 6:12)ルカの記述には,この負い目とは罪であることが示されています。(ルカ 11:4)受け継いだ罪深さは,わたしたちがすべてのことをわたしたちの父の完全なご意志に従って行なおうとするのを妨げます。ですから,そのような欠点は,ある意味で神に対するわたしたちの負い目,つまり負債となってきました。それはわたしたちが『霊によって生き,歩み』始めたからです。(ガラテア 5:16-25。ローマ 7:21-25と比較してください。)わたしたちは不完全で,今のところ神の規準に十分にかなう者とはなれないので,そうした負い目があるのです。わたしたちには,この罪の許しを求めて祈る特権が与えられているのです。幸いなことに,神はイエスの贖いの犠牲の価値をこの負い目,すなわち罪に適用することがおできになります。―ローマ 5:8; 6:23。

      15 必要な懲らしめに対して,わたしたちはどんな態度を取るべきですか。

      15 もし神にわたしたちの負い目,すなわち罪を許していただきたいなら,悔い改め,進んで懲らしめを受けなければなりません。(箴言 28:13。使徒 3:19)エホバはわたしたちを愛しておられるので,わたしたちが自分の弱点を矯正できるよう,個人的に必要な懲らしめを与えてくださいます。(箴言 6:23。ヘブライ 12:4-6)もちろん,信仰と知識において成長し,心が神の律法と原則に十分に調和するようになって,故意に違犯することなど全くなくなれば,わたしたちは幸福になれます。しかし,自分の悪行に多少意識的なところが認められるとしたらどうですか。そのときには,深く心を痛め,真剣に許しを祈り求めるべきです。(ヘブライ 10:26-31)与えられた諭しを当てはめ,自分の歩みを即刻矯正しなければなりません。

      16 自分の罪の許しを絶えず神に願い求めることが有益なのはなぜですか。

      16 自分の罪を許していただくよう常に神に願い求めるのは有益なことです。そのようにすれば,自分の罪深さをいつも自分の前に置くことになり,それによって人は謙遜にさせられるはずです。(詩編 51:3,4,7)わたしたちは天の父に「わたしたちの罪を許し,わたしたちをすべての不義から清めて」いただく必要があるのです。(ヨハネ第一 1:8,9)さらに,祈りによって自分の罪について語るなら,その負い目と闘い続けることができます。また,そのようにして,贖いの必要性と,イエスの流された血の価値を絶えず思い起こすこともできるようになります。―ヨハネ第一 2:1,2。啓示 7:9,14。

      17 許しを祈り求めることは,わたしたちと他の人との関係において,どのような助けになりますか。

      17 許しを祈り求めることは,大小さまざまな問題でわたしたちに負い目のあるような人たちに対して,憐れみと同情心と寛大さを示すための助けにもなります。ルカの記述には,「わたしたちの罪をお許しください。わたしたち自身も,わたしたちに負い目のある者すべてを許しますから」と記されています。(ルカ 11:4)事実,「わたしたちに負い目のある人々」,つまりわたしたちに対して罪を犯した人々をすでに『許した』ときにのみ,わたしたちも神からの許しを得ることができるのです。(マタイ 6:12。マルコ 11:25)イエスはこう付け加えられました。「あなた方が人の罪過を許すなら,あなた方の天の父もあなた方を許してくださるのです。けれども,あなた方が人の罪過を許さないなら,あなた方の父もあなた方の罪過を許されないでしょう」。(マタイ 6:14,15)わたしたちは自分の罪の許しを祈り求めることにより,他の人のことを耐え忍び,許すよう動かされるはずです。使徒パウロは,「エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい」と書きました。―コロサイ 3:13。エフェソス 4:32。

      誘惑と邪悪な者

      18 わたしたちを誘惑するとか試練に遭わせるとか言って,天の父を非難するようなことを決してすべきでないのはなぜですか。

      18 「そして,わたしたちを誘惑に陥らせないで(ください)」。(マタイ 6:13。ルカ 11:4)この言葉は,罪を犯すようエホバがわたしたちを誘惑されることを意味しているのではありません。聖書には,神が単にお許しになる事柄でも,神が行なわれるとか引き起こされるとか述べている箇所があります。(ルツ 1:20,21。伝道の書 11:5と比較してください。)しかし,弟子ヤコブは,「悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,そのようにしてご自身がだれかに試練を与えることもない(の)です」と書きました。(ヤコブ 1:13)ですから,悪い事柄で誘惑するとか試練に遭わせるとか言って,天の父を非難するようなことは決してすべきではありません。神に対する罪を犯させるためわたしたちを操ろうと画策している誘惑者は,サタンなのです。―マタイ 4:3。テサロニケ第一 3:5。

      19 誘惑に関して,どのように祈ることができますか。

      19 『わたしたちを誘惑に陥らせないでください』と願い求めることは,要するに,自分が神に逆らうよう誘惑された時や圧力をかけられた時に屈してしまうのをお許しにならないよう,エホバに願い求めることです。わたしたちは,自分にとって厳し過ぎる誘惑が自分の前に現われないよう歩みを導いてください,とわたしたちの父に懇願することができます。この点に関してパウロはこう書きました。「人に共通でない誘惑があなた方に臨んだことはありません。しかし,神は忠実であられ,あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはせず,むしろ,あなた方がそれを忍耐できるよう,誘惑に伴って逃れ道を設けてくださるのです」。(コリント第一 10:13)わたしたちは,自分が耐えられる以上に誘惑されないようエホバが導いてくださることと,ひどく苦しめられるときにはエホバが逃れ道を備えてくださることを祈り求めることができます。誘惑は悪魔や自分の罪深い肉や他の人々の弱点から来ますが,わたしたちの愛ある父は,わたしたちが圧倒されてしまわないようわたしたちを導くことができます。

      20 「邪悪な者」からの救出を祈り求めるのはなぜですか。

      20 「邪悪な者から救い出してください」。(マタイ 6:13)確かに神は,「邪悪な者」サタンがわたしたちを征服するのを未然に防ぐことができます。(ペテロ第二 2:9)それに,今ほど悪魔から救い出されることが必要な時代はありません。『悪魔は自分の時の短いことを知り,大きな怒りを抱いている』からです。(啓示 12:12)わたしたちはサタンの企てを知らないわけではありませんが,サタンもわたしたちの弱点を知らないわけではありません。ですから,エホバがライオンのような大敵対者の爪からわたしたちを保護してくださるよう祈る必要があります。(コリント第二 2:11。ペテロ第一 5:8,9。詩編 141:8,9と比較してください。)例えば,もしわたしたちが結婚に関心があるなら,不道徳行為という結果や,不信者と結婚して神に逆らう結果を招きかねないこの世的な関係を育むというサタンの企てと誘惑からわたしたちを救い出してくださるよう,エホバに願い求める必要があるかもしれません。(申命記 7:3,4。コリント第一 7:39)わたしたちは富を渇望していますか。では,賭け事をしたり詐欺を働いたりする誘惑に抵抗するために,祈りが必要になるかもしれません。サタンはわたしたちとエホバとの関係を破壊しようと躍起になり,自分の誘惑の兵器庫にあるどんな武器でも使うでしょう。それで,わたしたちは絶えず天の父に祈りたいものです。天の父は義なる者たちを誘惑のもとに捨てるようなことは断じてされませんし,邪悪な者たちからの救出を備えてくださいます。

      祈りは信仰と希望を築き上げる

      21 わたしたちは王国を祈り求めることから,どのような益を得てきましたか。

      21 わたしたちを邪悪な者から救い出してくださる天の父は,わたしたちを豊かに祝福することを喜ばれます。しかし,エホバはなぜこれほど長く,ご自分の愛する民が「あなたの王国が来ますように」と祈るままにしておかれたのでしょうか。長年にわたりそのように祈ってきたことによって,王国に対する欲求と認識が高められました。そのような祈りは,博愛的なこの天の政府が大いに必要とされることをわたしたちに思い起こさせます。さらに,王国の支配下で生きる希望がわたしたちの前に掲げられます。―啓示 21:1-5。

      22 わたしたちの天の父エホバへの祈りに関して,どんな態度を保つべきですか。

      22 祈りは確かにエホバへの信仰を築き上げます。エホバが祈りに答えてくださる時,わたしたちとエホバとの絆は強められます。ですから,賛美,感謝,祈願をもって日々神に心を向けることにうみ疲れないようにしましょう。そして,『主よ,わたしたちに祈りの仕方を教えてください』という追随者の求めに対し,イエスが有益な答えを示してくださったことに,深い感謝を表わすようにしましょう。

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