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  • あなたの祈りはどれほど意味深いものですか
    ものみの塔 1987 | 7月15日
    • あなたの祈りはどれほど意味深いものですか

      「わたしは心を込めて呼びました。エホバよ,わたしに答えてください」― 詩編 119:145。

      1,2 (イ)祈りについて述べているのは,イエスのどのたとえ話ですか。(ロ)二つの祈りからイエスはどのような結論を引き出されましたか。その結論はわたしたちに何を教えるはずですか。

      創造者であられるエホバ神はどのような祈りをお聞きになるのでしょうか。イエス・キリストが話されたたとえ話には,神に祈りを聞き届けていただくための基本的な条件の一つが示されています。イエスは,二人の男がエルサレムの神殿で祈っていた,と言われました。一人は深く敬われていたパリサイ人で,もう一人は,さげすまれていた収税人でした。パリサイ人はこう祈りました。「神よ,わたしは,自分がほかの人々……のようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。わたしは週に二回断食をし,自分が得るすべての物の十分の一を納めています」。しかし,身分の低い収税人は,「胸をたたきながら,『神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください』」と言いました。―ルカ 18:9-13。

      2 イエスはこの二つの祈りについて注解し,「あなた方に言いますが,この人[収税人]は,先の人[パリサイ人]より義にかなった者であることを示して家に帰って行きました。自分を高める者はみな辱められますが,自分を低くする者は高められるのです」。(ルカ 18:14)イエスは明らかに,天のみ父に祈るだけでは十分ではないことを示されました。どのように祈るかということ,つまりわたしたちの精神態度も重要なのです。

      3 (イ)祈りに適用される幾つかの基本的な定則を挙げてください。(ロ)祈りにはどのような形を取ることがありますか。

      3 祈りはまさしく,貴重で重要な,また真剣に受け止めるべき特権です。情報に通じたクリスチャンなら,だれでも祈りに適用される基本的な定則をよく知っています。祈りはひとりのまことの神エホバに,そのみ子イエス・キリストの名によってささげなければなりません。祈りが受け入れられるものとなるためには,信仰をもってささげなければなりません。確かに,「神に近づく者は,神がおられること……を信じなければならない」のです。さらに,人の祈りは神のご意志と調和していなければなりません。(ヘブライ 11:6。詩編 65:2。マタイ 17:20。ヨハネ 14:6,14。ヨハネ第一 5:14)さらに,聖書中の実例から,祈りには賛美,感謝,請願,祈願という形のあることが分かります。―ルカ 10:21。エフェソス 5:20。フィリピ 4:6。ヘブライ 5:7。

      意味深い祈りに関する実例

      4 (イ)モーセとヨシュアは,意味深い祈りに関するどんな実例となっていますか。(ロ)ダビデとヒゼキヤ王はどんな実例となっていますか。(ハ)ここに挙げた数例の祈りに共通していた特色は何ですか。

      4 重要な問題に直面することになったとき,重大な決定を迫られたとき,由々しい過ちを犯したとき,自分の命が危険にさらされたときなどに,わたしたちの祈りは特に真剣さを帯び,意味深いものになります。エホバは,イスラエル人が不忠実な十人の斥候の持ち帰った消極的な報告を聞いて反逆したため,民は全滅に値するとモーセにお告げになりました。モーセは真剣で意味深い祈りをささげ,み名が関係しているので,そのような行動はお取りにならないように,とエホバに懇願しました。(民数記 14:11-19)アカンの貪欲が原因でイスラエルがアイにおいて敗北を喫した時にも,ヨシュアはやはりエホバのみ名に基づき,非常に熱のこもった嘆願を行ないました。(ヨシュア 7:6-9)ダビデの書いた詩編の中には,真剣な祈りの形を取った詩が多くありますが,とりわけ印象深い実例は,詩編 51編です。意味深い祈りに関するもう一つの優れた実例は,アッシリアの王セナケリブがユダを侵略しようとした折にヒゼキヤ王がささげた祈りです。この時もエホバのみ名が関係していました。―イザヤ 37:14-20。

      5 特定のエホバの僕たちがささげた意味深い祈りの実例としては,ほかにどんなものがありますか。

      5 哀歌の書は,エレミヤの民のためのエレミヤによる長い真剣な祈りと言えるかもしれません。その書には,エホバへの呼びかけが幾度も用いられているからです。(哀歌 1:20; 2:20; 3:40-45,55-66; 5:1-22)エズラとダニエルも自分たちの民のために意味深い真剣な祈りをささげ,自国民の悪行を告白し,許しを嘆願しました。(エズラ 9:5-15。ダニエル 9:4-19)さらに,大魚の腹の中にいる時にヨナがささげた祈りも,間違いなく真剣で意味深いものでした。―ヨナ 2:1-9。

      6 (イ)イエスは意味深い祈りに関するどんな実例となっておられますか。(ロ)わたしたちの祈りを意味深いものにするには,どんな基本的な要素が必要ですか。

      6 イエスは十二使徒を選ぶに当たり,み父のご意志通りに人選が行なえるよう,夜を徹して祈られました。(ルカ 6:12-16)ヨハネ 17章に記されているように,イエスは裏切られる夜にやはり意味深い祈りをささげておられます。これらの祈りはいずれも,それらの祈りをささげた人たちが得ていたエホバ神との優れた関係を雄弁に証ししています。祈りを意味深いものにしたいなら,確かにこの関係が祈りの基本的な要素となっていなければなりません。加えて,エホバ神のみ前で祈りが『強力な』ものとなるには,祈りは真剣で意味深いものである必要があるのです。―ヤコブ 5:16,エルサレム聖書。

      人間の不完全さに起因する欠点

      7 自分の祈りについて,どんなことを自問できますか。

      7 これまで注目してきたように,張り詰めた状況にあると,祈りは特に真剣な,意味深いものとなる傾向があります。しかし,日々の祈りに関してはどうでしょうか。その祈りは,天のみ父エホバ神との間に築かれていると思える温かで親密な関係を示す証拠になっていますか。「祈りが神にとって意味あるものとなるには,まずわたしたちにとって意味あるものでなければならない」とはよく言ったものです。わたしたちは本当に祈りに然るべき考慮を払い,祈りが間違いなく比喩的な心臓から出たものとなるよう注意を払っていますか。

      8 人間としての不完全さゆえに,わたしたちの祈りにはどのような欠陥があるかもしれませんか。

      8 これらの点で,祈りの質は低下してゆきやすいものです。受け継いだ不完全な傾向のゆえに,心はやすやすとわたしたちを欺き,祈りに備わっているべき特質を奪い取ってしまいがちです。(エレミヤ 17:9)多くの場合,祈る前にじっくり落ち着いて考えないと,機械的で決まり切った,型にはまった祈りをささげる傾向のある自分に気づかされるかもしれません。あるいは,祈りが同じ言葉の繰り返しになることもありますが,そのような祈りは,『諸国の人々が祈る』ときの不適切な方法についてイエスの言われた事柄を思い起こさせます。(マタイ 6:7,8)また,特定の事柄や人について祈るよりも,ただ漠然とした事柄について祈るようなこともあるかもしれません。

      9 わたしたちの祈りに関して,他のどんな落とし穴が生じるかもしれませんか。また,そのような落とし穴が生じる一因はどこにあるに違いありませんか。

      9 時には,祈りを早く終えてしまう傾向に陥る場合もあります。しかし,「祈れないほど忙しいとすれば,その人は本当に忙しすぎる」という意見は注目に値します。特定の言葉を暗記したり,祈るたびにその言葉を繰り返したりすべきではありません。エホバの証人にとって,公の大会のような場合でも,自分の祈りを読む必要はないはずです。落とし穴となるこれらすべての問題が生じる原因の少なくとも一部は,わたしたちが祈りをささげるエホバ神が肉眼では見えないという事実にあるに違いありません。しかし,そのような祈りをエホバが喜ばれると考えることはできませんし,わたしたちもそのような祈りをささげることから益は得られません。

      欠陥を克服する

      10 (イ)どのような態度は,祈りの重要性に関する認識の欠如を表わしますか。(ロ)聖書中のどんな実例は注目に値しますか。

      10 前述の様々な落とし穴は,日々の祈りの重要性に対する認識の程度と,天の父との関係がどれほどよいかに応じて,避けることができるでしょう。一つには,そのような認識があれば,もっと重要な事柄に取り掛かる必要があるかのように,祈りを早くすませたりしないよう助けられるでしょう。宇宙の主権者なるエホバ神に語りかける以上に重要なことはあり得ません。なるほど時間が限られている場合もあるでしょう。例えば,アルタクセルクセス王が献酌官ネヘミヤに,「あなたが願い求めているこのことはどういうことなのか」と尋ねた時,ネヘミヤは『直ちに,天の神に祈りました』。(ネヘミヤ 2:4)王は即答を期待していたので,ネヘミヤは祈りのために長い時間を割けませんでした。それでも,その祈りが意味深く,ネヘミヤの心から出たものであったことは確かでしょう。エホバは直ちにその祈りを聞き届けられたからです。(ネヘミヤ 2:5,6)しかし,その種のまれな例は別として,わたしたちは祈りのために時間を取り,ほかの用事は後回しにすべきです。祈りを早くすませる傾向があるなら,祈りの重要性を十分認識していることにはなりません。

      11 わたしたちが避ける必要のあるもう一つの落とし穴とは何ですか。この点に関して,イエスはどんな優れた手本を示されましたか。

      11 避ける必要があると思われるもう一つの落とし穴は,漠然とした事柄を繰り返すことです。そのような祈りも,祈りの貴重な特権を正当に評価することではありません。イエスは模範となる祈りの中で,その点に関する優れた手本を示されました。イエスは七つの異なった請願に言及しておられます。義の勝利に関するものが三つ,日々の身体的な必要物に関するものが一つ,わたしたちの霊的な福祉に関するものが三つあります。―マタイ 6:9-13。

      12 パウロは,特定の事柄について祈ることに関して,どんな優れた手本を残していますか。

      12 使徒パウロも,同じ方針に沿った優れた手本を示しています。パウロは,『大胆さをもって語る能力が与えられるよう』わたしのために祈ってほしい,と他の人たちに頼みました。(エフェソス 6:18-20)同使徒は,他の人々のために自分自身で祈る際に,まさしく特定の事柄について祈りました。パウロはこう述べています。「わたしはこう祈り続けています。あなた方の愛が,正確な知識と十分な識別力に伴っていよいよ満ちあふれるようにと。それは,あなた方がより重要な事柄を見きわめるようになり,こうして,キリストの日に至るまできずなく,他の人をつまずかせることなく,また,イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光また賛美となるためです」― フィリピ 1:9-11。

      13 エホバに対するさまざまな奉仕に関して,わたしたちはどのように意味深い祈りをささげることができますか。

      13 そうです,わたしたちは特定の事柄について祈るべきなのです。そのためには,自分の祈りについて考えることが求められます。(箴言 15:28と比較してください。)野外宣教に携わっている時には,自分の努力に神の祝福を求めるだけでなく,知恵,巧みさ,おおらかな心,はばかりなく語れること,効果的な証言の妨げとなりやすいどんな弱点をも克服するための助けを神に願い求めることができます。さらに,義に飢え渇いている人々のところへ導いていただきたいと神に願い求めることもできるのではないでしょうか。公開講演をする直前,奉仕会や神権宣教学校の一部を扱う直前などに,聖霊が自分のもとに豊かにとどまるようエホバに懇願することができます。そうすれば,自信と落ち着きを身に着け,真剣さと確信をこめて話せるようになり,ひいては神のみ名に誉れをもたらし,兄弟たちを築き上げることができます。そのようなすべての祈りは,わたしたちが話をする際の正しい心構えを持つ助けともなります。

      14 克服しがたい肉の弱さに関して,わたしたちはどんな態度を持つべきですか。

      14 わたしたちは,自分の霊性に戦いを挑むような,また克服しがたく思える肉的な弱さを持っていますか。では,祈りの中でその問題を具体的に言い表わすべきです。また,決して落胆してはなりません。神の助けと許しを謙遜かつ真剣に願い求めることに疲れ果ててしまうべきではありません。そうです,そのような状況のもとでは,同じ弱点について神に祈ることがどれほど頻繁になるとしても,ちょうど子供が困ったときに父親のところへ行くように,エホバのもとへ行かなければなりません。わたしたちが誠実であるなら,エホバは助けを与えてくださり,わたしたちが許されたということを悟らせてくださるでしょう。そうした状況にある時には,使徒パウロが,自分にも問題があったと告白していることからも慰めを得られます。―ローマ 7:21-25。

      意味深い祈りをささげるための幾つかの助け

      15 祈りによってエホバ神に近づくとき,わたしたちはどんな精神態度を抱くべきですか。

      15 わたしたちの祈りを本当に意味深いものとするには,ほかの考えを一切締め出し,自分が偉大な神エホバのみ前に出ているという事実に思いを集中するよう努めなければなりません。エホバが畏怖の念を起こさせる方であることを認識し,深い敬意をもって神に近づく必要があります。エホバがモーセにお告げになったとおり,神を見てなお生きられる人はいません。(出エジプト記 33:20)ですからわたしたちは,ふさわしい謙遜さと慎み深さをもってエホバに近づく必要がありますが,イエスはパリサイ人と収税人に関するたとえ話の中でその点を強調されました。(ミカ 6:8。ルカ 18:9-14)エホバはわたしたちにとって非常に現実的な存在でなければなりません。わたしたちはモーセと同じ精神態度を抱かなければなりません。「彼は,見えない方を見ているように終始確固としていたのです」。(ヘブライ 11:27)そのような特質は,わたしたちが天の父と良い関係を築いていることの証しとなります。

      16 意味深い祈りをささげることに関して,わたしたちの心はどんな役割を果たしますか。

      16 また,神への愛と愛情にあふれた心をもってエホバのもとに来るなら,わたしたちの祈りは意味深いものとなるでしょう。例えば,詩編作者ダビデは詩編 23編と103編で,エホバ神に対する深い認識と愛を見事に言い表わしています。ダビデが,偉大な牧者であられるエホバ神との優れた関係を持っていたことは疑いありません。わたしたちは神権宣教学校で,温かさと気持ちをこめて話すよう諭されています。聖書を読むときには特にそうすべきですが,天の父に祈るときにはなおのことそうすべきです。確かにわたしたちは,「エホバよ,あなたの道をわたしに知らせてください。あなたの道筋をわたしに教えてください。わたしをあなたの真理によって歩ませ,わたしに教えてください。あなたはわたしの救いの神だからです」と祈ったダビデと同じ考え方をすべきです。さらに,「わたしは心を込めて呼びました。エホバよ,わたしに答えてください」と述べた別の詩編作者の言葉も,わたしたちが持つべき考え方を示唆しています。―詩編 25:4,5; 119:145。

      17 どうすれば,祈りが同じ言葉の繰り返しになるのを避けられますか。

      17 自分の祈りをいつも意味深いものとし,同じ言葉の繰り返しを避けるために,祈りに含める考えの内容を変えるのは良いことです。その日の聖句や,自分が読んでいるキリスト教の何らかの出版物から,ヒントが得られるかもしれません。「ものみの塔」研究,公開講演,自分が出席している巡回大会や地域大会などの主題は,そのために役立つかもしれません。

      18 祈りを一層意味深いものとするため,聖書中の言葉や実例に調和して何を行なえますか。

      18 祈りの雰囲気に一層深くひたり,祈りを一層意味深いものとするための助けとして,体の姿勢を変えるのは良いことです。公の祈りではおのずと頭が下がりますが,もっと個人的な祈りをするときには,一人で,また家族として祈る際,エホバのみ前にひざまずくのがよいことに気づいた人もいます。その姿勢が,謙遜な精神態度を抱く上で助けになることが分かったからです。詩編 95編6節では,「入って行き,崇拝をささげ,身をかがめよう。わたしたちの造り主エホバのみ前にひざまずこう」と勧められています。ソロモンはひざまずいてエホバの神殿の献堂式で祈りをささげ,ダニエルは祈りをするときにひざまずくのを習慣にしていました。―歴代第二 6:13。ダニエル 6:10。

      19 公の祈りをする責任を与えられた人々がどんな事実を銘記するのは良いことでしょうか。

      19 任命された長老は祈りの重要性を考え,会衆のために公の祈りをささげるよう依頼すべき人に関して,良い判断を下すべきです。会衆を代表して祈る,バプテスマを受けた男子は,円熟したクリスチャンの奉仕者でなければなりません。その祈りには,神との優れた関係の築かれていることがはっきり表われているべきです。また,そのような祈りをささげる特権を与えられた人々は,自分のためだけではなく会衆全体のためにも祈るのですから,その祈りが人に聞かれるということを考えてみなければなりません。さもなければ,祈りの終わりに会衆のほかの人たちが一緒に「アーメン」と言うことなど,どうしてできるでしょうか。(コリント第一 14:16)もちろん,ほかの人たちも,意味深く「アーメン」と唱えられるように,注意深く耳を傾け,思いをさまよわせたりせず,その祈りを本当に自分自身のものとすべきでしょう。もう一言,付け加えることのできる注意事項があります。それは,このような祈りはエホバ神にささげられるものなので,聴いている人々を諭すための,あるいは全く個人的な考えを述べるための機会として用いてはならないということです。

      20 声に出して行なう意味深い祈りが,聞く人々に祝福となることから,どんな提案がなされていますか。

      20 声に出して行なうわたしたちの祈りが本当に意味深いものとなるとき,その祈りは聞く人たちに祝福となります。そのような理由で,夫婦や家族が少なくとも1日1回,一緒に祈りをささげるのはよいことでしょう。その際には,家族の頭のような一人の人が,ほかの人を代表して語ります。

      21 わたしたちの祈りを意味深いものとするために,考慮に値するどんな別の面がありますか。

      21 わたしたちの祈りが本当に意味深いものとなるには,そのほかにも注意を払うに値する事柄があります。それは,自分の祈りに関して首尾一貫していなければならないということです。それはどういう意味でしょうか。祈りに調和した生活を送り,祈り求める事柄に関して努力するという意味です。祈りのこの面は,次の記事で考慮します。

  • 祈りには行動が求められる
    ものみの塔 1987 | 7月15日
    • 祈りには行動が求められる

      「エホバは邪悪な者たちから遠く離れておられる。しかし,義なる者たちの祈りを聞いてくださる」― 箴言 15:29。

      1 祈りを神に聞き届けていただくには,どのような一つの条件を満たしていなければなりませんか。

      エホバのご要求は,どれも賢明また公正で,愛に富んでいます。それらのご要求は決して重荷ではありません。(ヨハネ第一 5:3)祈りに関する神のご要求も例外ではありません。自分がささげた祈りに調和した生活を送らなければならないというのも,その要求の一つです。わたしたちの行動の仕方はエホバ神に喜ばれるものであるべきです。さもなければ,神がわたしたちの請願や祈願を好意的に見てくださると,どうして期待できるでしょうか。

      2,3 イザヤ,エレミヤ,ミカの言葉にあるとおり,エホバがイスラエル人の祈りを聞き届けられなかったのはなぜですか。

      2 キリスト教世界のほとんどの人々は,ちょうどイザヤの時代の背教したイスラエル人と同様,祈りに関するこの面を無視しています。エホバがご自分の代わりに預言者を用い,次のように語らせた理由はそこにありました。「たとえあなた方が多くの祈りをしようとも,わたしは聴いてはいない。……身を洗い,身を清め,わたしの目の前からあなた方の行ないの悪を除け。悪を行なうことをやめよ。善を行なうことを学(べ)」。(イザヤ 1:15-17)そうです,神の好意を得たければ,それらのイスラエル人は神に喜ばれる仕方で行動すべきでした。「祈りをするときに神に聞いてほしければ,神が語るときに神の言うことを聞かなければならない」という至言が述べるとおりです。

      3 事実,エホバ神はご自分の民イスラエルにそれらの真理を思い起こさせる必要があることにたびたび気づかれました。ですから,このような記述があります。「律法を聞くことから耳を背けている者 ― その者の祈りさえ[神にとって]忌むべきものである」。「エホバは邪悪な者たちから遠く離れておられる。しかし,義なる者たちの祈りを聞いてくださる」。(箴言 28:9; 15:29)そうした状況があったので,エレミヤは,「あなた[エホバ]はご自分に近づくものを雲塊をもって阻み,祈りが通って行けないようにされました」と嘆きました。(哀歌 3:44)霊感を受けてミカが語った次の警告の言葉は確かに成就しました。「この者たちが助けを呼び求めても,エホバはそれに答えない。そしてその時,彼らから顔を隠して,彼らがその所業として行なった悪のとおりに行なわれる」― ミカ 3:4。箴言 1:28-32。

      4 エホバの民の間にも,自分たちの祈りに調和した行動の必要性を認識していない人々がいることを,どんな事実が示していますか。

      4 そのようなわけで,自分の祈りと調和した生き方をすることが必要です。今日でもこの事実を強調するのは肝要なことですか。キリスト教世界だけではなく,エホバの献身した民の一部にも見られる状況からすると,これは確かに肝要なことです。昨年に良いたよりを伝道した300万余りの人々の中で,クリスチャンにふさわしくない行ないのために排斥された人は3万7,000人を超えました。80人につき約一人の割合です。それらの人たちの大多数が,少なくとも時々祈っていたことはほぼ間違いないでしょう。しかし,彼らは自分たちの祈りに調和して行動していたでしょうか。決してそうではありませんでした! 何十年も全時間奉仕を行なってきた長老たちの中にさえ,何らかの仕方で懲らしめられた人がいるのです。何と残念なことでしょう! 実際,「立っていると思う人は,倒れることがないように」,つまり自分の祈りが造り主に受け入れてもらえなくなるような行動を取らないよう「気をつけなさい」。―コリント第一 10:12。

      祈りに行動が求められる理由

      5 祈りをエホバに聞き届けていただくため,わたしたちは自分の誠実さをどのように証明すべきですか。

      5 祈りを神に聞いていただくには,道徳的また霊的に清くあるべきですが,同時に,祈り求めた事柄を行動に表わし,自分の祈りの誠実さを証明しなければなりません。祈りそのものが,誠意ある理性的な努力に代わることはありません。エホバは,わたしたちが真剣に神のみ言葉の助言を当てはめ,聖霊の導きに従うことによって自分で行なえるような事柄の肩代わりはされません。神がわたしたちの祈りを聞き届けるための根拠をお持ちになれるように,わたしたちはこの点に関してできる限りのことを喜んで行なわなければなりません。ですから,ある人がいみじくも述べたように,『自分が喜んで行動に移せる以上の事柄を願い求めるべきではない』のです。

      6 わたしたちは,どんな二つの理由で祈るべきですか。

      6 しかし,『自分が祈り求めたことを行動に表わさなければならないとしたら,どうして祈る必要があるのか』という質問が生じるかもしれません。祈りをすべき正当な理由は少なくとも二つあります。第一に,祈りによってわたしたちは,すべての良いものが神から来るという事実を認めるのです。神は,太陽の光,雨,実りの季節など,数え尽くせぬほどのあらゆる良い贈り物,完全な贈り物の与え主であられます。(マタイ 5:45。使徒 14:16,17。ヤコブ 1:17)第二に,わたしたちの努力が成功するか否かは,エホバの祝福にかかっています。詩編 127編1節に記されているとおりです。「エホバご自身が家を建てるのでなければ,建てる者たちがそのために骨折って働いても無駄である。エホバご自身が都市を守るのでなければ,見張りが目覚めていても無駄である」。使徒パウロがコリント第一 3章6節と7節で述べた次の言葉も,同様の点を指摘しています。「わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神がそれをずっと成長させてくださったのです。ですから,大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです」。

      古代の幾つかの例

      7,8 (イ)ヤコブの生涯中に生じたどんな出来事は,ヤコブが,祈りには行動が伴うべきであることを理解していたことを示していますか。(ロ)ダビデ王はこの点に関するどんな実例となっていますか。

      7 聖書は,エホバの忠実な僕たちが祈り求めた事柄を行動に表わしたという実例を幾つも示しています。代表的な例を少しだけ考慮してみましょう。アブラハムの孫に当たるヤコブが長子の権の祝福を得たため,兄のエサウはヤコブに対して殺したいほどの憎しみを抱いていました。(創世記 27:41)およそ20年後にヤコブは,パダン・アラムから大勢の家族とたくさんの家畜を連れて自分の郷里へ戻って来ましたが,折しもエサウが自分を迎えに来るという知らせを耳にしました。エサウが抱いていた敵意を思い出したヤコブは,自分の兄弟の憤りから守っていただきたいとエホバに熱心に祈りました。しかし,それだけですませたでしょうか。そのようなことは全くありませんでした。ヤコブは,自分が行く前に,ある目的をもって寛大な贈り物を届けました。「わたしの前を進む贈り物によって多分彼を和められるだろう」と考えたのです。結果はヤコブの考えたとおりでした。二人の兄弟が出会った時,エサウはヤコブを抱擁し,口づけしました。―創世記 32,33章。

      8 ダビデは,祈り求めた事柄を行動に表わすことに関する別の実例となっています。ダビデの子アブサロムが王位を強奪するや,ダビデの助言者アヒトフェルはアブサロムの側に付きました。そのためダビデは,アヒトフェルの助言が覆されるように真剣な祈願をささげました。ではダビデは,そうした趣旨の祈りをしただけでしたか。そうではありません。ダビデは忠節な助言者であるフシャイにアブサロムに加わるよう指示し,フシャイがアヒトフェルの助言を覆すようにしています。物事は確かにそのように運びました。アブサロムはアヒトフェルの助言を退け,フシャイから与えられた悪い助言に従って行動しました。―サムエル第二 15:31-37; 17:1-14; 18:6-8。

      9 ネヘミヤは,祈りには行動が求められるという原則を理解していたことをどのように示しましたか。

      9 ほかにももう一つ,わたしたちに訓戒となる実例として引用できるのは,ネヘミヤの場合です。ネヘミヤにはエルサレムの城壁を再建するという,実行に移すべき大きな計画がありましたが,数知れぬ敵がネヘミヤに対する陰謀を企てていました。ネヘミヤは祈りをささげただけではなく,行動に移しました。まさに,「わたしたちはわたしたちの神に祈り,彼らに備えて彼らのゆえに日夜見張りを配置しておいた」と書かれているとおりです。その時から,ネヘミヤ配下の若者たちの半数は,城壁を造っている他の半数の人々をいつでも守れるように立っていました。―ネヘミヤ 4:9,16。

      イエスに関する実例

      10,11 イエスが備えられたどんな実例は,イエスがご自分の祈りと調和して行動されたことを示していますか。

      10 イエス・キリストは,祈り求めた事柄を行動に表わすことに関して優れた手本を示されました。イエスは,「あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈ることをわたしたちに教えておられます。(マタイ 6:9)しかし同時に,自分の話を聴く者たちがみ父の名前を神聖なものにできるよう手を尽くされました。同様に,イエスご自身,「父よ,み名の栄光をお示しください」と祈っただけではありませんでした。(ヨハネ 12:28)そうです,父のみ名を栄光あるものとするため,またほかの人たちにそのようにさせるため,自分にできる事柄を行なわれたのです。―ルカ 5:23-26; 17:12-15。ヨハネ 17:4。

      11 人々の霊的な必要が非常に大きいことを見て取ったイエスは,弟子たちにこう言われました。「収穫は大きいですが,働き人は少ないのです。それゆえ,収穫に働き人を遣わしてくださるよう,収穫の主人[エホバ神]にお願いしなさい」。(マタイ 9:37,38)イエスは問題をそこで打ち切られましたか。そのようなことは全くありませんでした。その直後,イエスは十二使徒を二人ずつ組ませ,伝道旅行,つまり「収穫」旅行に遣わしました。後にイエスはそれと同じことをさせるため,70人の福音宣明者を遣わしておられます。―マタイ 10:1-10。ルカ 10:1-9。

      原則を当てはめる

      12 行動は,わたしたちの日々のパンを与えてくださるよう神に求める祈りとどのような関係にありますか。

      12 わたしたちが首尾一貫して祈りに調和した行動を取り,そうすることによって誠実さを証明するようエホバ神が期待しておられることは明らかです。イエスは,「今日この日のためのパンをわたしたちにお与えください」と祈るよう教えておられます。(マタイ 6:11)ですから,イエスの追随者すべてが神にそうした趣旨の請願をするのは正しいことです。しかしわたしたちは,その請願についてこちらが何も行なわなくても,天の父は祈りを聞き届けてくださると考えますか。もちろんそのようには考えません。そのようなわけで,「怠惰な者は欲しがってはいるが[恐らく祈りによってもそれを示すのでしょう],その魂は何も得ない」と書かれています。(箴言 13:4)使徒パウロはテサロニケ第二 3章10節で類似したことを述べ,「働こうとしない者は食べてはならない」と言いました。日々のパンを祈り求めることには,進んで働く気持ちが伴っていなければなりません。興味深いことですが,パウロは賢明にも,「働こう」としない者は食べるべきではないと語りました。働こうとしている人々の中には,失業中の人,病気の人,老齢のために働けない人などがいるかもしれません。働きたくても,事情がそれを許さないのです。したがって,そのような人たちが日々のパンを祈り求め,それが与えられることを願うのは正しいと言えるでしょう。

      13 聖霊を求める祈りをエホバに聞き届けていただくため,わたしたちは何をしなければなりませんか。

      13 イエスは,天の父に聖霊を願い求めるようにもわたしたちを諭しておられます。イエスが保証しておられるように,神は地上の親が子供たちに良いものを与えるとき以上に快く,わたしたちに聖霊を与えてくださいます。(ルカ 11:13)では,わたしたちのほうで何も努力しなくても,エホバ神は奇跡的に聖霊を与えてくださる,と考えることができますか。決してそのようなことはありません。聖霊を受けるには,自分にできることを何でも行なわなければなりません。聖霊を祈り求めることに加えて,勤勉に神のみ言葉で自分を養う必要があるのです。なぜでしょうか。エホバ神は,ご自分のみ言葉から離れて聖霊を与えることはないからです。それに,エホバが今日用いておられる地的な経路,つまりエホバの証人の統治体によって代表されている「忠実で思慮深い奴隷」を無視するなら,聖霊を受けることは期待できません。この「奴隷」の助けなくしては,自分が読む事柄の十分な意味を理解することも,学ぶ事柄をどのように日々の生活に適用したらよいのかを知ることもできないでしょう。―マタイ 24:45-47。

      14,15 (イ)知恵を求める祈りをエホバに聞き届けていただくため,わたしたちはどのようにその祈りと調和した行動を取らなければなりませんか。(ロ)ソロモン王の例はどのようにその点を実証していますか。

      14 祈りには行動が求められるという原則は,イエスの異父兄弟であった弟子ヤコブの次の言葉にも当てはまります。「あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求めつづけなさい。神はすべての人に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです。そのようにすれば,それは与えられます」。(ヤコブ 1:5。マタイ 13:55)しかし,神は何かの奇跡を起こして,この知恵を与えてくださるのでしょうか。そうではありません。まず第一にわたしたちが正しい態度を持つべきなのです。「神は……柔和な者たちにご自分の道を教えられる」とあるとおりです。(詩編 25:9)では神はどのように「柔和な者たち」を教えられるのでしょうか。ご自身のみ言葉によって教えられます。この場合にもわたしたちは,み言葉を理解して当てはめる努力をしなければなりません。箴言 2章1節から6節が述べているとおりです。「我が子よ,あなたがわたしのことばを受け入れ,わたしのおきてを自分に蓄え,そして,耳を向けて知恵に注意を払い,心を識別力に傾けるなら,さらに,理解を求めて呼ばわり,識別力を求めて声を上げるなら,銀を求めるようにそれを求めつづけ……るなら,そのとき,あなたはエホバへの恐れを理解し,まさに神についての知識をも見いだすことであろう。エホバご自身が知恵を与えてくださるからである」。

      15 ソロモン王が知恵を祈り求め,神がその祈りに奇跡的な方法でお答えになった時にも,祈りには行動が求められるという原則が当てはまったのでしょうか。確かに当てはまりました。イスラエルの王であったソロモンには,律法を自分で書き写し,それを毎日読み,自分の生活に当てはめるという要求が課されていたからです。しかし,ソロモンが妻と馬を増やしてその命令に違犯した時,王の行動はもはや祈りと調和しなくなりました。その結果ソロモンは背教者となり,そうした「分別のない者」として死にました。―詩編 14:1。申命記 17:16-20。列王第一 10:26; 11:3,4,11。

      16 肉の弱さを克服するための祈りに行動が伴っていなければならないことを,どんな実例が示していますか。

      16 祈りには行動が伴わなければならないという原則は,何らかの根深い利己的な習慣を克服するために神の助けを請い求めるときにも当てはまります。例えば,開拓者である一人の姉妹は,テレビの昼のメロドラマに熱中し,毎日午前11時から午後3時半まで見続けていた,と述べました。そうした不道徳な番組がいかに有害かを地域大会で学んだその姉妹は,祈りによって問題をエホバに打ち明けたのですが,その習慣を断つにはかなりの時間がかかりました。というのも,本人の話によれば,『その習慣を断てるよう祈ってから,どういうわけかまたその番組を見てしまうのです。それで,誘惑にさらされることがないよう,一日中野外奉仕に出ることにしました。やっとのことで,午前中にテレビを消し,その後は一日中スイッチを入れなくてもすむようになりました』。確かに,この女性は,自分の弱さを克服できるよう祈ることに加えて,そうするために行動する必要がありました。

      祈りとわたしたちの証言

      17-19 (イ)エホバの証人が祈りに調和して行動していることは,どんな事実に示されていますか。(ロ)ある人のどんな実例にも,それと同じ点が示されていますか。

      17 王国を宣べ伝える業以上に,祈りに行動が求められるという原則が当てはまる分野はありません。ですから,エホバの証人たちは皆,収穫の働き人の増加を祈り求めるだけでなく,その業に自分の力を注ぎ込みます。その結果,多くの国で続々と驚くべき増加が生じてきました。一つの例だけに注目してみましょう。1930年にチリで伝道していたエホバの証人は一人しかいませんでした。ところが,今ではその一人の証人が千人どころか,およそ3万人になっているのです。(イザヤ 60:22)これは,祈りをささげた結果にすぎないのでしょうか。いいえ,行動が関係していました。チリのエホバの証人は1986年の1年だけで,宣べ伝える業に649万2,000時間余りをささげたのです。

      18 宣べ伝える業が禁止されている国でも同じことが言えます。証人たちは増加を祈り求めるだけでなく,地下にもぐり,伝道を続けています。ですから,それらの国や地域では当局の反対があるにもかかわらず,増加が生じています。例えば,エホバの証人がそのような当局からの反対に直面している33の国や地域では,1986奉仕年度に宣べ伝える業のため3,260万時間以上がささげられ,4.6%の増加を見て歓んでいます。

      19 祈りには行動が求められるという原則が個人個人にも当てはまることは言うまでもありません。家庭聖書研究が持てるようエホバに祈りはしても,研究を持つために手を尽くしていない場合もあるでしょう。一人の開拓者もそのような経験をしました。その女性は聖書研究が1件しかなかったので,研究が増えるようエホバに祈りました。それだけですませてしまいましたか。そうではなくこの人は,自分の宣教に入念な注意を払い,その結果,再訪問の際に家庭聖書研究という話題を持ち出していないことに気づきました。その点を改善するように図ったこの人は,やがてさらに二つの聖書研究を持つようになりました。

      20 祈りには行動が求められるという原則を,どのように要約できますか。

      20 祈りには行動が求められることを証明する実例は,そのほかにもたくさん挙げることができます。例えば,家族内および会衆内の人間関係に関連した例がそれです。しかし,ここに引用した例だけを見ても,祈りには行動が求められるということが十分明らかになるはずです。自分の振る舞いそのものが神の不興を買うとすれば,エホバ神がわたしたちの請願に好意的な配慮を示してくださるとは期待できないのですから,祈りには行動が求められるというのは,至極当然なことです。また,わたしたちが自分の力では行なえない事柄をエホバに行なっていただきたいと思っているなら,自分の祈りに調和してできる限りのことを行なうべきである,という結論にもなります。確かに,エホバがお定めになった原則は賢明で公正なものです。それは道理にかなっており,わたしたちがその原則に調和して行動するのはわたしたち自身の益になります。

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