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「あらゆる国民のための祈りの家」ものみの塔 1996 | 7月1日
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「あらゆる国民のための祈りの家」
「『わたしの家はあらゆる国民のための祈りの家と呼ばれるであろう』と書いてあるではありませんか」― マルコ 11:17。
1 アダムとエバは,最初は神とのどんな関係を享受していましたか。
アダムとエバは創造されたとき,天の父との親密な関係を享受していました。エホバ神は彼らと意思を通わせ,人類に対するご自分のすばらしい目的のあらましを説明されました。きっと二人は,エホバの壮大な創造のみ業にしばしば感動してエホバを賛美せずにはいられなかったことでしょう。アダムとエバは,人間家族の父親また母親になる者としての自分たちの役割について考えたときに,もし指導を仰ぐ必要を感じたなら,自分たちの住まいであるパラダイスのどこからでも神に近づくことができました。彼らは神殿の祭司の行なう様々な奉仕を必要としませんでした。―創世記 1:28。
2 アダムとエバが罪を犯したとき,どんな変化が生じましたか。
2 その状況は,反逆したみ使いがエバをたぶらかしたときに変化しました。そのみ使いはエバに,もしエホバの主権を退けるなら自分の境遇は向上すると考えさせ,あなたは『神のようになれる』と述べたのです。それでエバは,神から禁じられていた木の実を取って食べました。次いでサタンは,エバを使って彼女の夫を誘惑しました。悲しいことに,アダムは罪を犯した妻に聞き従い,神との関係よりも妻との関係を高く評価していることを示しました。(創世記 3:4-7)結果的に,アダムとエバはサタンを自分たちの神として選んだことになります。―コリント第二 4:4と比較してください。
3 アダムとエバの反逆はどんな悪い結果をもたらしましたか。
3 そうすることによって,最初の人間夫婦は,神との貴重な関係だけでなく,地上の楽園で永遠に生きるという見込みをも失いました。(創世記 2:16,17)罪深い体は次第に衰えてゆき,二人はついに死にました。彼らの子孫はその罪深い状態を受け継ぎました。「こうして死が……すべての人に広がった」と,聖書は説明しています。―ローマ 5:12。
4 神は罪深い人類にどんな希望を差し伸べられましたか。
4 罪深い人類が聖なる創造者と和解するには,何かが必要でした。神はアダムとエバに判決を下した際,サタンの反逆のもたらした結果から人間を救う「胤」を約束することにより,二人の子孫となる人々に希望をお与えになりました。(創世記 3:15)後に神は,祝福の胤がアブラハムを通して来ることを明らかにされました。(創世記 22:18)神はこの愛ある目的を念頭に置いて,アブラハムの子孫,すなわちイスラエル人を選んでご自分の選民とされました。
5 わたしたちは,神がイスラエルと結ばれた律法契約の詳細な点に,なぜ関心を抱くべきですか。
5 西暦前1513年,イスラエル人は神との契約関係に入り,律法に従うことに同意しました。その律法契約は約束の胤を指し示していたゆえに,今日神を崇拝したいと思うすべての人にとって大いに関心のある事柄であるはずです。パウロは,律法には「来たるべき良い事柄の影」が収められていると述べました。(ヘブライ 10:1)パウロはそのことを述べたとき,移動可能な幕屋,つまり崇拝用の天幕でのイスラエルの祭司たちの奉仕について論じていました。その天幕は,「エホバの神殿」もしくは「エホバの家」と呼ばれました。(サムエル第一 1:9,24)わたしたちはエホバの地的な家で行なわれた神聖な奉仕について調べることにより,今日の罪深い人間と神との和解を可能にする憐れみ深い取り決めをより十分に認識できるようになります。
至聖所
6 至聖所には何が置かれていましたか。神の臨在は,そこにどのように表わし示されましたか。
6 「至高者は手で造られた家などに住まれるのでは(ない)」と,聖書は述べています。(使徒 7:48)しかし,神がご自分の地的な家に臨在されたことは,至聖所と呼ばれる一番奥の仕切り室の中に現われた雲によって表象されていました。(レビ記 16:2)この雲は明るく輝き,至聖所に光を与えていたものと思われます。それは,「証の箱」と呼ばれる神聖な大箱の上方にありました。箱の中には,神がイスラエルに与えた命令が幾つか刻み込まれた石の書き板が収められていました。その箱の覆いの上には,神の天的組織における高位の霊の被造物を表わす,翼を広げた二つの金のケルブがありました。光り輝くその奇跡的な雲は,覆いの上方,二つのケルブの間に位置していました。(出エジプト記 25:22)これは,生きたケルブの支える天的な兵車に乗っておられる全能の神を描画的に表わすものでした。(歴代第一 28:18)ヒゼキヤ王が,「ケルブたちの上に座しておられる,イスラエルの神,万軍のエホバよ」と祈ったのも,そのためです。―イザヤ 37:16。
聖所
7 聖所にはどんな備品がありましたか。
7 幕屋の第二の仕切り室は聖所と呼ばれました。この場所には,入口から入って左側に美しい七枝の燭台が一つ据えられており,右側に供えのパンの食卓が一つありました。そして正面に祭壇が一つ据えられており,そこから,薫いた香の香りが立ち上りました。その祭壇は,聖所を至聖所から分け隔てる垂れ幕の前に置かれていました。
8 祭司たちは定期的に聖所でどんな務めを果たしましたか。
8 毎日,朝と夕方に,祭司は幕屋に入って香の祭壇で香を薫かなければなりませんでした。(出エジプト記 30:7,8)朝は,香が薫かれている間に,金の燭台の七つのともしびに油をつぎ足さなければなりませんでした。夕方には,それらのともしびがともされて,聖所のための光となりました。祭司は安息日ごとに焼きたてのパン12個を供えのパンの食卓の上に置かなければなりませんでした。―レビ記 24:4-8。
中庭
9 水を入れた水盤にはどんな目的がありましたか。そのことからどんな教訓が得られますか。
9 幕屋には,天幕布の柵で囲われた中庭もありました。この中庭には,祭司が聖所に入る前に手と足を洗うための大きな水盤がありました。祭司たちは,中庭にある祭壇の上に犠牲をささげる時にも,そうする前に身を洗わなければなりませんでした。(出エジプト記 30:18-21)清さに関するこの要求は,今日の神の僕たちに,もし崇拝を神に受け入れていただきたければ,身体的,道徳的,精神的,霊的に浄くあるよう懸命に努力しなければならないことを深く銘記させるものです。(コリント第二 7:1)やがて,祭壇上で火を燃やすためのまきや水盤に満たす水は,イスラエル人ではない神殿奴隷によって供給されるようになりました。―ヨシュア 9:27。
10 犠牲の祭壇の上にささげられた捧げ物にはどんなものがありましたか。
10 毎日,朝と夕方に,一頭の若い犠牲の雄羊が,穀物および飲み物の捧げ物と共に祭壇の上で焼かれました。(出エジプト記 29:38-41)特別の日には,ほかの犠牲がささげられました。時には,ある特定の個人的な罪のために犠牲をささげなければならないこともありました。(レビ記 5:5,6)また,イスラエル人は自発的な共与の犠牲をささげることもでき,その犠牲の一部は祭司たちと捧げ物をした人が食べました。これは,罪のある人間が,いわば神と共に食事を楽しみ,神との平和を享受できる,ということを表わすものでした。外人居留者でさえ,エホバの崇拝者になってエホバの家で自発的な捧げ物を差し出す特権にあずかることができました。しかし,エホバに対する当然の敬意を示すために,祭司たちは最も質の良い捧げ物しか受け入れることができませんでした。穀物の捧げ物にする麦粉は細かくひいたものでなければならず,犠牲としてささげる動物は欠陥のないものでなければなりませんでした。―レビ記 2:1; 22:18-20。マラキ 1:6-8。
11 (イ)動物の犠牲の血はどのようにされましたか。これは何を指し示すものでしたか。(ロ)人間の血も動物の血も,神はどうみなしておられますか。
11 それらの犠牲の血は祭壇の所に携えて行かれました。これはイスラエル国民に,自分たちが請け戻す者を必要とする罪人であることを日ごとに思い起こさせるものとなりました。請け戻す者の流す血がその国民の罪を永久的に贖い,彼らを死から救うものとなるのです。(ローマ 7:24,25。ガラテア 3:24。ヘブライ 10:3と比較してください。)血のこうした神聖な用法はまた,血は命を表わしており,命は神のものである,ということをイスラエル人に思い起こさせました。人間が他のどんな方法で血を用いることも,これまで常に神によって禁じられてきました。―創世記 9:4。レビ記 17:10-12。使徒 15:28,29。
贖罪の日
12,13 (イ)贖罪の日とはどんな日でしたか。(ロ)大祭司は至聖所に血を携え入れる前に,何をしなければなりませんでしたか。
12 エホバを崇拝する外人居留者を含めイスラエル国民全員は,年に一度,贖罪の日と呼ばれる日に,すべての仕事をやめて断食をしなければなりませんでした。(レビ記 16:29,30)この重要な日に,国民は一つの例証として罪から清められ,もう一年,神との平和な関係を享受できるようになりました。その情景を想像し,際立った点を幾つか考慮しましょう。
13 大祭司が幕屋の中庭にいます。水の水盤の所で身を洗った大祭司は,犠牲としてささげる雄牛をほふります。雄牛の血は鉢の中に注ぎ入れられ,祭司を務めるレビの部族の罪を贖うために特別な仕方で用いられます。(レビ記 16:4,6,11)しかし,その犠牲に関してさらに事を進める前に,大祭司のしなければならないことがあります。大祭司は薫香を取り(恐らく,杓子に入れ),祭壇から燃える炭火を取って火取り皿に入れます。そして今,聖所に入り,至聖所の垂れ幕に向かって歩いて行きます。大祭司はゆっくりとその垂れ幕をよけて通過し,契約の箱の前に立ちます。次いで,他のいかなる人間の目にも触れることなく,大祭司が燃える炭火の上に香を注ぐと,至聖所には芳しい煙が立ちこめます。―レビ記 16:12,13。
14 大祭司が2種類の異なった動物の血を携えて至聖所に入らなければならなかったのはなぜですか。
14 今や神は,一つの例証として,進んで憐れみを示し,自ら気持ちをなだめようとしておられます。そのため,契約の箱の覆いは「憐れみの座」もしくは「なだめの覆い」と呼ばれました。(ヘブライ 9:5,脚注)大祭司は「聖の聖なる所」から出,雄牛の血を取って再び至聖所に入ります。律法の中で命じられているとおり,その血に指を浸して,箱の覆いの前に血を7回はね掛けます。(レビ記 16:14)次いで,中庭に戻り,「民のための」罪の捧げ物となる1頭のやぎをほふります。そして,その血の幾らかを携えて至聖所に入り,雄牛の血に関して行なったのと同じように行ないます。(レビ記 16:15)贖罪の日には,ほかにも幾つかの重要な儀式が行なわれました。例えば,大祭司は2頭目のやぎの頭の上に両手を置いて,「イスラエルの子らの……とが」をその上に言い表わさなければなりませんでした。この生きているやぎはそのあと荒野へ引いて行かれ,比喩的な意味で国民の罪を運び去るようにされました。このようにして,毎年,「祭司たちのため,次いで会衆の民全員のために」贖罪が行なわれました。―レビ記 16:16,21,22,33。
15 (イ)ソロモンの神殿はどのように幕屋と似ていましたか。(ロ)ヘブライ人への書は,幕屋でも神殿でも同じように行なわれた神聖な奉仕について何と述べていますか。
15 移動可能なこの幕屋は,イスラエルにとって神の契約の民としての歴史における最初の486年間,自分たちの神エホバを崇拝するための場所となりました。その後,イスラエルのソロモンは恒久的な構築物を建造する特権を与えられました。この神殿はより大きな,より手の込んだ造りになりましたが,神から与えられたその設計は幕屋の場合と同じ型に倣っていました。その神殿は幕屋と同様,『人間ではなくエホバが立てる』ことになっていた,崇拝のためのより偉大な,より効果的な取り決めを例示するものだったのです。―ヘブライ 8:2,5; 9:9,11。
最初の神殿と二番目の神殿
16 (イ)ソロモンは神殿を献納する際に,愛のこもったどんな願いを表明しましたか。(ロ)エホバはソロモンの祈りを聞き入れたことをどのように示されましたか。
16 ソロモンはその壮麗な神殿を献納する際に,霊感によるこの願いを含めて祈りました。「あなたの民イスラエルのものではないのに,あなたの大いなるみ名……のゆえに遠い地から実際にやって来る異国の人のために……,また実際,彼らがやって来て,この家に向かって祈るなら,そのとき,あなたが天から,すなわちあなたの住まわれる定まった場所からお聴きになり,すべてその異国の人があなたに呼び求めるところにしたがって行なってください。それは,地のすべての民があなたのみ名を知り,あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れ,あなたのみ名が,私の建てたこの家に付されてとなえられていることを知るためです」。(歴代第二 6:32,33)神はソロモンの献納の祈りを聞き入れたことを,だれの目にもはっきり分かるように示されました。天から一条の火が下って祭壇上の動物の犠牲を焼きつくし,神殿にエホバの栄光が満ちたのです。―歴代第二 7:1-3。
17 ソロモンの建てた神殿は後にどうなりましたか。それはなぜですか。
17 残念なことに,イスラエル人はエホバに対する健全な恐れを抱かなくなりました。やがて彼らは,流血,偶像礼拝,姦淫,近親相姦などの行ないにより,また孤児ややもめや異国人を虐げることにより,エホバの偉大なみ名を汚しました。(エゼキエル 22:2,3,7,11,12,26,29)そのため,神は西暦前607年に,バビロンの軍隊を招き寄せて神殿を滅ぼさせることにより,裁きを執行されました。生き残ったイスラエル人は,とりこにされてバビロンへ連れて行かれました。
18 二番目の神殿では,イスラエル人ではないものの,心をこめてエホバの崇拝を支持していた男子の一部に,どんな特権が与えられましたか。
18 70年後,悔い改めたユダヤ人の残りの者たちは,エルサレムに帰還し,エホバの神殿を再建する特権を授けられました。ここで興味を引くのは,この二番目の神殿で仕えるための祭司やレビ人の数が不足していたことです。その結果,イスラエル人ではない神殿奴隷の子孫であったネティニムが,神の家の奉仕者として以前より大きな特権を与えられました。とはいえ,彼らは決して祭司やレビ人と同等の立場になったわけではありません。―エズラ 7:24; 8:17,20。
19 二番目の神殿に関して神はどんな約束をなさいましたか。その言葉はどのように実現しましたか。
19 初めのうち,二番目の神殿は以前のものに比べれば無に等しいように思えました。(ハガイ 2:3)しかし,エホバはこう約束なさいました。「わたしはあらゆる国民を激動させる。あらゆる国民のうちの望ましいものが必ず入って来る。わたしはこの家を栄光で満たす。……この,後の家の栄光は,先のものより大いなるものとなる」。(ハガイ 2:7,9)この言葉にたがわず,二番目の神殿は実際に,より大きな栄光を受けました。その神殿は最初のものより164年も長く存続し,またより多くの国々からより多くの崇拝者が群れを成してその中庭に入って来たのです。(使徒 2:5-11と比較してください。)ヘロデ王の時代にはこの二番目の神殿の修復が始まり,その幾つかの中庭は拡張されました。石で築き上げた巨大な台地の上に高められ,美しい柱廊に囲まれたこの神殿は,偉観の点でソロモンの建てた最初の神殿に引けをとりませんでした。神殿域には,エホバを崇拝することを望む諸国の人々のための,広い外の中庭も含まれていました。この“異邦人の中庭”は,石の障壁によって,イスラエル人しか入れない内側の中庭と隔てられていました。
20 (イ)再建された神殿には,どんな目立った特色がありましたか。(ロ)神殿に対するユダヤ人の見方が間違っていたことは,どんな点に表われていましたか。これに対してイエスは何を行なわれましたか。
20 この二番目の神殿には,その中庭で神のみ子イエス・キリストが人々を教えたという大きな特色がありました。しかし,最初の神殿の場合と同様,ユダヤ人一般は,神の家の管理人であることの特権に対し,ふさわしい見方を持っていませんでした。なんと,彼らは商人たちが異邦人の中庭で商売するのを許すことさえしていたのです。それに,民はエルサレムのあちらこちらへ物を運ぶ際に神殿を近道として用いることも許されていました。イエスは死を遂げる四日前に,そのような世俗的な習わしから神殿を清めました。「『わたしの家はあらゆる国民のための祈りの家と呼ばれるであろう』と書いてあるではありませんか。それなのに,あなた方はそれを強盗の洞くつとしました」と言いながら,そうされたのです。―マルコ 11:15-17。
神はご自分の地的な家を永久に見捨てられる
21 イエスはエルサレムの神殿に関して何を示唆されましたか。
21 イエスが神の清い崇拝を擁護して勇敢に行動したため,ユダヤ人の宗教指導者たちはイエスを殺そうと決意しました。(マルコ 11:18)イエスはご自分が間もなく殺害されることを知って,ユダヤ人の宗教指導者たちに対し,「あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」と言われました。(マタイ 23:37,38)それによってイエスは,エルサレムの予型的神殿で行なわれていた崇拝の方式がその後まもなく神に受け入れられるものではなくなる,ということを示唆されました。その神殿はもはや「あらゆる国民のための祈りの家」ではなくなるのです。イエスの弟子たちがその壮大な神殿の建物にイエスの注意を向けた時,イエスは,「あなた方はこれらのすべてのものを眺めないのですか。……石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう」と言われました。―マタイ 24:1,2。
22 (イ)神殿についてのイエスの言葉はどのように成就しましたか。(ロ)初期のクリスチャンは,地上の一都市を希望の中心にする代わりに,何を求めましたか。
22 イエスの預言は,それから37年後の西暦70年に,ローマの軍隊がエルサレムとその神殿を滅ぼしたとき,成就しました。その事は,神がご自分の予型的な家を実際に見捨てられたことの劇的な証拠となりました。エルサレムにまた神殿が再建される,とイエスが予告したことは一度もありません。地上のその都市に関し,使徒パウロはヘブライ人のクリスチャンにあてて,「わたしたちはここに,永続する都市を持っておらず,来たるべきものを切に求めている」と書きました。(ヘブライ 13:14)初期のクリスチャンは,「天のエルサレム」,すなわち都市に似た神の王国の一部になることを期待していたのです。(ヘブライ 12:22)ですから,エホバの真の崇拝はもはや地上の物質の神殿を中心にしたものではありません。次の記事では,「霊と真理をもって」神を崇拝することを願う人すべてのために神が設けておられる,より優れた取り決めについて考慮します。―ヨハネ 4:21,24。
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エホバの偉大な霊的神殿ものみの塔 1996 | 7月1日
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エホバの偉大な霊的神殿
「わたしたちにはこのような大祭司があり,その方は……聖なる場所,そして,人間ではなくエホバの立てた真の天幕の公僕であられ(ます)」― ヘブライ 8:1,2。
1 神は罪深い人類のために,愛あるどんな備えを設けてくださいましたか。
エホバ神は人類に対する大いなる愛のゆえに,世の罪を取り去るための犠牲を備えてくださいました。(ヨハネ 1:29; 3:16)それには,ご自分の初子の命を天からマリアという名のユダヤ人の処女の胎に移すことが必要でした。エホバの使いはマリアに,あなたの身ごもる子供は「聖なる者,神の子と呼ばれ(る)」であろうと,はっきり説明しました。(ルカ 1:34,35)マリアの婚約者であったヨセフは,マリアが奇跡によってイエスを身ごもったことを告げられ,このイエスが「自分の民をその罪から救う」者となることを知らされました。―マタイ 1:20,21。
2 イエスはおよそ30歳になった時,何を行なわれましたか。それはなぜですか。
2 イエスは成長するにつれ,自分の奇跡的な誕生についてのそうした事実を幾らか理解されたに違いありません。イエスは天の父が,地上で命を救う業を自分に行なわせようとしておられることをご存じでした。それで,およそ30歳という十分に成長した大人になった時,イエスは神の預言者ヨハネの所へ行き,ヨルダン川でバプテスマを受けられました。―マルコ 1:9。ルカ 3:23。
3 (イ)イエスは,「犠牲や捧げ物をあなたは望まず」という言葉で何を言わんとされましたか。(ロ)イエスはご自分の弟子になりたいと思う人全員のためにどんな際立った模範を示されましたか。
3 イエスはバプテスマを受けるとき祈っておられました。(ルカ 3:21)人間としての生涯においてこの時以降,詩編 40編6節から8節の言葉を成就されたことは明らかです。後に使徒パウロが記した,「犠牲や捧げ物をあなたは望まず,わたしのために体を備えてくださった」という言葉に示されているとおりです。(ヘブライ 10:5)ですから,イエスは,エルサレムの神殿で引き続き動物の犠牲がささげられることを神が『望まれない』というご自分の認識を示されたことになります。むしろ神はイエスのために,犠牲としてささげる完全な人間の体を用意されたのであり,イエスはそのことを悟っておられたのです。その犠牲がささげられたなら,動物の犠牲をささげる必要はもはやなくなります。イエスは神の意志に服したいという心からの願いを示し,続けて祈りの中でこう言われました。「ご覧ください,わたしは参りました(書の巻き物にわたしについて書いてあります),神よ,あなたのご意志を行なうために」。(ヘブライ 10:7)イエスはその日,後にご自分の弟子になる人全員のために,勇気と無私の専心に関する何とすばらしい模範を示されたのでしょう。―マルコ 8:34。
4 イエスが自分自身をささげた時,神はそれに対する是認をどのように示されましたか。
4 神はイエスのバプテスマの際の祈りを是認されたでしょうか。イエスの選んだ使徒たちの一人に答えてもらいましょう。「バプテスマを受けたのち,イエスはすぐに水から上がられた。すると,見よ,天が開け,イエスは,神の霊がはとのように下って自分の上に来るのをご覧になった。見よ,さらに天からの声があって,こう言った。『これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した』」― マタイ 3:16,17。ルカ 3:21,22。
5 文字どおりの神殿の祭壇は何を表わしていましたか。
5 犠牲として差し出されたイエスの体を神が受け入れられたということは,霊的な意味で,エルサレムの神殿のものより偉大な祭壇が前面に出て来ていたことを意味しました。動物が犠牲として差し出された文字どおりの祭壇は,その霊的祭壇を予表するものでした。その霊的祭壇とは,要するに,イエスの人間の命を犠牲として受け入れる神の「意志」もしくは取り決めのことでした。(ヘブライ 10:10)使徒パウロが仲間のクリスチャンにあてて,「わたしたちには,天幕[または,神殿]で神聖な奉仕をする者たちもそれから食べる権限を持たない祭壇があります」と書くことができたのも,そのためです。(ヘブライ 13:10)言い換えれば,真のクリスチャンは,ほとんどのユダヤ人祭司が退けた,より勝った贖罪の犠牲の恩恵に浴するのです。
6 (イ)イエスがバプテスマを受けた時,何が前面に出て来ましたか。(ロ)メシア,またキリストという称号は,何を意味しますか。
6 イエスが聖霊で油そそがれたことは,神が今や,イエスが大祭司として仕える霊的神殿の取り決めをすべて整えられたことを意味しました。(使徒 10:38。ヘブライ 5:5)弟子のルカは霊感のうちに,この重大な出来事の起きた年を「ティベリウス・カエサルの治世の第十五年」と正確に指摘しました。(ルカ 3:1-3)その年は西暦29年に当たります。アルタクセルクセス王がエルサレムの城壁を建て直すよう命じた時から数えてきっかり69週の年,つまり483年が経過した時点のことです。(ネヘミヤ 2:1,5-8)預言によれば,注目のその年に「指導者であるメシア」が現われることになっていました。(ダニエル 9:25)多くのユダヤ人はそのことを知っていたようです。ルカは,メシア,つまりキリストの登場を『民が待ち設けていた』と伝えています。メシア,またキリストとは,ヘブライ語,またギリシャ語に由来する称号で,どちらにも同じ「油そそがれた者」という意味があります。―ルカ 3:15。
7 (イ)神はいつ「聖の聖なる所」を油そそがれましたか。これは何を意味しましたか。(ロ)イエスがバプテスマを受けた時,イエスの身にはほかにどんなことが起きましたか。
7 イエスがバプテスマを受けた時,神の天の住まいは,偉大な霊的神殿の取り決めにおける「聖の聖なる所」として油そそがれました。つまり,取り分けられました。(ダニエル 9:24)「人間ではなくエホバの立てた真の天幕[または,神殿]」が機能するようになったのです。(ヘブライ 8:2)また,人間イエス・キリストは水と聖霊でバプテスマを施されることにより,再び生まれて神の霊的な子となりました。(ヨハネ 3:3と比較してください。)これは,神がやがてはそのみ子を天的な命に呼び戻されることを意味しました。その時み子はご自分の父の右で「メルキゼデクのさまにしたがい永久に」王また大祭司として仕えるのです。―ヘブライ 6:20。詩編 110:1,4。
天的な至聖所
8 天にある神のみ座は今やどんな新たな特色を帯びましたか。
8 イエスのバプテスマの日に,神の天的な座は新たな特色を帯びました。世の罪を贖う完全な人間の犠牲の実体が明らかになったことで,人間の罪深さと対照をなす神の神聖さが強調されました。また,神の憐れみも際立ちました。神は今やご自分を和める,もしくはなだめる意志があることをお示しになったのです。それで,天にある神のみ座は,大祭司が例示的な仕方で年に一度罪を贖うために動物の血を携えて入った,神殿の一番奥の仕切り室のようになりました。
9 (イ)聖所と至聖所との間の垂れ幕は何を表わしていましたか。(ロ)イエスはどのように,神の霊的神殿の垂れ幕の向こうへ入って行かれましたか。
9 聖所を至聖所から分け隔てていた垂れ幕は,イエスの肉の体を表わしていました。(ヘブライ 10:19,20)肉体は,イエスが地上の人間であった間イエスを天の父のおられる所へ入れないようにしていた障害物でした。(コリント第一 15:50)イエスが亡くなられた時,「聖なる所の垂れ幕が上から下まで二つに裂け」ました。(マタイ 27:51)これは,イエスにとって天に入る妨げとなっていた障害物が今や除かれたことを示す劇的な出来事です。三日後,エホバ神は一つの際立った奇跡を行なわれました。神はイエスを,肉と血から成る死すべき人間としてではなく,栄光に満ちた「永久に生き続ける」霊の被造物としてよみがえらせたのです。(ヘブライ 7:24)それから40日後にイエスは天に昇り,真の「聖の聖なる所」に入って「わたしたちのために神ご自身の前に出て」くださいました。―ヘブライ 9:24。
10 (イ)イエスが天の父にご自分の犠牲の価値を差し出した後,何が起きましたか。(ロ)キリストの弟子たちにとって,聖霊で油そそがれることは何を意味しましたか。
10 神はイエスの流した血の価値を,世の罪を贖うものとして受け入れられたでしょうか。確かに,受け入れられました。その証拠は,イエスの復活した日から数えてちょうど50日後の,ペンテコステの祭りの日に明らかになりました。神の聖霊が,エルサレムに集まっていたイエスの弟子たち120人の上に注ぎ出されたのです。(使徒 2:1,4,33)彼らは,自分たちの大祭司イエス・キリストのように,今や油そそがれ,神の偉大な霊的神殿の取り決めのもとで「聖なる祭司職」にある者として仕え,「霊的な犠牲を……ささげる」ようになりました。(ペテロ第一 2:5)さらに,それら油そそがれた者たちは新しい国民,すなわち霊的イスラエルという神の「聖なる国民」となりました。それ以降,エレミヤ 31章31節に記されている「新しい契約」の約束など,イスラエルについての良い事柄に関する預言はすべて,油そそがれたクリスチャン会衆,すなわち真の「神のイスラエル」に適用されることになりました。―ペテロ第一 2:9。ガラテア 6:16。
神の霊的神殿の他の特色
11,12 (イ)イエスの場合,祭司の中庭は何を表わしていましたか。油そそがれた追随者たちの場合,それは何ですか。(ロ)水盤は何を表わしていますか。それはどのように用いられていますか。
11 至聖所は神が座しておられる所である「天そのもの」を表わしていましたが,神の霊的神殿の他の特色はすべて地上の事柄に関係があります。(ヘブライ 9:24)エルサレムの神殿には奥の祭司の中庭があり,そこには犠牲をささげる祭壇と,祭司たちが神聖な奉仕を行なう前に身を清めるために用いた,水の入った大きな水盤がありました。これらの物は神の霊的神殿の取り決めにおける何を表わしているのでしょうか。
12 イエス・キリストの場合,奥の祭司の中庭は,神の完全な人間であるみ子としての罪のない状態を表わしていました。キリストの油そそがれた追随者は,イエスの犠牲に信仰を働かせることによって義を信用貸しされています。それで,神は正当に,彼らを罪のない者であるかのように扱うことがおできになります。(ローマ 5:1; 8:1,33)したがって,この中庭は,聖なる祭司職にある個々の成員が神のみ前で享受する,人間として義を付与された状態をも表わしています。それでもやはり,油そそがれたクリスチャンは不完全であり,罪を犯す傾向があります。中庭の水盤は,大祭司が聖なる祭司職にある者を漸進的に清めてゆくために用いる,神の言葉を表わしています。それらのクリスチャンはこの清めの処置に服することにより,神の誉れとなる,また外部の人たちを神の清い崇拝に引きつける立派な姿になりました。―エフェソス 5:25,26。マラキ 3:1-3と比較してください。
聖所
13,14 (イ)神殿の聖所は,イエスとその油そそがれた追随者たちの場合,何を表わしていますか。(ロ)金の燭台は何を表わしていますか。
13 神殿の第一の仕切り室は,中庭の状態に勝るある状態を表わしています。完全な人間イエス・キリストの場合,それは,神の霊的な子として再生し,天的な命に戻るよう定められていることを表わしています。油そそがれた追随者たちはキリストの流された血に対する信仰に基づいて義と宣せられた後,彼らもやはり神の霊のこの特別な働きを経験します。(ローマ 8:14-17)彼らは「水[つまり,彼らのバプテスマ]と霊」によって「再び生まれ」,神の霊的な子となっているのです。そして,そのような者として,死ぬまで忠実であれば天的な命に復活して神の霊の子となれるという希望を抱いています。―ヨハネ 3:5,7。啓示 2:10。
14 地上の神殿の聖所の中で奉仕した祭司たちは,外にいた崇拝者たちの目には見えませんでした。同様に,油そそがれたクリスチャンの経験する霊的な状態も,楽園となる地上で永遠に生きることを希望とする,神の崇拝者の大多数にはあずかることのできない,また十分には理解できない事柄です。幕屋の金の燭台は,油そそがれたクリスチャンの啓発された状態を表わしています。ともしびの油のような,神の聖霊の働きは,聖書に光明を投じます。クリスチャンは,その結果得られる理解を自分たちだけのものにはしません。むしろ,イエスの言われた,「あなた方は世の光です。……あなた方の光を人々の前に輝かせ,人々があなた方のりっぱな業を見て,天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい」という言葉に従います。―マタイ 5:14,16。
15 供えのパンの食卓に載せられたパンは何を表わしていましたか。
15 油そそがれたクリスチャンは,この啓発された状態を保つために,供えのパンの食卓に載せられたパンによって表わされているもので自分を定期的に養わなければなりません。彼らの霊的食物の主要な源は神の言葉であり,彼らは毎日それを読むと共に,それについて黙想するよう努めます。イエスはまた,ご自分の「忠実で思慮深い奴隷」を通して彼らに『時に応じた食物』を供給することも約束なさいました。(マタイ 24:45)この「奴隷」とは,いずれの時代についてもそのとき地上にいる油そそがれたクリスチャンの集団全体のことです。キリストはこの油そそがれた集団を用いて,聖書預言の成就に関する情報を公にし,また聖書の原則を現代の日常生活に適用する方法に関し時宜にかなった導きを与えてこられました。それゆえに,油そそがれたクリスチャンは,そのようにして供給されるすべての霊的食物を感謝して取り入れ,自分を養います。とはいえ,彼らの霊的な命が維持されるかどうかは,神に関する知識を思いと心に取り入れることだけにかかっているのではありません。イエスは,「わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです」と言われました。(ヨハネ 4:34)同様に,油そそがれたクリスチャンも,神の啓示された意志の遂行に毎日専念することにより満足を経験します。
16 香の祭壇での奉仕は何を表わしていましたか。
16 朝に夕に,祭司は聖所にある香の祭壇の上で神に香をささげました。時を同じくして,祭司ではない崇拝者たちは,神殿の外の中庭に立って神に祈りました。(ルカ 1:8-10)「その香は聖なる者たちの祈りを表わしている」と,聖書は説明しています。(啓示 5:8)詩編作者ダビデは,「わたしの祈りがあなたのみ前の香として……備えられますように」と書きました。(詩編 141:2)油そそがれたクリスチャンも,イエス・キリストを通して祈りのうちにエホバに近づく特権を大切にします。心から発する熱情にあふれた祈りは,芳しい香りを放つ香のようです。油そそがれたクリスチャンは,他の人たちを教えるために自分の唇を用いるなど,他の方法でも神を賛美します。つらく苦しい状況にあって示す忍耐や,試練のもとでの忠誠は,神に特に喜ばれます。―ペテロ第一 2:20,21。
17 贖罪の日に大祭司が1回目に至聖所に入ることによって一つの預言的場面が示されましたが,その成就には何が関係していましたか。
17 贖罪の日に,イスラエルの大祭司は至聖所に入って,燃える炭火の入っている金の香炉の上で香を薫かなければなりませんでした。罪の捧げ物の血を携え入れる前にそうしなければなりませんでした。この預言的場面の成就において,人間イエスはご自分の命をわたしたちの罪のための一つの永続的犠牲としてささげる前に,エホバ神への全き忠誠を保たれました。こうしてイエスは,完全な人間はサタンからどんな圧力を加えられようと神への忠誠を守ることができる,という点を実証しました。(箴言 27:11)イエスは試練に遭った時,「強い叫びと涙をもって」祈りをささげ,「その敬虔な恐れのゆえに聞き入れられました」。(ヘブライ 5:7)そのようにして,イエスはエホバを義なる正当な宇宙主権者としてたたえました。神はイエスを死んだ状態から不滅の天的な命に復活させることにより,イエスに報いをお与えになりました。イエスはこの高められた地位にあって,ご自分が地に来られた第二の理由,すなわち罪を悔い改めた人間を神と和解させるという面に注意を向けられます。―ヘブライ 4:14-16。
神の霊的神殿の,より大いなる栄光
18 エホバはご自分の霊的神殿にどのように際立った栄光を付与されましたか。
18 「この,後の家の栄光は,先のものより大いなるものとなる」と,エホバは予告されました。(ハガイ 2:9)エホバはイエスを復活させて不滅の王また大祭司とすることにより,ご自分の霊的神殿に際立った栄光を付与されました。イエスは今や「自分に従う者すべてに対し,永遠の救い」をもたらすことのできる立場におられます。(ヘブライ 5:9)そのような従順を示す者たちの先駆けとなったのは,西暦33年のペンテコステの日に聖霊を受けた120人の弟子たちでした。啓示の書は,それら霊的なイスラエルの子らの数が最終的には14万4,000人になることを予告していました。(啓示 7:4)それらの人の多くは,死ぬと無意識の状態で人類共通の墓の中に横たわり,イエスが王権を執って臨在される時を待たなければなりませんでした。ダニエル 4章10節から17節,および20節から27節に含まれている預言的な年代記述の示すところによれば,イエスが敵のただ中で支配し始める時は1914年です。(詩編 110:2)その何十年も前から,油そそがれたクリスチャンたちは熱心にその年を待ち望んでいました。第一次世界大戦とそれに付随して人類に臨んだ数々の災いは,イエスが確かに1914年に王として即位されたことの証拠となりました。(マタイ 24:3,7,8)そのすぐ後に,「裁きが神の家から始まる」時が到来すると,イエスは,死の眠りに就いていた油そそがれた弟子たちに対する約束,すなわち「わたしは再び来て,あなた方をわたしのところに迎えます」という約束を果たされました。―ペテロ第一 4:17。ヨハネ 14:3。
19 14万4,000人の残りの者たちは,どのようにして天的な至聖所に入りますか。
19 聖なる祭司の集団を構成する14万4,000人は,すでに全員が最終的な証印を押されて天の住まいに集められたわけではありません。残りの者たちがまだ地上にいて,聖所の表わす霊的な状態,すなわち彼らの肉の体という「垂れ幕」つまり障害物によって神の聖なるみ前から分け隔てられた状態のうちに生活しています。これらの人たちは,忠実を保って死ぬと瞬時に復活させられて不滅の霊の被造物となり,14万4,000人のうちすでに天にいる成員に加わります。―コリント第一 15:51-53。
20 聖なる祭司職に就く残っている者たちは現在どんな重要な業を行なっていますか。それはどんな結果を見ていますか。
20 それほど多くの祭司が天の偉大な大祭司と共に奉仕しているので,神の霊的神殿は増し加わった栄光を受けています。一方,聖なる祭司職に就く残っている者たちは,地上で価値ある業を行なっています。神は彼らの宣べ伝える業により,ハガイ 2章7節で予告されていたとおり,ご自分の裁きの表明によって『あらゆる国民を激動させて』おられます。それと同時に,「あらゆる国民のうちの望ましいもの」と描写されている崇拝者たちが幾百万人も,エホバの神殿の地的中庭に群れを成して集まってきています。これらの人たちは神の崇拝のための取り決めにどのように適合しますか。また,わたしたちは神の偉大な霊的神殿に将来さらにどんな栄光が増し加わることを期待できるでしょうか。こうした質問については次の記事の中で検討されます。
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真の崇拝の勝利は近いものみの塔 1996 | 7月1日
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真の崇拝の勝利は近い
「エホバは全地の王となるのである」― ゼカリヤ 14:9。
1 第一次世界大戦中,油そそがれたクリスチャンはどのような経験をしましたか。そのことはどのように予告されていましたか。
第一次世界大戦中,油そそがれたクリスチャンは,交戦中の諸国家の手にかかって度重なる辛苦や投獄を経験しました。エホバに賛美の犠牲をささげることは厳しく制限され,彼らは霊的捕らわれの状態に陥りました。こうしたことはみな,ゼカリヤ 14章2節で予告されていました。そこには,諸国民がこぞってエルサレムを攻撃する様が描写されています。この預言の中のその都市は「天のエルサレム」,すなわち神の天の王国であり,「神と子羊とのみ座」のある所です。(ヘブライ 12:22,28; 13:14。啓示 22:3)地上にいる神の油そそがれた者たちがその都市を代表していました。彼らのうちの忠実な者たちはその攻撃を生き残り,「その都市から」流刑にされるままにはなりませんでした。a
2,3 (イ)エホバの崇拝は1919年以来どのように勝利を収めてきましたか。(ロ)1935年以来,どんな進展がありましたか。
2 1919年,忠実な油そそがれた者たちは,捕らわれの状態から自由にされ,直ちに戦後の平和な時期を活用しました。天のエルサレムの大使であった彼らは,神の王国の良いたよりを宣べ伝えて14万4,000人の最後の成員を集める業に加勢する,壮大な機会をとらえました。(マタイ 24:14。コリント第二 5:20)また1931年には,エホバの証人というふさわしい聖書的な名称を採用しました。―イザヤ 43:10,12。
3 それ以来,神の油そそがれた証人たちはひたすら前進を続けてきました。ヒトラーとナチの戦争機構でさえ彼らを沈黙させることはできませんでした。世界中で迫害されたにもかかわらず,彼らの業は全地で実を結んできました。特に1935年からは,啓示の書の中で予告されていた国際的な「大群衆」が彼らに加わりました。これらの人々も,献身してバプテスマを受けたクリスチャンで,「自分の長い衣を子羊[イエス・キリスト]の血で洗って白くし(て)」います。(啓示 7:9,14)しかし,彼らは天的な命の希望を抱く油そそがれた者ではありません。彼らの希望は,アダムとエバが失ったもの,すなわち楽園となる地上での完全な人間としての命を受け継ぐことです。(詩編 37:29。マタイ 25:34)今日,大群衆は500万人を超えています。エホバの真の崇拝は勝利を収めつつありますが,最終的な勝利はまだこれからです。
神の霊的神殿にいる異国人たち
4,5 (イ)大群衆はどこでエホバを崇拝しますか。(ロ)彼らはどんな特権にあずかっていますか。どんな預言の成就としてそうしていますか。
4 予告されていたとおり,大群衆は「その神殿で昼も夜も[神を]崇拝してい(ます)」。(啓示 7:15,脚注)彼らは祭司を務める霊的イスラエル人ではないので,恐らくヨハネは彼らが神殿域の,異邦人のための外の中庭に立っているのを見たのでしょう。(ペテロ第一 2:5)エホバの霊的神殿は何と栄光あるものになったのでしょう。その聖域は,霊的イスラエルの残りの者たちと共にエホバを賛美するこの大勢の人々でいっぱいになっているのです。
5 大群衆は奥の祭司の中庭によって表わされていた状態の中で神に仕えているのではありません。また,神の養子にされた霊的な子となるために義と宣せられているわけでもありません。(ローマ 8:1,15)それでも,イエスの贖いに信仰を働かせることにより,エホバのみ前で清い立場を得ています。彼らは神の友となるために義と宣せられています。(ヤコブ 2:21,23と比較してください。)彼らも,受け入れられる犠牲を神の霊的祭壇の上に差し出す特権を得ています。ですから,次のイザヤ 56章6,7節の預言はこの大勢の群衆のうちに輝かしい成就を見ているのです。「エホバに連なって,これに仕え,エホバの名を愛……する異国の者たち,……それらの者をわたしはまた,わたしの聖なる山に連れて来て,わたしの祈りの家の中で歓ばせる。彼らの全焼燔の捧げ物とその犠牲は,わたしの祭壇の上で受け入れられるためのものとなる。わたしの家はすべての民のための祈りの家とも呼ばれるからである」。
6 (イ)異国人はどんな犠牲をささげますか。(ロ)祭司の中庭にあった水の容器は彼らに何を思い起こさせますか。
6 これら異国人がささげる犠牲には,「[神の]み名を公に宣明する[立派に整えられた穀物の捧げ物のような]唇の実」や「善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うこと」が含まれています。(ヘブライ 13:15,16)祭司たちが身を洗うために使わなければならない大きな水の容器は,それら異国人に対する大切な諭しともなっています。彼らも,神の言葉が一層はっきり理解されるにつれ,霊的また道徳的な清めに服さなければならないのです。
聖所とその備品
7 (イ)大群衆は聖なる祭司職にある人たちの様々な特権をどうみなしますか。(ロ)一部の異国人たちはどんな付加的な特権を受けていますか。
7 聖所とその備品には,この異国人から成る大群衆にとって何らかの意味があるでしょうか。もちろん,彼らは決して,聖所によって表わされていた状態に入ることはないでしょう。また,再び生まれて天的な市民権を持つ,神の霊的な子になっているわけでもありません。そのために彼らはねたましい気持ちになったり,それをむやみに望んだりするでしょうか。いいえ,それどころか,彼らは14万4,000人の残りの者たちを支援する特権があることを喜びます。そして,それら霊的な子らを養子にするという神の目的に対する深い認識を示します。霊的な子らはキリストと協同して人類を完全な状態に引き上げるのです。それに,異国人から成る大群衆は,楽園での永遠の命という地的な希望を与えてくださった神の大いなる過分のご親切を大事にします。これら異国人の中には,昔のネティニムのように,聖なる祭司職にある人たちを援助するために監督の特権を与えられた人たちもいます。b (イザヤ 61:5)こうした人たちの中から,イエスは「全地に君(たち)」を任命されます。―詩編 45:16。
8,9 大群衆は聖所の備品について考えることにより,どんな益を引き出せますか。
8 異国人から成る大群衆は決して対型的な聖所に入りませんが,その備品から貴重な教訓を学びます。ちょうど燭台が絶えず油の補給を必要としたのと同じように,異国人も聖霊を必要とします。聖霊は,「忠実で思慮深い奴隷」を通して伝えられる,神の言葉からの漸進的な真理を把握できるよう助けてくれるからです。(マタイ 24:45-47)それだけでなく,神の霊はこの招きの言葉にこたえ応じる助けにもなります。「霊と花嫁[油そそがれた残りの者たち]は,『来なさい!』と言いつづける。そして,だれでも聞く者は,『来なさい!』と言いなさい。そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」。(啓示 22:17)ですから,燭台は大群衆に,クリスチャンとして輝き,また何にせよ態度,考え,言葉,行ないなどにおいて神の聖霊を悲しませるような事柄は避けなければならない,ということを思い起こさせるための諭しなのです。―エフェソス 4:30。
9 供えのパンの食卓は,霊的な健康を保つには定期的に聖書と「忠実で思慮深い奴隷」の出版物から霊的な食物をとらなければならないことを大群衆に思い起こさせます。(マタイ 4:4)香の祭壇は,忠誠を保てるようエホバに助けを求めて真剣に祈ることの重要性を思い起こさせます。(ルカ 21:36)祈りには,心からの賛美と感謝の表現が含まれるべきです。(詩編 106:1)香の祭壇はまた,クリスチャンの集会で心をこめて王国の歌を歌ったり,「救いのために……公の宣言」を効果的に行なえるようよく準備するといった様々な方法で神を賛美する必要があることも思い起こさせます。―ローマ 10:10。
真の崇拝の全き勝利
10 (イ)わたしたちはどんなすばらしい見込みを期待できますか。(ロ)事はまず,どのように進展するに違いありませんか。
10 今日,あらゆる国民の中から来た「多くの民」が,流れのようにエホバの崇拝の家に向かっています。(イザヤ 2:2,3)啓示 15章4節はこれを裏書きして,こう述べています。「エホバよ,本当にだれがあなたを恐れないでしょうか,あなたのみ名の栄光をたたえないでしょうか。ただあなただけが忠節な方だからです。あらゆる国民はみ前に来て崇拝するのです。あなたの義なる定めは明らかにされたからです」。ゼカリヤ 14章には,そのあとに起きる事柄が描写されています。近い将来,地上の民の大半は極めて悪い態度を取るようになり,これを最後とばかりに結集してエルサレムに,すなわち天のエルサレムの地上の代表者たちに敵して戦うでしょう。その時,エホバが行動されます。戦士なる神であられるエホバは「必ず進み出て」,大胆にもそうした攻撃を仕掛ける「それら諸国民と戦(われ)」ます。―ゼカリヤ 14:2,3。
11,12 (イ)エホバは,ご自分の神殿にいる崇拝者たちがやがて世界的な規模で攻撃される時,事態にどのように対応されますか。(ロ)神の戦いはどのような結果になりますか。
11 「エルサレムに敵してまさに軍役を行なうすべての民をエホバがむち打つその神罰はこのようになる。すなわち,人が自分の足で立っている間にその肉は朽ち果ててゆく。目はそのくぼみにあるうちに朽ち果て,舌はその口にあるうちに朽ち果ててゆく。そして,その日には必ずこうなる。すなわち,エホバからの混乱が彼らの間に広がる。彼らはそれぞれ自分の友の手をつかみ,その手は友の手に向けて上げられるのである」― ゼカリヤ 14:12,13。
12 その神罰が文字どおりのものか比喩的なものかは,その時になってみなければ分かりません。しかし,このことだけは確かです。神の敵たちはエホバの僕たちに対する世界的規模の攻撃に出ようとしている時に,神の全能の力が畏敬の念を起こさせるような仕方で表明され,攻撃を阻まれるのです。敵は口をつぐまざるを得ないでしょう。公然たる反抗の言葉を語る彼らの舌は,あたかも朽ち果てたかのようになることでしょう。彼らが団結して遂げようとしている目標も,あたかも目が朽ち果てたかのように,ぼやけて見えなくなることでしょう。彼らを大胆にならせてこの攻撃に駆り立てたその身体的な力も,失せてしまいます。彼らは混乱に陥って同士討ちを始め,それは大規模な殺し合いになります。こうして,神の崇拝を脅かす地上の敵はすべて一掃されることになります。結局,すべての国民はエホバの宇宙主権を認めざるを得なくなるでしょう。「エホバは全地の王となるのである」という預言が成就します。(ゼカリヤ 14:9)そのあと,サタンと配下の悪霊たちが拘束され,キリストの千年統治が始まって人類に大きな祝福がもたらされることになります。―啓示 20:1,2; 21:3,4。
地的な復活
13 「あらゆる国民のうち残っている」者たちとはだれのことですか。
13 ゼカリヤの預言は,続いて14章16節でこうなっています。「必ずこうなる。すなわち,エルサレムに攻めて来るあらゆる国民のうち残っているすべての者,その者たちもまた年ごとに上って行って王なる万軍のエホバに身をかがめ,仮小屋の祭りを祝わなければならない」。聖書によれば,今日生きている人で,この邪悪な体制の終わりまで生きつづけ,真の崇拝の敵であると裁かれる人は皆,「永遠の滅びという司法上の処罰」を受けることになります。(テサロニケ第二 1:7-9。マタイ 25:31-33,46もご覧ください。)それらの人に復活はありません。ですから,この「残っている」者たちには,神の最後の戦いが始まる前に死んだ,復活という聖書に基づいた希望のある諸国民の者たちが含まれるものと思われます。イエスはこう約束なさいました。「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしてい(ま)す。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」― ヨハネ 5:28,29。
14 (イ)復活した人は永遠の命を得るために何をしなければなりませんか。(ロ)だれにせよエホバに献身しようとせず真の崇拝を実践しない人はどうなりますか。
14 それらの復活させられた人たちは皆,それが命を得るための復活となり,有罪の裁きを受けるための復活とはならないよう,何かをしなければなりません。彼らはエホバの神殿の地的中庭に来て,イエス・キリストを通して神に献身するという形で身をかがめなければなりません。復活してもそうしようとしない人は,現在の諸国民に臨むのと同じ神罰を被ることになるでしょう。(ゼカリヤ 14:18)どれほど多くの人が,復活したあと喜んで大群衆に加わって対型的な仮小屋の祭りを祝うようになるかは,だれにも分かりません。しかし,きっと大勢の人がそのようにし,その結果,エホバの偉大な霊的神殿はそれまでにもまして栄光あるものとなるでしょう。
対型的な仮小屋の祭り
15 (イ)古代イスラエル人の仮小屋の祭りにはどんな際立った特色がありましたか。(ロ)祭りの期間中に70頭の雄牛がささげられたのはなぜですか。
15 古代イスラエルは,仮小屋の祭りを毎年祝うよう求められていました。その祭りは,収穫物の取り入れの終わりの時期に行なわれ,1週間続きました。それは感謝をささげる,喜びに満ちた時でした。人々はその週の間,木の葉,特にやしの枝で覆った仮の小屋で生活しなければなりませんでした。この祭りによってイスラエルは,神が自分たちの父祖たちをどのようにエジプトから救い出されたか,また父祖たちが約束の地に着くまで40年間荒野を転々としながら仮小屋に住んでいたあいだ神が彼らをどのように世話されたかを思い起こさせられました。(レビ記 23:39-43)祭りの期間中に神殿の祭壇の上で70頭の雄牛が犠牲としてささげられました。祭りのこの特色は,イエス・キリストの行なう十分かつ完全な救命の業を預言的に示すものだったようです。イエスの贖いの犠牲の益は,ゆくゆくはノアから出た人類の70の氏族の数知れない子孫に及ぶことになります。―創世記 10:1-29。民数記 29:12-34。マタイ 20:28。
16,17 (イ)対型的な仮小屋の祭りはいつ始まりましたか。そして,どのように続行されましたか。(ロ)大群衆はどのようにその祝いにあずかりますか。
16 ですから,古代の仮小屋の祭りは,請け戻された罪人たちをエホバの偉大な霊的神殿に集める,喜びに満ちた取り入れの時期を指し示していたのです。この祭りの対型となる事柄は,霊的イスラエル人をクリスチャン会衆に集める,喜びに満ちた取り入れの業が開始された西暦33年のペンテコステの日から始まりました。(使徒 2:41,46,47)それらの油そそがれた者たちは,自分がサタンの世にあって「一時的居留者」であることを認識していました。なぜなら,彼らの真の「市民権は天にあ(る)」からです。(ペテロ第一 2:11。フィリピ 3:20)この喜ばしい祭りは,キリスト教世界を形成する結果になった背教によって一時的に光彩を失いました。(テサロニケ第二 2:1-3)しかし,祭りは1919年に,14万4,000人の霊的イスラエル人の最後の成員を集める,喜びに満ちた取り入れの業をもって再開され,それに続いて啓示 7章9節の国際的な大群衆の取り入れが行なわれています。
17 この大群衆は手にやしの枝を持っている姿で描かれています。これは,彼らも対型的な仮小屋の祭りを喜びにあふれて祝っている,ということを示しています。献身したクリスチャンである彼らは,より多くの崇拝者をエホバの神殿に集め入れる業に,あふれる喜びを抱いて参加します。しかし同時に,自分たちは罪人なので地上に永住する権利を持っていない,ということも認識しています。彼らは,将来復活させられる人たちと共に,キリストの千年統治の終わりに人間としての完全性に到達する時までキリストの贖いの犠牲に常に信仰を働かせていなければなりません。―啓示 20:5。
18 (イ)イエス・キリストの千年統治の終わりに何が起きますか。(ロ)エホバの真の崇拝は最終的にどのように勝利を収めますか。
18 その時,地上にいる神の崇拝者たちは,天の祭司職にある者たちの奉仕を必要としない完全な人間として神のみ前に立つことになります。また,イエス・キリストが「王国を自分の神また父に渡(す)」時が来ていることでしょう。(コリント第一 15:24)完全にされた人間を試すためにサタンが「しばらくのあいだ」解き放たれます。不忠実な者は皆,サタンと配下の悪霊たちと共に永久に滅ぼされるでしょう。忠実を保つ人たちは永遠の命を与えられます。それらの人は地上の楽園に永住する者となります。こうして,対型的な仮小屋の祭りは,栄光のうちに成功裏に終わります。真の崇拝が勝利を収めてエホバが永遠の栄光をお受けになると共に,人類はとこしえの幸福を享受するのです。―啓示 20:3,7-10,14,15。
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