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わたしたちは相共にエホバのみ名を高めようものみの塔 2007 | 3月1日
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わたしたちは相共にエホバのみ名を高めよう
「あなた方はわたしと共にエホバを大いなるものとせよ。わたしたちは相共にそのみ名を高めよう」。―詩編 34:3。
1 地上での宣教の間,イエスはどんなりっぱな手本を残しましたか。
西暦33年ニサン14日の夜,イエスと使徒たちは,エルサレム市内のある家の階上の間で共にエホバへの賛美を歌いました。(マタイ 26:30)それは,イエスが人間として使徒たちと一緒にそのことを行なう最後の機会でした。いずれにしても,イエスが弟子たちとの会合をそのような形で閉じるのは適切なことでした。地上での宣教奉仕を開始した時から最後の時まで,イエスはみ父を賛美し,熱心にそのみ名を知らせました。(マタイ 4:10; 6:9; 22:37,38。ヨハネ 12:28; 17:6)事実上イエスは,「あなた方はわたしと共にエホバを大いなるものとせよ。わたしたちは相共にそのみ名を高めよう」という,詩編作者の温かな呼びかけに答えていたのです。(詩編 34:3)わたしたちの倣うべきりっぱな手本ではないでしょうか。
2,3 (イ)詩編 34編に預言的な意味のあることはどんな点から分かりますか。(ロ)この記事と続く記事でどんなことを考察しますか。
2 イエスと一緒に賛美を歌ってから何時間か後,使徒ヨハネは,それとは全く異なる状況に立ち会いました。自分の主である方が,二人の犯罪者と並んで苦しみの杭にかけられ,処刑されようとしています。ローマの兵士たちは二人の犯罪者の死を早めようとして,その脚を折りました。しかし,兵士たちはイエスの脚は折らなかったと,ヨハネは記しています。兵士が近づいてみると,イエスはすでに死んでいたのです。ヨハネは自分の福音書の中でその事に触れ,それが詩編 34編の別の部分の成就であった,としています。そこには,「その骨は一つも砕かれないであろう」と記されていました。―ヨハネ 19:32-36。詩編 34:20,セプトゥアギンタ訳。
3 詩編 34編には,クリスチャンにとって興味深い点がほかにも数多くあります。ですから,この記事と続く記事では,ダビデがこの詩を書いた時の状況をまず振り返り,その上で,励みとなるこの詩の内容そのものを考察しましょう。
ダビデはサウルのもとから逃げる
4 (イ)ダビデがイスラエルの将来の王として油そそがれたのはなぜですか。(ロ)サウルがダビデを非常に『愛するようになった』のはどうしてですか。
4 ダビデの若かった時,イスラエルではサウルが王となっていました。しかし,サウルは不従順になり,エホバの恵みを失いました。そのために,預言者サムエルはサウルにこう告げました。「エホバは今日,あなたからイスラエルの王の支配権を裂かれました。神は必ずそれをあなたよりも優れた,あなたの仲間の者に与えられます」。(サムエル第一 15:28)後にエホバはサムエルを導いてエッサイの一番下の息子ダビデに油をそそがせ,イスラエルの次の王になるべき人としました。そうしたころでしたが,神の霊を失ったサウル王は陰うつな気持ちに悩まされていました。ダビデは優れた音楽家であり,王に仕えるようにとギベアに連れて来られました。ダビデの奏でる調べはサウルに安らぎを与え,サウルは『彼を非常に愛するようになった』のです。―サムエル第一 16:11,13,21,23。
5 ダビデに対するサウルの態度が変わったのはなぜでしたか。ダビデは何を余儀なくされましたか。
5 時がたつにつれ,エホバはダビデと共におられることを示してゆかれました。ダビデがフィリスティアの巨人ゴリアテを倒すのを助け,また軍事上の手腕を挙げてイスラエルでたたえられるようになったダビデを支えてゆかれました。しかし,ダビデに対するエホバの祝福はサウルにねたみの気持ちを抱かせ,サウルはダビデを憎むようになりました。王であるサウルは,自分の前でたて琴を弾いていたダビデに向かって二度までも槍を投げつけました。どちらの時も,ダビデは何とか身をかわして槍をよけました。サウルがダビデを殺そうと三度目の行動に出た時,やがてイスラエルの王となるこの人は,命を守るために逃げなければならないと悟りました。自分を捕らえて殺そうとするサウルのもくろみが続いていたため,ダビデはその後,イスラエルの領土の外に避難することに決めました。―サムエル第一 18:11; 19:9,10。
6 サウルがノブの住民の殺害を命じたのはなぜでしたか。
6 イスラエルの境界地方に向かう途中,ダビデはノブの都市に立ち寄りました。エホバの幕屋はそこに置かれていました。ダビデに付き添ってその逃避に同行する若者たちがいたようです。ダビデはそれら若者や自分自身のために幾らかの食物を得ようとしたものと思われます。サウルは,大祭司がダビデとその一行に食物を,また死んだゴリアテからダビデが奪った剣を渡したことを知りました。サウルは怒りに満ち,85人の祭司を含め,その都市の住民を皆殺しにしました。―サムエル第一 21:1,2; 22:12,13,18,19。マタイ 12:3,4。
またも死を免れる
7 なぜガトはダビデにとって安全な隠れ場所ではありませんでしたか。
7 ダビデは,ノブから40㌔ほど西に逃げてフィリスティアの領土に入り,ゴリアテの郷里であったガトの王アキシュの所に避難しようとしました。ガトならサウルも捜しには来ないだろうと考えたのでしょう。とはいえ,ガトの王の僕たちはすぐにダビデをそれと見分けました。自分の身元が知られたことを耳にして,ダビデは「ガトの王アキシュのゆえに非常に恐れるようにな(り)」ました。―サムエル第一 21:10-12。
8 (イ)ガトでのダビデの経験について詩編 56編は何を伝えていますか。(ロ)ダビデはどのようにしてかろうじて死を免れましたか。
8 フィリスティア人はすぐにダビデを捕らえました。「わたしの涙をあなたの皮袋に入れてください」とエホバに心から訴えているダビデの詩は,この時に作ったものなのかもしれません。(詩編 56:8と表題)こうしてダビデは,自分の悲嘆をエホバが覚えていてくださり,愛をもって顧み,保護してくださるということへの確信を表明しました。ダビデはまた,フィリスティア人の王を欺く策を思いつきました。狂気を装ったのです。それを見たアキシュ王は,「気違い」の男を連れて来たとして自分の僕たちをしかりました。明らかにエホバは,ダビデの取った策を祝福されました。ダビデはその都市から追い出され,またもかろうじて死を免れました。―サムエル第一 21:13-15。
9,10 ダビデはどんな理由で詩編 34編を書きましたか。この詩を作った時,ダビデはどんな人たちのことを念頭に置いていたと考えられますか。
9 ダビデを支えていた人々が一緒にガトに逃げ込んだのか,近隣のイスラエルの村落で見守っていたのかについて,聖書は特に述べていません。いずれにしても,ダビデと再会して,エホバが今度も救い出してくださったいきさつを聞くのは大きな喜びだったでしょう。こうした出来事が詩編 34編の背景にあることは,その表題にも示されているとおりです。その詩の初めの7節で,ダビデは自分を救い出してくださった神を賛美すると共に,自分を支えてくれる人々に,民の大いなる救出者であるエホバを共に高めよう,と呼びかけています。―詩編 34:3,4,7。
10 ダビデおよび共にいた人たちは,イスラエルの山地にあったアドラムの洞くつに安全を求めました。ガトの東15㌔ほどの所です。そこにいた時に,サウル王の支配のもとで不満を抱くイスラエル人がやって来て,ダビデに加わるようになりました。(サムエル第一 22:1,2)詩編 34編8節から22節をまとめた時,ダビデはそのような人たちのことを念頭に置いていたのかもしれません。それらの節にある諭しのことばは,今日のわたしたちにとっても貴重なものです。この美しい詩を詳しく考察することは,わたしたちの益となるに違いありません。
あなたの主要な関心はダビデと同じですか
11,12 エホバを絶えず賛美するべきどんな理由がありますか。
11 「わたしは常にエホバをほめたたえよう。その賛美は絶えずわたしの口にある」。(詩編 34:1)追われた者として生きていたダビデは,物質面でどのように過ごしてゆくかに関して多くの気がかりがあったに違いありません。それでも,この言葉に示されているように,日常の心配事のために,エホバを賛美しようとする決意をくもらせたりはしませんでした。難しい状況に直面したときのことを考えると,これはわたしたちにとって何とりっぱな手本なのでしょう。学校にいても職場にいても,仲間のクリスチャンと一緒のときも,公の宣教奉仕のときも,わたしたちのいちばんの願いは,エホバを賛美することであるはずです。考えてみてください。そうするべき理由は無数にあります。例えば,エホバの驚嘆すべき創造のみ業には,探究したり楽しんだりできるものが数限りなくあります。そして,エホバがご自分の組織の地上の部分を通して成し遂げてこられた物事についても考えてください。不完全ではあっても忠実な人々を用いてこの時代に壮大な業を進めてこられました。神の行なわれる事柄は,この世で崇められている人間の行なう物事とどのように比較できるでしょうか。次のようにも記したダビデに同意されるのではないでしょうか。「エホバよ,神々の中にあなたのような方はだれもいません。また,あなたのみ業にかなうものも何もありません」。―詩編 86:8。
12 わたしたちもダビデと同じように,たぐいないみ業のゆえに,絶えずエホバを賛美したいという気持ちになります。さらに,神の王国が今やダビデの永久の相続者イエス・キリストの手中に置かれていることを知って,心は躍るのではないでしょうか。(啓示 11:15)これは,この事物の体制の終わりが迫っていることを意味しています。60億余りの人々の永遠の将来が決せられようとしています。神の王国について,またそれが人類のために間もなく行なう事柄について他の人々に伝え,共にエホバを賛美するように助ける必要はかつてなく大きくなっています。わたしたちの生活においてまさに優先すべきなのは,遅くならないうちにこの「良いたより」を受け入れるよう,あらゆる機会をとらえて人々を励ますことです。―マタイ 24:14。
13 (イ)ダビデはだれを誇りとしていましたか。どんな人々がその態度にこたえ応じましたか。(ロ)柔和な人々は今日どのようにクリスチャン会衆に引き寄せられていますか。
13 「わたしの魂はエホバを誇りとする。柔和な者たちは聞いて,歓ぶ」。(詩編 34:2)ここでダビデは個人的な業績を何も誇りとしてはいません。例えば,ガトの王を欺いた方法について自慢などしませんでした。ガトでエホバが自分を保護してくださったこと,エホバの助けで自分が難を免れたことを知っていました。(箴言 21:1)ですからダビデは,自分のことではなく,エホバを誇りとしたのです。こうした態度のゆえに,柔和な人たちはエホバのもとに引き寄せられました。同様にイエスもエホバのみ名を大いなるものとし,それによって謙遜で,進んで教えに応じる人々が神に引き寄せられました。今日,すべての国の柔和な人々が,イエスを頭とする油そそがれたクリスチャンたちの国際的な会衆に引き寄せられています。(コロサイ 1:18)それら柔和な人たちは,神の謙遜な僕たちがみ名をたたえるのを聞くとき,また聖書から伝えられる音信を聞いて神の聖霊の助けでそれを理解するとき,心を動かされるのです。―ヨハネ 6:44。使徒 16:14。
集会は信仰を強める
14 (イ)ダビデは自分独りでエホバを賛美することだけで満足していましたか。(ロ)崇拝のための集会に関してイエスはどんな手本を示していますか。
14 「あなた方はわたしと共にエホバを大いなるものとせよ。わたしたちは相共にそのみ名を高めよう」。(詩編 34:3)ダビデは,自分独りでエホバを賛美することだけで満足しませんでした。共に神のみ名を高めようと,自分の友たちに温かく誘いかけました。大いなるダビデであるイエス・キリストも同じように,公の場でエホバを賛美するのを喜びとし,地元の会堂で,また祭りの時にエルサレムの神殿で,さらには追随者と共にいた際にそのようにされました。(ルカ 2:49; 4:16-19; 10:21。ヨハネ 18:20)イエスの手本に倣い,あらゆる機会に信仰の仲間と共にエホバを賛美できるのは何と喜びある特権なのでしょう。「その日が近づくのを見て」いる今,特にそう言えます。―ヘブライ 10:24,25。
15 (イ)ダビデの経験は共にいた人たちにどんな影響を与えましたか。(ロ)わたしたちは集会に出席することからどんな益を受けますか。
15 「わたしが尋ねると,エホバはわたしに答えてくださり,わたしのすべての怖れからわたしを救い出してくださった」。(詩編 34:4)ここに述べられている経験はダビデにとって貴重なものでした。そのため,さらにこう述べています。「この苦しむ者が呼ぶと,エホバが聞いてくださった。そして,そのすべての苦難から彼を救ってくださった」。(詩編 34:6)信仰の仲間と共にいる時,難しい状況に耐えられるようエホバがどのように自分を助けてくださったかについて,築き上げる経験を話す機会がたくさんあるでしょう。それは仲間の信者の信仰を強めます。ダビデの言い表わした事柄が,ダビデを支えていた人たちの信仰を強めたのと同じです。ダビデの場合,その友たちは,『エホバを仰ぎ見て光り輝き,その顔が恥をかくことはあろうはずがなかった』のです。(詩編 34:5)その人々もサウル王から逃げる身にありましたが,恥と思うことは何もありませんでした。神がダビデの後ろ盾となっていることを確信して,その顔は輝いていました。これと同じように,関心を持ちはじめた新しい人たちも長年真のクリスチャンとして歩んできた人たちも,エホバの支えを仰ぎ見ます。エホバの助けを自ら経験しており,その輝く顔は,忠実を保とうとする決意を反映しています。
み使いの助けに感謝する
16 エホバはわたしたちの救出のためにどのようにみ使いを用いてこられましたか。
16 「エホバのみ使いは神を恐れる者たちの周囲に陣営を張っており,彼らを助け出す」。(詩編 34:7)ダビデは,エホバによる救出を自分だけのこととは見ませんでした。確かにダビデは,エホバから油そそがれた者であり,イスラエルの将来の王になる人でした。それでもダビデは,エホバがみ使いたちを用い,地位や立場にかかわらず,ご自分の忠実な崇拝者すべてを見守ってくださることを知っていました。今日の真の崇拝者たちも,エホバが備えてくださる保護を経験してきました。ナチス・ドイツでも,アンゴラ,マラウイ,モザンビーク,その他の多くの土地においても,当局者はエホバの証人を一掃する運動を展開しましたが,その努力はむなしく終わりました。それどころか,それらの国のエホバの民は,相共に神のみ名を高めつつ活発に業を続けています。なぜでしょうか。エホバが聖なるみ使いたちを用いて,ご自分の民を導き,保護しておられるからです。―ヘブライ 1:14。
17 み使いはわたしたちをどのような面で助けますか。
17 ほかにもエホバのみ使いは,だれにせよつまずきを起こす者がエホバの民の中から除かれるように状況を動かすことができます。(マタイ 13:41; 18:6,10)また,当初は人が気づかないこともありますが,み使いは神に対するわたしたちの奉仕の妨げとなる障害物を取り除き,エホバとの関係を危うくする物事からわたしたちを保護してくれます。特に大切な点として,み使いは「永遠の良いたより」をすべての人に宣べ伝える業を導いており,危険な状況下でなされている伝道の業に関してもそのことを行なっています。(啓示 14:6)み使いの助けを物語る例は,エホバの証人の発行する文書の中でしばしば伝えられています。a そのような経験は非常に多く,偶然として片付けることはできません。
18 (イ)み使いの助けから益を受けるために何が必要ですか。(ロ)次の記事ではどんな点を考察しますか。
18 み使いの導きと保護から今後も益を受けるためには,反対に直面するときにも,エホバのみ名を高めようとする姿勢を保たなければなりません。覚えていてください。神のみ使いは「[エホバ]を恐れる者たちの周囲」に陣営を張っています。それにはどのような意味があるでしょうか。神を恐れるとはどういうことですか。どうしたら神への恐れを培えますか。愛ある神がどうしてご自分を恐れるようにと望んでおられるのでしょうか。これらの点は続く記事で取り上げます。
[脚注]
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エホバへの恐れのうちに,生きることを楽しむものみの塔 2007 | 3月1日
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エホバへの恐れのうちに,生きることを楽しむ
「その聖なる者たちよ,エホバを恐れよ。神を恐れる者たちは何にも不足しないからだ」。―詩編 34:9。
1,2 (イ)神への恐れについてキリスト教世界にはどんな異なった見方がありますか。(ロ)これからどんな点を調べますか。
キリスト教世界の伝道師が神への恐れを説く場合,神が地獄の火で罪人をとこしえに罰するという非聖書的な教えに基づいてそれを行なうことが少なくありません。そのような教理は,エホバが愛と公正の神であることを示す聖書の教えと相いれません。(創世記 3:19。申命記 32:4。ローマ 6:23。ヨハネ第一 4:8)またキリスト教世界には,全く別の見方をする牧師たちもいて,神への恐れについてはいっさい口にしません。そのような人たちは,神は寛容な方だからどんな生き方をしていようとたいてい受け入れてくださる,と教えます。これも聖書が教えていることではありません。―ガラテア 5:19-21。
2 実際のところ聖書は,神を恐れるようにと促しています。(啓示 14:7)それは真実ですが,幾つかの疑問を生じさせます。なぜ愛ある神がご自分を恐れるようにと望んでおられるのでしょうか。神が求めておられるのはどのような恐れですか。神を恐れることはどんな面でわたしたち自身の益になりますか。詩編 34編の続く部分を取り上げつつ,これらの点を考察しましょう。
なぜ神を恐れるべきか
3 (イ)あなたは,神を恐れるようにという命令をどう見ていますか。(ロ)エホバを恐れる人はなぜ幸福ですか。
3 宇宙を創造した方,また宇宙の主権者なる支配者エホバは,わたしたちが恐れを抱いて当然の方です。(ペテロ第一 2:17)しかしその恐れは,残酷な神々に対するびくびくした恐怖のようなものではありません。それは,エホバがどのような方かを知るゆえの恭しい畏敬の念です。またそれは,神の不興を受けることがないようにという恐れの気持ちでもあります。神への恐れは崇高で,人の内面を高揚させるものであり,抑圧したりおじけさせたりすることはありません。エホバは「幸福な神」であり,創造物である人間が生きることを楽しむようにと願っておられます。(テモテ第一 1:11)しかし,わたしたちがそれを楽しむためには,神のご要求にそって生活しなければなりません。多くの人にとって,これは生き方の変化を意味しています。必要な変化を遂げる人はみな,詩編作者ダビデの次の言葉の真実さを実感するでしょう。「あなた方はエホバが善良であることを味わい知れ。そのもとに避難する強健な人は幸いだ。その聖なる者たちよ,エホバを恐れよ。神を恐れる者たちは何にも不足しないからだ」。(詩編 34:8,9)エホバを恐れる人はみな,神との良い関係を保つので,永続的に価値のあるものに不足するようなことはありません。
4 ダビデとイエスは共にどんな保証を与えていますか。
4 ダビデが,自分と共にいた人たちを当時における意味で「聖なる者たち」と呼んで,その人たちに尊厳を付している点に注目してください。その人々は神の聖なる国民でした。自らの命を危うくしてダビデに付き従う人たちでもありました。みなサウル王から逃げる身でしたが,ダビデは,エホバがその人たちのために基本的な必要物を引き続き供給してくださることを確信していました。ダビデはこう書いています。「たてがみのある若いライオンも乏しくなり,飢えを覚えた。しかしエホバを求める者たちは,良いものに少しも不足しない」。(詩編 34:10)イエスも,ご自分の追随者に同じような保証を与えました。―マタイ 6:33。
5 (イ)イエスの追随者たちの多くにはどんな背景がありましたか。(ロ)イエスは恐れることに関してどんな助言を与えましたか。
5 イエスの述べることに耳を傾けた人々の中には,ユダヤ社会にあって恵まれない低い立場の人たちが多くいました。そのためにイエスは,その人たちに「哀れみをお感じにな(り)」ました。「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたから」です。(マタイ 9:36)それら立場の低い人たちは,イエスに付き従う勇気が持てるでしょうか。そのようにするためには,人間ではなく,エホバに対する恐れの気持ちを培う必要がありました。イエスはこう言われました。「体を殺しても,その後もう何もできない者たちを恐れてはなりません。しかし,だれを恐れるべきかをあなた方に示しましょう。殺したあとにゲヘナに投げ込む権威のある方を恐れなさい。そうです,あなた方に言いますが,この方をこそ恐れなさい。すずめ五羽はわずかな価の硬貨二つで売っているではありませんか。それでも,その一羽といえども神のみ前で忘れられることはありません。ところが,あなた方の髪の毛までがすべて数えられているのです。恐れることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです」。―ルカ 12:4-7。
6 (イ)イエスのどんな言葉はクリスチャンを強めてきましたか。(ロ)敬虔な恐れを表明する面で,なぜイエスは最高の手本であると言えますか。
6 敵対する人たちから,神に仕えるのをやめるようにと圧力を加えられるとき,エホバを恐れる人はイエスの次の助言を思い起こすことができます。「人の前でわたしとの結びつきを告白する者は皆,人の子も神のみ使いたちの前でその者との結びつきを告白します。しかし,人の前でわたしのことを否認する者は,神のみ使いたちの前で否認されるのです」。(ルカ 12:8,9)この言葉はクリスチャンを強めるものとなってきました。とりわけ,真の崇拝が禁止されている国々においてそうです。そのような土地のクリスチャンも,集会や公の宣教において,思慮深くエホバへの賛美を続けています。(使徒 5:29)イエスは「敬虔な恐れ」を表明する面で最高の手本を示されました。(ヘブライ 5:7)イエスについては,預言的なみ言葉があらかじめこう告げていました。「彼の上にエホバの霊が必ずとどまる。それは……エホバへの恐れの霊である。エホバへの恐れに彼の楽しみがあるであろう」。(イザヤ 11:2,3)確かにイエスは,神への敬虔な恐れの益について教える面でひときわ優れた資格を備えています。
7 (イ)どうしたらクリスチャンは事実上,ダビデが差し伸べたような招きにこたえ応じることができますか。(ロ)親はどのようにダビデの良い手本に倣えますか。
7 イエスの手本に倣い,またその教えに従う人はみな,事実上,ダビデが差し伸べた次のような招きにこたえ応じていることになります。「子らよ,来て,わたしに聞け。わたしはあなた方にエホバへの恐れを教えよう」。(詩編 34:11)ダビデが自分と共にいた人たちを「子ら」と呼びかけるのは自然なことでした。その人たちはダビデを指導者と見ていたからです。ダビデは霊的な助けを与えて,自分に付き従う人たちが一つに結ばれて神の恵みを受けられるようにしました。それは,クリスチャンである親にとって良い手本ではないでしょうか。エホバは子どもに対する権威を親に与え,「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」と述べておられます。(エフェソス 6:4)親は子どもと霊的な事柄を毎日話し合い,また子どもと定期的な聖書研究を行なうことによって,エホバへの恐れのうちに,生きることを楽しむよう若い人たちを助けてゆくことができます。―申命記 6:6,7。
敬虔な恐れをどのように実践するか
8,9 (イ)神に恐れを持つ生き方がとても好ましいものであるのはどうしてですか。(ロ)自分の舌を制するために何が必要ですか。
8 すでに述べたように,エホバに恐れを持つことによって喜びが奪われるわけではありません。ダビデは,「命を喜んでいる人,良いことを見るための十分の日々を愛している者はだれか」と問いかけています。(詩編 34:12)明らかに,エホバへの恐れこそ,生きる喜びをずっと保ち,良いことを見るためのかぎです。「わたしは神を恐れます」と述べるのは難しくありません。しかし,自分の行動でそれを実証してゆくのは必ずしも簡単ではありません。そのためにダビデは,神への敬虔な恐れをどのように示せるかを次に説明しています。
9 「あなたの舌を悪から,あなたの唇を欺まんを語ることから守れ」。(詩編 34:13)使徒ペテロは,クリスチャンが互いに兄弟の愛情をもって接するように助言した後,霊感のもとに詩編 34編のこの箇所を引用しました。(ペテロ第一 3:8-12)舌を悪から守るとは,有害なうわさを広めたりしないようにという意味になります。むしろ,他の人に話す時にはいつも築き上げることを目指します。そして,勇気をもって真実を語ることに努めるのです。―エフェソス 4:25,29,31。ヤコブ 5:16。
10 (イ)悪いことから遠ざかるとはどういう意味ですか。(ロ)どんな善いことを行なえますか。
10 「悪いことから遠ざかり,善いことを行なえ。平和を見いだすように努め,それを追い求めよ」。(詩編 34:14)わたしたちは性の不道徳,ポルノ,盗み,心霊術,暴力,酔酒,麻薬の乱用など,神が非とする事柄を避けます。また,そのような嫌悪すべき事柄を特色とするような娯楽も退けます。(エフェソス 5:10-12)むしろ,善いことを行なうために時間を用います。わたしたちが行なうことのできる最大の善は,王国を宣べ伝える業また弟子を作る業に定期的に携わって,救いを得られるように他の人々を助けることです。(マタイ 24:14; 28:19,20)善を行なうことには,準備をしてクリスチャンの集会に出席すること,世界的な業のために寄付すること,王国会館の維持管理を助けること,厳しい境遇のクリスチャンが必要とする事柄に関心を払うことも含まれます。
11 (イ)ダビデは平和について自分が述べた事柄をどのように実践しましたか。(ロ)会衆内で『平和を追い求める』ためにどんなことができますか。
11 ダビデは平和を追い求める面で良い手本を残しました。サウルを殺す機会が二度もありました。どちらの場合にも暴力的な行動はせず,平和を取り戻せるようにと,別の時に敬意をこめて王に話しかけています。(サムエル第一 24:8-11; 26:17-20)今日,会衆の平和が脅かされるような状況のとき,わたしたちは何ができるでしょうか。「平和を見いだすように努め,それを追い求め」なければなりません。ですから,だれか信仰の仲間との関係に緊張を感じるときには,「まず自分の兄弟と和睦し(なさい)」という,イエスの助言に従います。そうした上で,真の崇拝の他の面をさらに進めてゆきます。―マタイ 5:23,24。エフェソス 4:26。
神への恐れは豊かな報いをもたらす
12,13 (イ)神に恐れを持つ人たちは現在どんな益を受けていますか。(ロ)忠実な崇拝者たちは間もなくどんな壮大な報いを経験しますか。
12 「エホバの目は義なる者たちに向けられ,その耳は助けを求める彼らの叫びに向けられる」。(詩編 34:15)神がダビデに対して行なわれた事柄についての記録は,上の言葉の真実さを物語っています。今日のわたしたちも,エホバが見守っていてくださることを知るゆえに,深い喜びと内面の平和を実感しています。大きなストレスのもとにある時にも,エホバがわたしたちに必要なものを常に顧みてくださることを確信できます。わたしたちの知っている点として,真の崇拝者すべては間もなく,予告されていたとおりマゴグのゴグによる攻撃と『畏怖の念を抱かせる,エホバの日』とに直面します。(ヨエル 2:11,31。エゼキエル 38:14-18,21-23)その際どのような状況に直面するとしても,ダビデの述べた次の言葉は,わたしたちにも真実になります。「彼らが叫ぶと,エホバご自身が聞いてくださり,そのすべての苦難から彼らを救い出してくださった」。―詩編 34:17。
13 その時,エホバがご自身の栄光あるみ名を大いなるものとされるのを目撃するのは,どんなにか胸の躍ることでしょう。わたしたちの心はそれまでにも増して畏敬と崇敬の念に満たされるでしょう。一方,敵対する者はみな恥辱的な終わりを迎えることになります。「エホバのみ顔は悪を行なう者たちに向かっている。彼らのことが語り告げられるのをこの地から断ち滅ぼすためである」。(詩編 34:16)その壮大な救出を経験して神の義の新しい世に入るのは,何と豊かな報いなのでしょう。
忍耐する助けとなる約束
14 災いがあってもそれに耐える助けとなるのは何ですか。
14 しかし,それまでの間,敵対的で腐敗している世にあってエホバに従い続けることには忍耐が求められます。神への敬虔な恐れは,従順さを培う上で大きな助けになります。今日わたしたちが生きている危機の時代にあって,エホバの僕の中には,極度の辛苦を経験し,心を打ち砕かれ,霊の打ちひしがれるような経験をする人たちもいます。それでも,エホバに目を向けているかぎり,忍耐できるように助けてくださることを全く確信できます。ダビデの言葉は真の慰めを与えます。「エホバは心の打ち砕かれた者たちの近くにおられ,霊の打ちひしがれた者たちを救ってくださる」。(詩編 34:18)励みとなる点として,ダビデはさらにこう述べています。「義なる者の遭う災いは多い。しかし,エホバはそのすべてから彼を救い出してくださる」。(詩編 34:19)どれほど多くの災いが降りかかろうとも,エホバは強力であり,わたしたちを救い出すことがおできになります。
15,16 (イ)詩編 34編を作ってすぐ後にダビデはどんな災いについて知りましたか。(ロ)試練に耐える助けになるものは何ですか。
15 詩編 34編を作ってから間もなく,ダビデはノブの住民に臨んだ災いについて聞きました。サウルが住民とほとんどの祭司を殺りくしたのです。サウルの憤りを引き起こしたのは自分がノブに行ったためと知って,ダビデはどんなにか苦悩したことでしょう。(サムエル第一 22:13,18-21)ダビデはエホバに助けを仰いだに違いありません。そして,「義者」が将来復活する見込みに慰めを得たことでしょう。―使徒 24:15。
16 今日でも,復活の希望はわたしたちを強めます。敵対する人たちの行なうどんなことも永続的な害をもたらさないことをわたしたちは知っています。(マタイ 10:28)ダビデも同様の確信をこう言い表わしています。「神は[義なる]者のすべての骨を守っておられる。その一つも折られなかった」。(詩編 34:20)この節はイエスに文字どおりに成就しました。イエスは残虐な死に処せられましたが,骨は一つも「砕かれ」ませんでした。(ヨハネ 19:36)詩編 34編20節の意味を拡張して適用すれば,油そそがれた者とその仲間である「ほかの羊」にどんな試練があろうとも,これらの人々に恒久的な不利益が及ぶことは決してない,と保証されています。比ゆ的な意味で,その骨が砕かれることはないのです。―ヨハネ 10:16。
17 エホバの民を憎んで悔い改めない人の前途にはどんな災いがありますか。
17 邪悪な者にとって,状況は全く異なっています。やがて,自らがまいた悪いものを刈り取ることになるでしょう。「災いは邪悪な者を死に至らせ,義なる者を憎む者たち自身が罪科に問われる」。(詩編 34:21)神の民に敵対しつづける人はみな,最悪の災いに直面します。イエス・キリストの表わし示される時,その人々は「永遠の滅びという司法上の処罰を受け」ることになります。―テサロニケ第二 1:9。
18 どのような意味で「大群衆」はすでに請け戻されていますか。将来何を経験しますか。
18 ダビデの詩は次の保証の言葉で結ばれています。「エホバはその僕たちの魂を請け戻しておられる。そのもとに避難する者はだれも罪科に問われることはない」。(詩編 34:22)40年にわたる自分の統治の終わり近くに,ダビデ王は,『神はわたしの魂をすべての苦難から請け戻してくださった』と述べました。(列王第一 1:29)エホバを恐れる人々は間もなく,ダビデと同じようにして自分たちの歩みを振り返り,罪によるいっさいの罪科から請け戻され,すべての試練から救い出していただいたことを歓べるでしょう。油そそがれたクリスチャンの多くはすでに天の報いを受けています。すべての国から来た「大群衆」は,いまイエスの兄弟の残っている人たちに加わって神に仕え,それによりエホバのみ前での清い立場を得ています。これはイエスの流された血の請け戻しの力に信仰を働かせているからです。やがて来るキリストの千年統治の間に贖いの犠牲の益は全面的に適用され,その人々は人間としての完全さに引き上げられます。―啓示 7:9,14,17; 21:3-5。
19 「大群衆」に属する人々はどんな決意をしていますか。
19 こうした祝福すべてが神の崇拝者の「大群衆」にもたらされるのはなぜでしょうか。エホバへの恐れを保ち,深い畏敬の念と崇敬に根ざした従順とをもって神に仕える決意を固めているからです。まさに,エホバを恐れることこそ,現在生きる楽しみを増し加え,神の新しい世での永遠の命である「真の命」を「しっかりとらえる」ようにわたしたちを助けるのです。―テモテ第一 6:12,18,19。啓示 15:3,4。
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