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  • プエルトリコとバージン諸島
    1987 エホバの証人の年鑑
    • 1949年に四人の宣教者たちは,スルタナ・デル・オエステ(西のスルタナ)として知られるマヤグエスに割り当てを受けました。しばらくすると小さな宣教者の家の居間で集会が開かれるようになり,翌年までには,一つの会衆が誕生しました。

      こうした活動が牧師たちの目に留まらずにすむことはありませんでした。ペギー・メイカット(現在のヴァン・ダーレン姉妹)は,長老派教会で柱とみなされていたロリタ・マールと研究を始めました。マールは大いに関心を示し,セントジョン島で行なわれる大会にマヤグエスから宣教者たちと共に出席しました。家に帰ると,彼女は迫害が激しくなっていることに気づきました。証人たちとの交わりを断念させようとして牧師が彼女を訪問しました。長時間にわたる話し合いの末,彼女は,その牧師に自分の家に来てもらい,彼女の研究を司会していた宣教者と三位一体の教理について話し合ってもらう取り決めを設けました。その牧師は二度とやって来ませんでした。代わりに彼女は,教会の委員会の前へ出頭するようにとの手紙を受け取りました。脱退届けの手紙が彼女の返事でした。マールは,今では目が見えなくなり,90歳を超えていますが,依然としてエホバの活発な僕です。

      マール姉妹が長老派教会を去ると,その宗教団体からかなりの反対がもたらされました。島は,プロテスタントの各教会の合意のもとに分割されていたので,牧師たちは自分たちの牧草地に証人たちが侵入して来て自分たちの“羊”を連れ去ったと言って非難しました。「宗教を持たない“未信者”の所に行けばよいではないか」と言って彼らは返答を迫りました。個人のなわ張りとみなしていたものを守ろうとする牧師たちの関心事の中では,真の“羊”である人々は主イエス・キリストに属するものであり,キリスト教世界のいかなる宗派に属するものでもない,ということが無視されていました。―マタイ 25:31-33。ヨハネ 10:16。

      このような反対があったにもかかわらず,マヤグエス会衆は成長を続けました。1955年までに宣教者たちは別の任命地へ移りましたが,地元の伝道者たちは同地域にある他の町へも証言の業を拡大しました。今日マヤグエスだけでも八つの会衆があり,近隣の地域にはさらに多くの会衆があります。

      元ボクサーが信仰の熱心な闘士となる

      1950年までにポンセ会衆の伝道者は70名近くに増加したため,同地の宣教者たちは,宣教者の家および王国会館を,市の中心地にあったある建物の3階に移しました。

      この年に,フランシスコ・トルエヤス(パコとして知られている)と妻のレオノールが,リリアン・カメルドと聖書の勉強を始めました。

  • プエルトリコとバージン諸島
    1987 エホバの証人の年鑑
    • 1949年に宣教者たちはカグワスに割り当てられると,そこで勤勉に働き,やがて集会が宣教者の家の居間で開かれるようになりました。とはいえ,当初進歩はゆっくりとしたものでした。初期に交わるようになった多くの人々の心は正しい種類の土ではなかったために,しばらくするとエホバに仕えるのをやめてしまいました。しかし,根を下ろして何倍もの実を生み出すようになった種もありました。

      例えば,ドロレス・バスケスに真理が伝えられた時,彼女と長女のカルメンは,研究を定期的に行ないました。上の3人の息子たちがその研究に参加することもありました。ドロレスはよく進歩し,集会に間もなく出席するようになりました。彼女は,自分だけでなく家族全員に対するエホバの是認を願い求めました。数年のうちに,息子や娘たち,また彼らの家族のほとんどが,唯一まことの神に仕える特権にあずかってきました。息子や娘,さらに孫たちのうち,エホバの献身した僕,もしくは良いたよりを宣べ伝えることに参加している者は優に30人を数えます。息子たちのうちの二人と孫の一人は,現在長老として奉仕しています。

      宣教者たちが多年にわたってカグワスで業を継続し,多大の忍耐が払われた結果,会衆は成長し始めました。現在カグワスには13の会衆がありますが,近隣の町でも幾つもの会衆が誕生しました。

      サンファンの西にあるバヤモンでは,拡大が本当に感じられるようになるまでに多くの年月が過ぎ去りました。確かに,牛の大放牧地として知られるこの地域で宣教活動が開始された最初の年には,9人の伝道者が報告を提出しました。四年間で,その合計は66人に増加しました。ところが翌年その数は31人に減少したのです。その後新しい団地が次々に建てられるにつれ,同市は拡大し始めました。これらの団地に移って来た多くの人々は親戚から離れていたので,王国の音信に感謝しながら耳を傾けた人々は,他の人々の是認を得られるかどうかをそれほど気にする様子はありませんでした。1万5,000人から成っていたこの町は,今や約20万人の人口を有する都市へと急成長を遂げました。今日バヤモンには21の会衆があり,周辺の町にはさらに多くの会衆があります。

      心霊術の本拠地に足を踏み入れる

      王国の音信を聞く機会は,ラ・シウダド・デ・ロス・ブルホス(魔女の都市)にも差し伸べられてきました。南海岸にあるグワヤマでは,心霊術が人々の心を強く捕らえており,心霊術者の中には,著名な実業家や市民の指導者たちもいます。

      宣教者のジョージ・スノッドグラスは,同地における心霊術者運動の会長と知り合うようになり,心霊術者の集う会堂で心霊術に関する聖書の見方を会員たちに示すよう招待されました。ジョージのスペイン語の知識はごく限られたものだったので,彼はカグワスで奉仕していた宣教者イバン・トルマンを呼び,講演を行なってもらいました。プログラムの途中で,会員の一人がたいへん興奮しはじめて講演者の話を邪魔するようになり,なされた陳述に対して強い反論を唱えました。しかし,責任者が彼を静めたため,トルマン兄弟は自分の話をし終えることができ,良い証言がなされました。

  • プエルトリコとバージン諸島
    1987 エホバの証人の年鑑
    • 悲劇的な事故

      プエルトリコで最初の宣教者となった人々の中に含まれる,レオ・ヴァン・ダーレンとユニス・ヴァン・ダーレンは,1952年の記念式のすぐあとで米国に住む親族を訪問する旅行を計画しました。これは,同夫妻の2歳近くになる息子のマークにとって,初めての旅行となるものでした。しかし,飛行機がイスラ・グランデ空港を離陸するかしないかのうちに,機体に異常が生じ始め,数分もしないうちに飛行機は大西洋の沖合い約8㌔の地点に墜落したのです。レオとユニスは二人とも命を失いました。伝えられたところによると,ユニスは,泳げなかった一人の女性に自分の救命帯を与えたあと海に沈んだようです。驚くべきことに,同夫妻の2歳になる息子は海面に浮かんでいるところを拾い上げられました。のちにこの息子は米国に住む伯母の養子となり,今日に至るまで忠実な証人です。

      ヴァン・ダーレン家はプエルトリコでとてもよく知られていたので,地元の新聞は二人の身に起きたことを大々的に報じました。これは,ヴァン・ダーレン家の人々の切望していた,復活に関する聖書の希望について多くの人々に伝える機会となりました。

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