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贖い聖書から論じる
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今日,ほかにだれがイエスの犠牲の益を受けていますか
ヨハネ第一 2:2: 「彼[イエス・キリスト]はわたしたち[使徒ヨハネならびに霊によって油そそがれた他のクリスチャン]の罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界[人類の中で,こうしてとこしえの命を地上で受ける見込みを持つようになる他の人たち]の罪のためでもあります」。
ヨハネ 10:16: 「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」。(これら「ほかの羊」は,王国相続者の「小さな群れ」の残りの者がなお地上にいる間,イエス・キリストの愛ある世話を受けるようになります。したがって,「ほかの羊」は「一つの群れ」の一部として王国相続者たちと共に交わることができます。「ほかの羊」の人たちはすべて,イエスの犠牲がもたらす同じ益の多くを享受しますが,全く同じ仕方で享受するわけではありません。なぜなら,「ほかの羊」には別の運命があるからです。)
啓示 7:9,14: 「これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆(がいた)……『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした』」。(それで,この大群衆の成員は,大患難が始まる時に生きており,神のみ前に清い立場を持っています。なぜなら,彼らは贖いに対する信仰を働かせるからです。その結果,大群衆は義にかなった者とみなされますが,その義はそれら大群衆を大患難の際に保護されて地上に生き残るにふさわしい人々とするに足るものなのです。)
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贖い聖書から論じる
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啓示 7:9,10: 「見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊[あたかも犠牲の子羊のように死なれたイエス・キリスト]の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とによります』」。(キリストの犠牲に対する信仰は,この大群衆が大患難を切り抜けて生き残れるかどうかを左右する一つの主要な要素です。)
啓示 22:1,2: 「また彼は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,その大通りの中央を流れていた。そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木があった。そして,その木の葉は諸国民をいやすためのものであった」。(ですから,神の子羊,イエス・キリストの犠牲の価値を適用することは,罪のあらゆる影響を除去して人間をいやし,とこしえの命を享受できるようにさせるため,神が設けてくださった備えの一つの重要な部分となっています。)
ローマ 8:21: 「創造物そのもの[人間]が腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです」。
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