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    ものみの塔 1994 | 8月1日
    • エホバは道理にかなった方

      「上からの知恵は……道理にかない」― ヤコブ 3:17。

      1 ある人々は神をどのように道理にそわない方として描きましたか。あなたは神に関するそのような見方についてどう感じますか。

      あなたが崇拝しておられるのはどんな神ですか。それは,徹底した公正を容赦なく守る,冷厳で手厳しい気質の神ですか。プロテスタントの宗教改革者ジャン・カルバンにとって,神はそのような存在に思えたに違いありません。カルバンは,神は各個人について「永久不変の計画」を持たれ,幸福のうちに永久に生きるか,地獄の火の中でとこしえの責め苦に遭うかを,各人ごとに予定しておられる,と唱えました。考えてください。仮にこのとおりであるとすると,人は,どんなに懸命に励もうとも,自分と自分の将来にかかわる神の硬直した恒久的な計画を変えるような事は何一つ行なえないことになります。そのような道理にそわない方であるとしたら,あなたはその神に引き寄せられるでしょうか。―ヤコブ 4:8と比較してください。

      2,3 (イ)人間の制度や組織の道理にそわない面をどのように例えることができますか。(ロ)エホバの天の兵車に関するエゼキエルの幻は,エホバの適応性をどのように明らかにしていますか。

      2 聖書の神はことのほか道理にかなった方です。その点を知るのは大きな安らぎではありませんか。手厳しくて柔軟性を欠きがちなのは,神ではなく,不完全さに拘束された人間のほうです。人間の組織は貨物列車のようで,微妙な動きが苦手です。長い貨物列車が突進している時,その軌道上に何かの障害物があっても,方向を変えることはおろか,停止することさえままなりません。このような列車は前進の勢いが強く,ブレーキをかけても,止まるまでに1㌔以上も走ることがあります。同じように,スーパータンカーも,エンジンを切った後にも,そのまま8㌔も惰力ですべってゆくことでしょう。エンジンを逆回転させても,3㌔は水をかき分けて進んでゆくでしょう。しかし今,これら二つに比べてはるかに畏怖すべき乗り物,つまり神の組織を表象する乗り物について考えてください。

      3 今から2,600年以上昔,エホバは預言者エゼキエルに,霊の被造物で成るご自分の天の組織のありさまを描く幻をお与えになりました。それは畏敬の念を抱かせるほど大きな兵車で,常にエホバの制御下にある,エホバご自身の“乗り物”でした。特に興味深いのは,その兵車の動き方です。それに付いた巨大な車輪には四つの側があり,目がいっぱい付いていましたから,あらゆる場所を見ることができ,停止も転回もせずに即時方向を変えることができました。そして,この巨大な乗り物は,スーパータンカーや貨物列車のように機関音や地響きを立てる必要はありません。稲妻のスピードで進むことができ,直角に転回することさえできます。(エゼキエル 1:1,14-28)その兵車が動きの鈍い人間製の機械装置とは異なるのと同じように,エホバは,カルバンが説いた神とは大いに異なっています。エホバは自在の適応性を持たれます。エホバのご性格のこの面を認識することは,わたしたち自身が適応性を働かせ,道理から外れてしまうわなを避ける助けとなるはずです。

      エホバ ― 宇宙で最も適応性のある方

      4 (イ)エホバが神として適応性のある方であることを,そのお名前そのものがどのように明らかにしていますか。(ロ)エホバ神について用いられる称号にはどんなものがありますか。なぜそれらは適切ですか。

      4 エホバのお名前そのものが,この方の持たれる適応性を暗示しています。「エホバ」とは文字通りには,「彼はならせる」という意味です。これは明らかに,エホバがどんな事にせよご自分の約束した事柄の達成者となられることを意味しています。モーセが神のお名前について尋ねた時,エホバはその名の意味を詳述して,「わたしは自分がなるところのものとなる」という意味のあることを述べられました。(出エジプト記 3:14)ロザハムの翻訳は的確にもこれを,「わたしは何であれ自分の望むものになる」と訳出しています。エホバは,ご自分の義にそった目的や約束を果たすため何にせよ必要なものになる,あるいはご自身をそのようなものとされるのです。こうしてエホバは,創造者,父,主権者なる主,牧者,万軍のエホバ,祈りを聞かれる方,裁き主,偉大な教訓者,買い戻す方など,感嘆をさそうまでに多彩な称号を持たれるのです。エホバは,愛に満ちたご自分の目的を実行するために,自らこれらすべて,いやそれ以上のものになられるのです。―イザヤ 8:13; 30:20; 40:28; 41:14。詩編 23:1; 65:2; 73:28; 89:26。裁き人 11:27。「新世界訳」,付録,1リも参照してください。

      5 エホバが適応性を持たれるとしても,そのゆえにエホバのご性質や規準が変化すると考えるべきでないのはなぜですか。

      5 では,このことは,神のご性質や神の物事の規準が変化するという意味でしょうか。そうではありません。ヤコブ 1章17節はその点について,「父には影の回転による変化もありません」と述べています。ここには矛盾があるのでしょうか。決してそうではありません。例えば,愛のある親で,子供の益のために自分の役割を変えない人がいるでしょうか。ほんの一日のうちにも,親は,カウンセラー,調理師,ハウスキーパー,教師,訓練士,友人,機械工,看護婦などになります。このように挙げてゆけばさらに多くのものがあるでしょう。これらの役を果たすとき,親は自分の性格を変えるわけではありません。父親にしても母親にしても,ただその時の必要に自分を適応させているにすぎません。エホバについても同じであり,ただそれをずっと大きな規模で行なっておられるのです。エホバの場合,被造物の益のために自分をならせることのできるものの範囲に限界はありません。エホバの知恵の深さにはまさに驚嘆すべきものがあります。―ローマ 11:33。

      道理にかなう ― 神の知恵のしるし

      6 神の知恵を描写するのにヤコブが用いたギリシャ語には,どんな字義通りの意味と含みがありますか。

      6 弟子ヤコブは,この最高度に適応性を持たれる神の知恵を描写するのに興味深い言葉を用いました。「上からの知恵は……道理にかない」と書いています。(ヤコブ 3:17)ヤコブがここで用いたギリシャ語(エピエイケース)は翻訳の難しい言葉です。翻訳者たちは,「穏やか」,「情け深い」,「よく堪える」,「思いやりのある」などの意味にとらえてきました。「新世界訳」はこれを『道理にかなう』と訳し,脚注で字義的には『すぐに応じる』という意味であることを示しています。a この語はまた,法の字句どおりの解釈を強要せず,度を超えて厳重であったり厳格すぎたりしない,という意味も伝えています。学者のウィリアム・バークレーは「新約聖書の用語」の中でこのように注解しています。「エピエイケイアについて基本的また本質的なことは,それが神に由来するという点である。もし神がご自身の権利を主張し,ただ法の規準のみを手厳しく適用されるなら,我々はどこに存在しうるだろうか。神はエピエイケースな者の,またエピエイケイアをもって他を扱う者の至上の手本である」。

      7 エホバはエデンの園においてどのように道理にそった対応をされましたか。

      7 人間がエホバの主権に反逆した時のことを考えてください。神にとって,それら恩知らずの反逆者,つまりアダム,エバ,サタンの三者を処刑するのはどんなにか容易なことであったでしょう。そうしていたなら,神はどれほどの心痛をせずにすんだことでしょう。しかも,そのような厳重な公正を要求する神の側の権利にだれが異議を唱え得たでしょう。それでもエホバは,天の兵車にも似たご自分の組織を,手厳しく,適応性のない公正の規準のわくの中に閉じ込めてしまうことはされませんでした。それによって,兵車が人間家族と人類の前途に置かれた幸福な見込みすべてを仮借なく踏みつぶすというようなことはありませんでした。むしろエホバは,ご自分の兵車を稲妻のような速さで操縦されました。反逆のすぐ後に,エホバ神は,アダムの子孫すべてに憐れみと希望を差し伸べる長期的な目的の大要を明らかにされたのです。―創世記 3:15。

      8 (イ)キリスト教世界の誤った物分かりのよさと,エホバの真に道理にそった態度とはどのように対比できますか。(ロ)エホバが道理にそって物事を行なわれるということは,自らの原則を妥協させるという意味ではありません。どうしてそう言えますか。

      8 しかしながら,エホバが道理にそって物事を行なわれるということは,神が自ら原則を妥協させることがあるという意味ではありません。今日のキリスト教世界の諸教会は,単に気ままな教会員のご機嫌を取るために不道徳に目をつぶることによって道理にかなった物分かりのよさを示している,と考えるかもしれません。(テモテ第二 4:3と比較してください。)エホバは決して自ら律法を犯したり,ご自分の原則を妥協させたりはされません。それでも,進んで順応性を示され,状況に適応して,ご自分の原則が公正かつ憐れみをもって適用されるようにするのです。エホバは常に,公正と力の行使を,愛また道理にそった知恵と釣り合わせることに思いを致されます。エホバが道理にそって物事を行なわれる三つの面を考えましょう。

      『進んで許される』

      9,10 (イ)『進んで許す』ことは道理にかなった見方とどのような関係がありますか。(ロ)ダビデはエホバが進んで許してくださったことからどのように益を受けましたか。それはなぜでしたか。

      9 ダビデはこのように書きました。「それは,エホバよ,あなたが善良で,進んで許してくださるからです。あなたを呼び求める者すべてに対するその愛ある親切は,豊かだからです」。(詩編 86:5)ヘブライ語聖書がギリシャ語に翻訳された時,『進んで許す』に当たる言葉はエピエイケース,つまり「道理にかなう」と訳されました。事実,進んで許して憐れみを示すことは,道理にかなった見方を示す主要な方法と言えるかもしれません。

      10 ダビデ自身は,エホバがこの面でどれほど道理にそって物事を行なわれるかをよく知っていました。ダビデがバテ・シバと姦淫を犯した上にその夫の死を計らった時,ダビデもバテ・シバも共に死の刑罰に相当しました。(申命記 22:22。サムエル第二 11:2-27)手厳しい人間の裁き人が事に当たっていたなら,両人は命を失っていたことでしょう。しかし,エホバは道理にそった見方(エピエイケース)を示されました。それは,バインの「聖書用語解説辞典」も述べるとおり,「『事の事実を人間味をこめてまた道理にそって』見る配慮の表われ」でした。エホバの憐れみある裁決を促した事実の中には,これら悪行者たちの誠実な悔い改めと,ダビデ自身が他の人々にそれまでに示した憐れみとがあったことでしょう。(サムエル第一 24:4-6; 25:32-35; 26:7-11。マタイ 5:7。ヤコブ 2:13)しかしそれでも,出エジプト記 34章4節から7節にある,エホバに関するご自身の描写と一致して,エホバがダビデに対して懲戒の処置を取るのは道理にかなったことでした。エホバは預言者ナタンをダビデのもとに遣わして厳しい音信を告げさせ,ダビデがエホバの言葉を侮った事実を思い知らせました。ダビデは悔い改め,そのためにその罪のゆえに死ぬことはありませんでした。―サムエル第二 12:1-14。

      11 マナセの場合,エホバは進んで許す態度をどのように示されましたか。

      11 ユダのマナセ王の例は,この点でさらに注目に値します。マナセは,ダビデの場合と異なり,長期にわたって甚だしく邪悪であったからです。マナセはその国で嫌悪すべき宗教上の慣行を推し進め,人間をいけにえにすることまで行ないました。忠実な預言者イザヤが「のこぎりで切り裂かれ(た)」とされることに関しても,それはマナセの責任であったのかもしれません。(ヘブライ 11:37)処罰として,エホバはマナセがとりこにされてバビロンに連行されることを許されました。しかし,マナセは獄の中で悔い改め,憐れみを請い求めました。その誠実な悔い改めにこたえて,エホバは『進んで許す』態度を示されました。このような極端な場合においてもです。―歴代第二 33:9-13。

      新しい状況に応じて対応を変える

      12,13 (イ)ニネベの場合,エホバはどんな状況の変化に応じて対応を変更されましたか。(ロ)ヨナはエホバ神ほど道理にそった対応ができませんでした。どうしてそう言えますか。

      12 エホバの道理にかなった物事の行ない方は,新しい状況の進展に応じて,あらかじめ熟慮した行動方針をも進んで変更されることに示されています。一例を挙げると,預言者ヨナが古代ニネベの市街を行進した時,ヨナが伝えた霊感による音信はしごく簡明で,その強大な都市が40日のうちに滅ぼされるという内容でした。ところが,状況が劇的に変わりました。ニネベの人々は悔い改めたのです。―ヨナ 3章。

      13 この事態の進展に関してエホバとヨナの対応の仕方を比べてみるのは教訓的です。エホバは事実上,ご自分の天の兵車の進路を変更されました。エホバはこの時の事情にご自身を適応され,ご自分を,「雄々しい戦人」ではなく,罪を許す方とならせました。(出エジプト記 15:3)ヨナのほうは,柔軟性がずっと欠けていました。エホバの兵車と歩調を合わせず,先に挙げた貨物列車やスーパータンカーのように行動しました。ヨナとしては,破滅を布告してきたのだから,どうしても破滅が臨まなければならなかったのです。もし方向を多少でも変えるなら,ニネベの人々の目に自分の体面を保てないと感じたのかもしれません。それでもエホバは,その頭の固い預言者に,道理と憐れみに関する忘れ難い教訓を辛抱づよく諭されました。―ヨナ 4章。

      14 どうしてエホバは預言者エゼキエルに関してご自分の対応を変えられましたか。

      14 エホバは他の場合にも対応を変えられたことがあります。それは比較的小さな事柄に関することもありました。例えば,ある時,預言者エゼキエルに預言的なドラマを演じる任務を与えたことがありましたが,エホバの指示には,エゼキエルが人糞を燃料として自分の食べ物を調理するようにとの指示も含まれていました。それは余りに耐え難いことに思えたため,この預言者は,「ああ,主権者なる主エホバよ!」と叫んで,それほど不快なことをしないでもよいようにと嘆願しました。エホバはこの預言者の感情を無分別なものとして退けたりはせず,エゼキエルが牛の糞を用いることを許しました。それは,今日まで多くの土地でごく普通の燃料源として用いられているものです。―エゼキエル 4:12-15。

      15 (イ)エホバが進んで人間に耳を傾け,こたえ応じてこられたことをどんな例が示していますか。(ロ)これはわたしたちにとってどんな教訓になりますか。

      15 わたしたちの神エホバの側の謙遜さを熟視することには心の温まるものがあるではありませんか。(詩編 18:35)エホバはわたしたちとは比較にならないほど高大な方です。それでも,不完全な人間に辛抱づよく耳を傾け,時にはそれにこたえて対応を変更されることもあるのです。エホバは,アブラハムがソドムとゴモラの滅びに関して長々と申し立てるのを許しました。(創世記 18:23-33)またエホバは,反逆的なイスラエル人を滅ぼして,代わりにモーセから強大な国民を作るというご自身の提議にモーセが異議をはさむことを許されました。(出エジプト記 32:7-14。申命記 9:14,19。アモス 7:1-6と比較してください。)こうしてエホバは完ぺきな手本を示しておられます。人間の僕たちも,道理をわきまえ,また可能な時には,他の人たちに進んで耳を傾けるその同じ態度を示すべきです。―ヤコブ 1:19と比較してください。

      権威の行使も道理にそって行なう

      16 権威の行使の仕方という点で,エホバは多くの人間とどのように異なっておられますか。

      16 大きな権威を持つにつれて道理から外れてゆくように見える人が少なからずいることに気づいておられるでしょうか。エホバはそれとは対照的に,宇宙で最高の権威の地位にありながらも,道理をわきまえるという点で究極の手本となっておられます。エホバはご自分の権威をいつも必ず道理にそって行使されます。多くの人間の場合とは異なって,エホバはご自分の権威について不安を覚えたりはせず,権威を多少でも分け与えることによって自分が脅かされるかのように,さい疑心からそれを守る必要を感じたりはされないのです。事実,宇宙内にご自分以外にはひとりしかいなかった時にも,エホバはその者に広範な権威を授けました。エホバはロゴスをご自分の「優れた働き手」とし,その時以後は,この愛するみ子を通してすべての物を存在に至らせました。(箴言 8:22,29-31。ヨハネ 1:1-3,14。コロサイ 1:15-17)エホバは後にみ子に,「天と地におけるすべての権威」をゆだねました。―マタイ 28:18。ヨハネ 5:22。

      17,18 (イ)エホバがみ使いたちをソドムとゴモラに遣わされたのはなぜでしたか。(ロ)アハブをどのようにだますかについて,エホバがみ使いたちに提案を求めたのはなぜですか。

      17 同じようにエホバは,自ら事に当たればずっとよく果たせる職務を,数多くのご自分の被造物に託しておられます。例えば,アブラハムに,「わたしは,それについてわたしに達した叫びのとおりに彼らが行動しているのかどうかを見るため[ソドムとゴモラ]に下って行こうと決めている」と語られた時,ご自身でそこへ行くという意味で言われたのではありませんでした。むしろエホバは,権威を委任する道を取り,み使いたちを任じて,情報を集めさせました。み使いたちに権威を与えて,この実情調査の使命を遂行させ,その報告を行なわせるようにしたのです。―創世記 18:1-3,20-22。

      18 別の場合として,邪悪な王アハブに対する刑の執行を思い定めた時,エホバはみ使いたちを天の集会に招き,その背教の王を「だまして」戦闘に加わらせ,それによって王を死に至らせる方法について提案を出させました。言うまでもなく,あらゆる知恵の源であられるエホバは,取るべき最善の策について進言が必要であったわけではありません。それでもエホバは,解決策を提案する特権を差し伸べ,またご自分が選び定めた方策にしたがって行動する権限をも与えて,み使いたちに誉れを持たせました。―列王第一 22:19-22。

      19 (イ)エホバがご自分の設ける律法の数を限定されるのはなぜですか。(ロ)わたしたちに求めるものに関して,エホバはどのように道理にかなった見方を示されますか。

      19 エホバは,他の者をむやみに支配するためにご自分の権威を用いたりはされません。この点でも道理にかなった見方をたぐいなきまでに示しておられます。ご自分の設ける律法の数を注意深く限定し,僕たちにも,重荷となる律法を勝手に加えて『書かれている事柄を越える』ことのないように戒めておられます。(コリント第一 4:6。使徒 15:28。マタイ 23:4と対比してください。)エホバは決してご自分の被造物に盲目の従順を要求されません。大抵は,指針となる情報を十分に備えて選択の道を与え,従うことの益と従わないことの結果とを理解させるのです。(申命記 30:19,20)罪悪感や,恥の意識や,恐れの気持ちによって駆り立てるのではなく,むしろ人の心を動かすことを求められます。人が,強いられてではなく,純粋な愛のゆえにご自分に仕えることを望んでおられるのです。(コリント第二 9:7)そのような魂のこもった奉仕はすべて神の心を喜ばせるものとなりますから,エホバは道理をわきまえない「気むずかしい」方ではありません。―ペテロ第一 2:18。箴言 27:11。ミカ 6:8と比較してください。

      20 エホバの,道理にかなった対応の仕方はあなたにどんな感化を与えますか。

      20 創造界のいかなるものより力を持たれるエホバ神が,その力の行使において決して道理を超えず,他の者を痛めつけるためにそれを用いたりは決してされないというのは,注目すべき点ではないでしょうか。しかし,それと比べればずっと小さな人間は,互いに対する圧制の歴史を残してきました。(伝道の書 8:9)明らかに,道理に従うというのは貴重な特質であり,エホバに対する愛をいよいよ深くさせます。それはまた,この特質をわたしたちも培いたいという動機を抱かせるでしょう。どうしたらそれができますか。次の記事はその点を取り上げます。

      [脚注]

      a すでに1769年に,辞書編集者ジョン・パークハーストはこの語を,「すぐに応じる,快く譲る気質の,穏やかな,温和な,辛抱づよい」と定義しました。他の学者たちも,「すぐに応じる」という意味を定義に加えてきました。

  • 道理にかなった見方を培いなさい
    ものみの塔 1994 | 8月1日
    • 道理にかなった見方を培いなさい

      「あなた方が道理をわきまえていることがすべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです」― フィリピ 4:5。

      1 今日の世界で道理をわきまえた人となるのはなぜ難しい課題ですか。

      「道理をわきまえた人」― 英国のジャーナリスト,アラン・パトリック・ハーバート卿は,それを神話的人物としました。実際のところ,抗争に明け暮れるこの世界に道理をわきまえた人などひとりも残っていないように思えることがあるかもしれません。聖書は,この危機的な「終わりの日」に,人々が「粗暴な者」,「片意地な者」,「容易に合意しない者」となる,言い換えれば,おおよそ道理をわきまえない者となることを予告していました。(テモテ第二 3:1-5)しかしそうではあっても,真のクリスチャンは,道理をわきまえることを,非常に大切なこととみなします。それが神の知恵のしるしであることを知っているからです。(ヤコブ 3:17)わたしたちは,道理をわきまえない世界にあっても,道理をわきまえて行動することを不可能とは考えません。むしろ,「あなた方が道理をわきまえていることがすべての人に知られるようにしなさい」という,フィリピ 4章5節の,使徒パウロの霊感による助言を,自分たちの取り組むべき当然の課題として受け入れるのです。

      2 フィリピ 4章5節の使徒パウロの言葉は,わたしたちが道理をわきまえた人かどうかを見極める点でどのように役立ちますか。

      2 自分が道理をわきまえているかどうかを確かめるのに,パウロの言葉がどんな点で助けになるかに注目してください。これは,わたしたちが自分をどう見るかという問題ではありません。他の人たちがわたしたちをどう見るか,わたしたちがどのような者として知られているかという問題です。フィリップス訳はこの節を,「道理をわきまえているとの評判を受けるようでありなさい」としています。『自分はどのような者として知られているだろうか。道理をわきまえていて,順応性のある,穏やかな人との評判を得ているだろうか。それとも,手厳しく,過酷で,片意地な人として知られているだろうか』。各自このように自問してみるのがよいでしょう。

      3 (イ)「道理をわきまえる」と訳されているギリシャ語にはどんな意味がありますか。なぜこれは好ましい特質ですか。(ロ)クリスチャンはどうしたらいっそう道理をわきまえた者となる方法を学べますか。

      3 この点におけるわたしたちの評判は,実際には,わたしたちがどこまでイエス・キリストに見倣っているかの反映となるでしょう。(コリント第一 11:1)この地上におられた時,イエスは,道理をわきまえるという面でみ父の至上の手本を申し分なく反映されました。(ヨハネ 14:9)事実,「キリストの温和と親切」について書いた際,パウロが親切に相当する語として用いたギリシャ語(エピエイキアス)には,「道理をわきまえていること」という意味もあり,字義的には,「すぐに応じること」を指しています。(コリント第二 10:1)「解説者の聖書注解」はこれを,「新約[聖書]における性格描写の語として重要なものの一つ」と評しています。これは極めて好ましい特質を描写する語であるために,ある学者はこの語を,「さわやかで道理にかなっていること」とも訳しています。ですから,イエスがみ父エホバと同じように道理をわきまえていることを示された三つの面を考察することにしましょう。それによって,どうしたらわたしたちもいっそう道理をわきまえた者となれるかを学べるでしょう。―ペテロ第一 2:21。

      『進んで許す』

      4 イエスは『進んで許す』態度をどのように示されましたか。

      4 イエスはみ父と同じく,『進んで許す』態度を幾たびも示して,道理をわきまえていることを実証されました。(詩編 86:5)親しい友であったペテロが,イエスの捕縛と裁判の夜にイエスのことを三度も否認した時のことを考えてください。イエス自身はそれより前に,「だれでも人の前でわたしのことを否認する者は,わたしも天におられるわたしの父の前でその者のことを否認します」と述べておられました。(マタイ 10:33)イエスはこの規範をペテロに対して憐れみをまじえずに手厳しく適用しましたか。いいえ。復活の後,イエスは自らペテロのところを訪ねました。それは,この悔い改めた傷心の使徒を慰め,力づけるためであったに違いありません。(ルカ 24:34。コリント第一 15:5)それからほどなくして,イエスはペテロに大きな責務をゆだねました。(使徒 2:1-41)ここにこそ,さわやかで道理にかなった態度が最高度に表わされています。エホバがこのイエスを全人類の裁き主として任命しておられることを考えるのは慰めとなることではありませんか。―イザヤ 11:1-4。ヨハネ 5:22。

      5 (イ)長老たちは羊たちの間でどんな評判を得ているべきですか。(ロ)長老たちは審理事件を扱うに先だってどんな資料を復習できますか。なぜですか。

      5 長老たちは,会衆内で裁き人として務めを果たすとき,道理をわきまえる面でイエスの手本に従うことに努めます。羊が長老たちを,処罰を加える人として恐れるようなことを望みません。むしろイエスに見倣うことによって,羊が長老たちと共にいる時に愛ある牧者のもとにいるような安心感を抱けるようにします。審理事件の場合,長老は道理にそい,進んで許しを差し伸べることができるよう,あらゆる努力を尽くします。ある長老たちは,そのような問題を扱うに先だって,「ものみの塔」誌,1992年7月1日号の,「エホバ,公平な『全地を裁く方』」,および「長老たち,義をもって裁きなさい」という記事を復習するのが役立つことを知りました。それによって,「必要な場合には毅然とし,可能な場合には憐れみ深い」という,エホバの裁きの仕方の大要を銘記するのです。裁きにあたっては,それなりの道理にかなった理由がある場合,憐れみの方向に傾くのは誤りではありません。(マタイ 12:7)過酷になったり憐れみを欠いたりすることこそ重大な誤りなのです。(エゼキエル 34:4)こうして長老たちは,公正の境界内にとどまりつつ,可能な限り最も愛と憐れみのある道を積極的に求めることによって誤りを避けるようにします。―マタイ 23:23; ヤコブ 2:13と比較してください。

      状況の変化に応じた柔軟性

      6 イエスは悪霊に取りつかれた娘を持つ異邦人の女性への対応において道理をわきまえていることをどのように示されましたか。

      6 エホバと同じように,イエスも生じてくる新しい事態に応じて対処の仕方を速やかに変更され,適応性を示されました。ある時,ひとりの異邦人の女性がひどく悪霊に取りつかれた自分の娘をいやしてくださるようにと請い願いました。イエスは当初,三度にわたり,それぞれ違った方法で,自分が彼女を助ける意向のないことを示されました。初めは,彼女に答えないことによって,次には,自分が異邦人のためにではなくユダヤ人のために遣わされていることをはっきり述べることによって,三度目には,その同じ点を優しく示す例えによってです。しかし,その女性はこのすべてを見ながらひるまず,ひとかたならぬ信仰のあることを示しました。この普通と異なる状況を見て,イエスは,それが通常の規則どおりに事を行なう場合ではないことを悟られました。それは,より高度の原則にしたがって融通を働かせるべき場合でした。a こうしてイエスは,自分が行なうつもりのないことを三回も示したまさにその事を行なわれました。その女性の娘をいやされたのです。―マタイ 15:21-28。

      7 親はどのような点で道理にかなった物分かりのよさを示せますか。なぜですか。

      7 わたしたちも,ふさわしい場合には進んで融通を働かせる人として知られているでしょうか。親はそのような道理にかなった物分かりのよさを示すべき場合が多くあります。子供は一人ひとりみな違っていますから,ある子供にうまくいった方法は別の子供の場合には適当でないかもしれません。さらに,成長するにつれて,子供たちの必要とするものも変わってきます。帰宅すべき時間の決まりに手を加えるべきでしょうか。家族研究の機会は,もっと生き生きした形式にするほうが益があるでしょうか。親が何かの小さな違反に過敏に反応した場合,父親にしても母親にしても,進んで謙遜になって事を正せるでしょうか。こうした点で順応性のある親は,不必要に子供たちをいら立たせたり,エホバから離れさせたりすることを避けられるでしょう。―エフェソス 6:4。

      8 会衆の長老たちは区域の必要としている事柄に適応してゆく面でどのように率先できますか。

      8 長老たちも,神の明確な律法を決して妥協させず,しかも新たな状況が生じるに応じてそれに適応してゆくことが必要です。宣べ伝える業を監督するにあたっても,区域内の変化に機敏ですか。地域での生活様式の変化に対応して,晩の証言,街路での証言,電話による証言などに力を入れるのがよいのかもしれません。このような面で適宜状況に応じてゆくことは,わたしたちの伝道の任務を,いっそう効果的に果たしてゆく上で助けになります。(マタイ 28:19,20。コリント第一 9:26)パウロも自分の宣教においてあらゆるタイプの人に自分を適応させてゆくことを心がけました。わたしたちも,例えば,人々を助けられるように土地の宗教や文化について学ぶなどして,同じようにするでしょうか。―コリント第一 9:19-23。

      9 なぜ長老は問題の対処にあたって自分の過去の方法にいつも固執すべきではありませんか。

      9 この終わりの日がその危機の様相をいや増すにつれ,牧者たちも,自分の羊の群れがいま直面しているある種の問題の,当惑させるほどの複雑さや憂うつさに適応してゆくことが求められることでしょう。(テモテ第二 3:1)長老たち,今は手厳しく振る舞うべき時ではありません。確かに長老は,問題の対処に当たって,自分のやり方に効果がなくなっているなら,あるいは,「忠実で思慮深い奴隷」がそのテーマについて新しい資料を出版することを妥当としているなら,自分が過去に行なった方法に固執したりはしないでしょう。(マタイ 24:45。伝道の書 7:10; コリント第一 7:31と比較してください。)ひとりの忠実な長老は,うつ状態の一姉妹を誠実に助けようとしました。その姉妹は,しっかり話を聞いてくれる人を切実に必要としていました。しかし長老は,彼女のうつ状態をまともに考えず,しごく単純な解決策しか述べませんでした。その後,ものみの塔協会は,まさにこの姉妹の抱える問題を聖書に基づいて取り上げたかなりの情報を紙面で発表しました。長老はその姉妹とゆっくり話す機会を改めて設け,今度は新しい資料を適用して,姉妹のつらい状況に感情移入を示しました。(テサロニケ第一 5:14,15と比較してください。)道理にかなうという点で優れた手本ではありませんか。

      10 (イ)長老は互いに対し,また長老団全体に対して,どのように順応性を示すべきですか。(ロ)長老団は道理をわきまえていないことを示す人をどのようにみなすべきですか。

      10 長老たちは,互いに対しても順応性のある態度を示す必要があります。長老団が会合する時,一人の長老が自分だけで議事を支配するようなことをしないのは何と大切なのでしょう。(ルカ 9:48)主宰の任に当たる人はこの点で特に抑制力を働かせることが必要です。そして,一人か二人の長老が長老団の全体的な決定と意見を異にする場合でも,その一人か二人の長老は,自分の見方を通すことには固執しないでしょう。むしろ,聖書の原則が犯されているのでない限り,道理をわきまえることが長老に対する要求であることを銘記して,順応性を示すでしょう。(テモテ第一 3:2,3)他方,長老団は,パウロが,自らを「優秀な使徒たち」とした『道理をわきまえない人たちを忍んでいた』ことに関してコリントの会衆を懲らしたことにも留意しているべきです。(コリント第二 11:5,19,20)したがって,頑固で道理にそわない行動をする仲間の長老がいれば,助言することをためらうべきではありませんが,自分たち自身は温和さと親切さとをもってそれを行なうべきです。―ガラテア 6:1。

      権威を行使する際にも道理をわきまえる

      11 権威の行使の仕方という点で,イエスの時代のユダヤ人の宗教指導者とイエスにはどんな対照が見られましたか。

      11 地上で生活された時,イエスが物事の道理をわきまえておられたことは,神から授けられた権威の用い方によく示されていました。イエスはその時代の宗教指導者とは何と違っていたのでしょう。一つの例を考えてください。神の律法は,安息日にはどんな仕事も,たきぎを集めることをさえしてはいけないと命じていました。(出エジプト記 20:10。民数記 15:32-36)宗教指導者たちは,この律法をまさにどのように適用すべきかについて民を統制することを願っていました。それで,安息日に人は何を持ち上げてもよいのかを,自分たちではっきり規定していました。干しいちじく二つ分より重いものは一切いけない,というのが彼らの規則でした。釘で補強したサンダルをさえ禁止事項に含めていました。釘の重みを持ち上げる分だけ仕事をすることになる,というのがその主張だったのです。ラビたちは安息日に関する神の律法に全部で39の規則を加え,それらの規則にさらに果てしない付加事項を加えていった,と言われています。一方イエスは,果てしない制限的な規則を定めたり,厳しすぎて達成できない規準を設けたりして,人を恥じさせて統御するようなことを求めませんでした。―マタイ 23:2-4。ヨハネ 7:47-49。

      12 イエスはエホバの義の規準という点ではためらわれなかったと言えるのはなぜですか。

      12 では,イエスは神の義の規準を固く守ろうとはしていなかった,と言うべきなのでしょうか。いいえ,イエスはそれをしっかり守りました。イエスは,律法は,人がその律法の背後にある原則を心に留めるときに最も有効なものとなることを理解しておられたのです。パリサイ人は,数え切れないほどの規則で民を統制することに腐心していましたが,イエスは人の心を動かすことに努めました。例えばイエスは,「淫行から逃げ去りなさい」という神の律法に関しては,いっさい譲る余地のないことをよく知っておられました。(コリント第一 6:18)それでイエスは,不道徳な行為に至りかねない考えについて人に警告しました。(マタイ 5:28)このような教え方こそ,ただお決まりの硬直した規則を設けるよりはるかに深い知恵と識別力を必要としたのです。

      13 (イ)長老たちが柔軟性のない律法や規則を作らないようにすべきなのはなぜですか。(ロ)個人の良心を尊重することが肝要などんな分野がありますか。

      13 今日の責任ある兄弟たちも,同じように心に訴えることに関心を払っています。そのために,柔軟性のない独断的な規則を設けたり,自分の個人的な見方や意見を律法に変えたりすることのないようにします。(ダニエル 6:7-16と比較してください。)服装や身なりなどの点について親切に思い起こさせるのがふさわしく,それが時宜にかなう場合もしばしばありますが,そのような点をくどくどと繰り返したり,本来自分の個人的な好みに属するようなものを人に課そうとしたりするなら,長老は,道理をわきまえた人としての自分の評判を危うくすることになるでしょう。実際のところ,会衆内のだれも,他の人を支配しようとすることは避けるべきです。―コリント第二 1:24; フィリピ 2:12と比較してください。

      14 他の人たちに期待する事柄の点でイエスが道理をわきまえておられたことは何に示されていますか。

      14 長老たちは別の面でも自己吟味を望むことでしょう。『自分は他の人たちに期待する事柄の点で道理をわきまえているだろうか』。イエスは確かにそのようにしておられました。イエスは終始,魂のこもった努力以外のものは求めないことを追随者たちに示され,同時にそのようにしてなされた努力を高く評価されました。自分の持っていた値の小さな硬貨をささげた貧しいやもめを称賛されました。(マルコ 12:42,43)弟子たちがマリアの高額の寄付についてとがめた時には,「彼女をそのままにしておきなさい。……彼女は自分にできることをしました」と言って,弟子たちを叱責されました。(マルコ 14:6,8)追随者たちがイエスの期待に背いた時にさえ,道理に外れた対応はされませんでした。例えば,イエスの捕縛された夜,目を覚まして自分と一緒に見張っているようにと,いちばん親しい3人の使徒たちに促しておいたにもかかわらず,その3人は何度も眠り込んでいて,イエスを失望させました。それでもイエスは,「もとより,霊ははやっても,肉体は弱いのです」と,同情心のある言葉を述べられました。―マルコ 14:34-38。

      15,16 (イ)群れに圧力をかけたり追い立てたりしないよう長老たちが注意すべきなのはなぜですか。(ロ)ひとりの忠実な姉妹は自分が他の人たちに期待する事柄についてどのように見方を変えましたか。

      15 確かにイエスは追随者たちに,『精力的に励む』ように促しました。(ルカ 13:24)しかし,そのとおりにするように強いて圧力をかけたことは決してありません。そうするように追随者たちを鼓舞し,手本を示し,率先し,その心を動かすことに努めました。それ以外の部分はエホバの霊の力にゆだねたのです。今日の長老たちも,群れが魂を込めてエホバに仕えるように励ますべきですが,とがめや恥じらいの気持ちを抱かせ,現在エホバへの奉仕で行なっている事柄が何かの面で欠けているとか受け入れられないと言わんばかりの姿勢は避けるべきです。手厳しい態度で,『もっと,もっと,もっと!』と駆り立てるようなやり方は,できる限りを尽くしている人たちを気落ちさせることにもなるでしょう。長老が「気むずかしい」人という評判を作り上げるとしたら,何と悲しいことでしょう。道理をわきまえているとはおよそ言えません。―ペテロ第一 2:18。

      16 わたしたちすべては,他の人たちに期待する事柄の点で道理をわきまえていなければなりません。一姉妹は,病気になった自分の母親の世話をするために,夫と共に宣教者としての割り当てを離れた後に,こう書いています。「このごろは,こうして会衆にいるわたしたち伝道者たちにとって本当に難しい時世です。巡回や地域の仕事に携わってそれら多くの重圧から守られていましたが,急に,そして痛切な方法でその点に気づかされました。例えば,わたしは以前,『なぜあの姉妹はこの月の決められた文書を提供しないのだろうか。「王国宣教」を読まないのだろうか』と考えていました。今は,なぜそうなのか分かります。ある人たちにとっては,[奉仕に]出て来るだけで精いっぱいなのです」。していない点について兄弟たちを裁くより,している点について褒めるほうが,何と良いのでしょう。

      17 イエスは道理をわきまえる点でどのようにわたしたちの手本となられましたか。

      17 イエスが権威を行使する際いかに道理をわきまえておられるか,最後にもう一つの例を考えてください。み父と同じように,イエスも自分の権威を守るためにさい疑心を抱いたりはされません。他の者に物事を委任する面で優れており,ご自分の忠実な奴隷のグループを任命して,地上における「自分のすべての持ち物」を世話させておられます。(マタイ 24:45-47)そして,他の者たちの意見を聴くことを恐れたりはされません。自分の話を聴いていた人たちに,しばしば,「あなた方はどう考えますか」と尋ねました。(マタイ 17:25; 18:12; 21:28; 22:42)今日キリストに従う人たちすべての間でも,そのようでなければなりません。どれほどの権威を持とうとも,耳を傾けることをおっくうがるようになってはなりません。親たち,耳を傾けてください! 夫たち,耳を傾けてください! 長老たち,耳を傾けてください!

      18 (イ)自分が道理をわきまえた人としての評判を得ているかどうかはどうしたら分かるかもしれませんか。(ロ)わたしたちすべては何を決意するのが良いですか。

      18 言うまでもなく,わたしたちは皆,「道理をわきまえているとの評判を受けるようであり」たいと思います。(フィリピ 4:5,フィリップス訳)しかし,そのような評判があるかどうかがどうしたら分かるでしょうか。イエスの場合,人々が自分についてどのように言っているかを知りたいと思われた時,自分と共にいる信頼できる人たちに質問されました。(マタイ 16:13)イエスの例に倣うのはどうでしょうか。率直に言ってくれるとみなせる人に,自分が道理をわきまえた,順応性のある人としての評判を得ているかどうかを尋ねてみることができるでしょう。もとより,わたしたちすべてには,道理をわきまえる面でイエスの完ぺきな手本になおいっそう見倣うために行なえることが実に沢山あります。とりわけ,他の人に対して何らかの権威を行使する場合,わたしたちは常にエホバとイエスの手本に倣い,常に道理にかなった方法でそれを行使し,ふさわしければいつでも進んで許し,融通を働かせ,順応性を示しましょう。そうです,わたしたちのすべてが,『道理をわきまえた』者となるために努力できますように。―テトス 3:2。

      [脚注]

      a 「新約聖書の用語」という本はこう注解しています。「エピエイケースな[道理をわきまえた]人は,ある事柄が法的には全く正当化されても,道徳的には全く誤りとなる場合のあることを知っている。エピエイケースな人は,法より高次で偉大な力の強制のもとに法を緩めるべき場合を知っている」。

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