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    ものみの塔 1995 | 8月15日
    • 疲れた者たちへの愛ある招き

      「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう」― マタイ 11:28。

      1 イエスはガリラヤでの3回めの伝道旅行のさい何を目にされましたか。

      西暦32年の初めごろ,イエスはガリラヤ地方を回る3回めの伝道旅行の途上にありました。多くの都市や村々を訪ね,「人々の会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝え,あらゆる疾患とあらゆる病を治され」ました。これを行なっていた際,イエスは群衆を見て「哀れみをお感じに」なりました。「彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたから」です。―マタイ 9:35,36。

      2 イエスは人々をどのように助けましたか。

      2 しかしイエスは,群衆に対して哀れみを感じただけで事を終わりとされたわけではありません。「収穫の主人」であるエホバ神に祈り求めるよう弟子たちに教えた後,人々を助けるためにその弟子たちを遣わされました。(マタイ 9:38; 10:1)次いでイエスは,真の安らぎと慰めを見つける確かな方法について,自ら人々に話をされました。心温まる次の招きの言葉を差し伸べられたのです。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう」― マタイ 11:28,29。

      3 イエスの招きの言葉が今日でも同じように人を引き付けるのはどうしてですか。

      3 わたしたちは今日,重荷にあえぎ,押しひしがれている人の多い時代に生きています。(ローマ 8:22。テモテ第二 3:1)ある人たちの場合,ただ暮らしを立てることのために自分の時間と体力を使い果たし,家族や友人や他の事柄のためにはほとんど何も残らないほどになっています。重い病気,苦痛,抑うつ,その他の身体また感情的問題にあえいでいる人も多くいます。苦悩の余り,快楽の追求に,飲食に,さらには麻薬にひたって安どを得ようとする人もいます。もとよりこれは悪循環を来たし,いっそうの問題と苦悩をもたらすにすぎません。(ローマ 8:6)今日,愛のこもったイエスの招きの言葉に,当時と同じように人を引き付ける響きがあることは明らかです。

      4 イエスの愛ある招きから益を受けるためにどんな点について考えてみるべきですか。

      4 それにしても,イエスの時代の人々は何に従属させられて,『痛めつけられ,ほうり出された』ように見え,イエスが哀れみを感じるほどになっていたのでしょうか。人々が担い,負わなければならなかった重荷とは何でしたか。イエスの招きの言葉はどのように人々の助けとなったのでしょうか。これらの問いの答えは,疲れた者たちへのイエスの愛ある招きの言葉から益を受ける面で,わたしたちに大いに役立つはずです。

      「労苦し,荷を負っている」人々

      5 イエスの宣教中の出来事として使徒マタイがこの点を伝えているのはなぜもっともなことと言えますか。

      5 イエスの宣教中の出来事としてマタイだけが上記の点を伝えているのは興味深い事柄です。レビという名でも知られていたマタイは収税人でしたから,人々が負わされていた特別の重荷の一つについてよく知っていました。(マタイ 9:9。マルコ 2:14)「イエス時代の日常生活」という本はこう述べています。「[ユダヤ人]が金銭その他の対応物で支払わなければならなかった税は非常に重かったが,二重の税制が並び行なわれていたという点でそれはとりわけ重いものであった。市民としての一般の税と宗教税で,どちらも軽くはなかった」。

      6 (イ)イエスの時代にはどのような税制が施行されていましたか。(ロ)収税人の評判が悪かったのはなぜですか。(ハ)パウロは仲間のクリスチャンにどんなことを銘記させる必要を感じましたか。

      6 このすべてをことのほか重苦しいものにしていたのは,当時の徴税制度でした。ローマの当局者は,各属州における徴税の権利を最高額の入札者に委託しました。それら委託された人々は地域ごとに人を雇って,徴税の実務を監督させました。このピラミッド型の機構の中のすべての者が,それぞれ自分の手数料や取り分を上乗せして徴収してよいものと考えていました。例えばルカは,「ザアカイという名の人がいた。彼は収税人の長であり,富んだ人であった」と記しています。(ルカ 19:2)「収税人の長」であったザアカイやその監督下にいた人々は明らかに,人々の悲哀をしりめに自らの財を成していました。そのような制度から来る悪習や腐敗のために,人々は収税人を罪人や娼婦と同類にみなしていましたが,多くの場合それがまさに当てはまっていたのでしょう。(マタイ 9:10; 21:31,32。マルコ 2:15。ルカ 7:34)人々はほとんど耐え難い重荷と感じていましたから,使徒パウロが,ローマのくびきのもとでいらだつことなく,「すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい。税を要求する者には税を,貢ぎを要求する者には貢ぎを」と,仲間のクリスチャンに銘記させる必要を感じたのもうなずけないことではありません。―ローマ 13:7,前半。ルカ 23:2と比較してください。

      7 ローマの刑法はどのように人々の重荷を増し加えていましたか。

      7 パウロは,「恐れを要求する者にはしかるべき恐れを,誉れを要求する者にはしかるべき誉れを」示すべきことをもクリスチャンに銘記させました。(ローマ 13:7,後半)ローマ人は残酷で厳しい刑罰の規定を実施していたことで知られていました。人々を服従させておくために,殴打,むち打ち,過酷な投獄,さらには死刑などがしばしば科せられました。(ルカ 23:32,33。使徒 22:24,25)ユダヤ人の指導者たちさえ,適当とみなせばそのような処罰を科する権限を与えられていました。(マタイ 10:17。使徒 5:40)そのような体制は,そのもとに住むだれにとっても,全くの圧制ではないにしても,非常に抑圧的なものであったことでしょう。

      8 宗教指導者はどのように人々に重荷を負わせていましたか。

      8 しかし,ローマの税や法律よりひどかったのは,当時の宗教指導者によって一般の人々に課せられた重荷でした。事実,人々が「労苦し,荷を負っている」とご覧になった時,イエスがいちばん気にかけておられたのはこの点であったようです。イエスは,宗教指導者たちが,虐げを受けた人々に希望や慰めを与えるどころか,『重い荷をくくって人の肩に載せ,自分ではそれを指で動かそうともしない』と言われました。(マタイ 23:4。ルカ 11:46)だれでも福音書を読めば,宗教指導者,とりわけ書士やパリサイ人たちが,ごう慢,無情,かつ偽善的な集団としてはっきり描かれていることに気づくはずです。彼らは一般の人々を無学で汚れた者たちとして見下し,自分たちの中にいる異国の人々を侮べつしていました。彼らの態度についてある注釈はこう述べています。「当今,馬に過重な荷を負わせる者は法律によって罰せられる。何ら宗教的訓練を受けていない『地の民』に613ものおきてを負わせた人間についてはどうであろうか。それを助けるために自分では何もせず,ただ彼らを不敬虔としてとがめたのである」。言うまでもなく,実際に重荷となっていたのは,モーセの律法ではなく,人々が負わされた膨大な量の伝承でした。

      苦難の真の原因

      9 イエスの時代の人々とソロモンの時代の人々についてその状態をどのように比較できますか。

      9 人々に課せられた物質的な負担が重く,そのため貧困が広い範囲に及んだ場合もありました。イスラエル人はモーセの律法によって定められた,無理のない額の税を払うことになっていました。その後ソロモンの治世に,民は神殿その他の建造物の構築など,非常に費用のかさむ幾つもの国家的プロジェクトを支えました。(列王第一 7:1-8; 9:17-19)それでも聖書は,その時の民が「食べたり飲んだりして,歓んでいた。そして,ユダとイスラエルはソロモンの時代中ずっと,ダンからベエル・シェバに至るまで,皆おのおの自分のぶどうの木の下や,いちじくの木の下で安らかに住んでいた」と記しています。(列王第一 4:20,25)どこにこの違いがありましたか。

      10 イスラエルが1世紀までに陥っていた状況にはどんな理由がありましたか。

      10 国民として真の崇拝のために確固としている限り,人々はエホバの恵みを享受し,国家的歳出が大きかろうとも安全と繁栄をもって祝福されました。しかしエホバは,「まさしく翻ってわたしに従うのをやめ,わたしがあなた方の前に置いたおきてと法令とを守ら」なければ,逆の重大な状況になる,とその民に警告されました。実際のところ,「イスラエルは確かにすべての民の中で語りぐさとなり,嘲弄されるものとな(る)」ことでしょう。(列王第一 9:6,7)その後の事態はまさしくそのとおりになりました。イスラエルは異国の支配下に置かれ,かつては栄光に輝いたその王国がただの植民地の地位に落ちぶれました。霊的な務めをなおざりにしたために何と大きな代償を払う結果になったのでしょう。

      11 人々が「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されてい(る)」とイエスが感じられたのはなぜですか。

      11 このすべては,イエスが自分の見た人々について,『痛めつけられ,ほうり出されている』と感じられた理由を理解するのに役立ちます。それらはイスラエル人であり,概して言えば,神の律法に沿って生きようと努め,また受け入れられる形で崇拝を実践しようとしていた,エホバの民でした。にもかかわらず,種々の政治的・商業的勢力からだけでなく,自分たちの中の背教した宗教指導者たちからさえ搾取され,踏みにじられていました。彼らが「羊飼いのいない羊のよう」であったのは,それを顧みる者もその訴えを弁護してくれる者もいなかったからです。非常に過酷な現実と取り組んでゆくために助けが必要でした。イエスの,愛のこもった優しい招きの言葉はまさに時宜を得たものでした。

      今日におけるイエスの招き

      12 今日の神の僕や他の誠実な人々もどんな圧力を感じることがありますか。

      12 今日の状況も多くの点でこれと似ています。正直な生き方をしようと努める誠実な人々は,腐敗した事物の体制から来る圧力と要求を耐え難いものと感じています。エホバに献身した人たちといえどもこの点で免疫になっているわけではありません。報告されるところによると,エホバの僕たちの中にも,果たそうとは願いながらも,すべての責任を果たしてゆくことに次第に困難を覚えている人たちもいます。そのような人たちは,重荷を背負い,疲れてくたくたになっていると感じています。一切のことをただほうり出してどこかへ行き,ゆっくり自分を立て直せたらどんなにかほっとするだろう,と感じる人さえいます。あなたもそのように感じたことがあるでしょうか。近しい方でそのような状況にある人がいると思われますか。そうです,イエスの心温まる招きの言葉は,今日のわたしたちにも大きな意味があるのです。

      13 イエスが安らぎとさわやかさを得させてくださることをどうして確信できますか。

      13 愛のこもった招きの言葉を述べる前に,イエスはこう言われました。「すべてのものは父によってわたしに渡されており,父をほかにすればだれも子を十分には知らず,また,子と子がすすんで啓示する者をほかにすれば,だれも父を十分には知りません」。(マタイ 11:27)イエスとみ父はこのように親密な関係にありますから,イエスの招きを受け入れてその弟子になることによって,わたしたちは「すべての慰めの神」であられるエホバとの緊密で個人的な関係に入ることを保証されてもいるのです。(コリント第二 1:3。ヨハネ 14:6と比較してください。)さらに,『すべてのものはイエスに渡されている』のですから,イエス・キリストだけがわたしたちの重荷を軽くする権限また権能をお持ちです。どのような重荷ですか。腐敗した政治・商業・宗教上の体制から負わせられた重荷,またわたしたちの受け継いだ罪と不完全さのゆえに負う重荷です。根本的に見て,まさに励みとなり,力づけとなる考えではありませんか。

      14 イエスはどんな労苦からの安らぎを与えることができましたか。

      14 その後にイエスはこう言われました。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう」。(マタイ 11:28)もとよりイエスは,骨折って働かなくてもよいと言っておられたのではありません。イエスはしばしば弟子たちに,手元の仕事に精力的に励むようにと諭したからです。(ルカ 13:24)とはいえ,『労苦する』(「労働する」,王国行間訳)とは,人を疲労させる長時間の労働で,しばしば何ら価値ある結果を伴わないようなものを暗示します。そして,「荷を負っている」という言い回しは,通常の量を超えた重荷を負っているという概念を伝えています。ここでの相違は,隠された宝を求めて土を掘る人と,強制労働収容所で穴を掘らされている人との違いになぞらえることができるでしょう。どちらの場合も似たような骨折り仕事です。しかし一方は,意欲的に取りかかる仕事であり,他方は,単調で果てしない労働です。違いは,そこに良い目的があるかないかです。

      15 (イ)自分の肩に重い荷を担っていると感じる場合,どんな点を自問してみるべきですか。(ロ)人の負う重荷の元に関してどんなことが言えますか。

      15 自分は「労苦し,荷を負っている」,また自分の時間と体力に対してともかく要求が多すぎる,と感じることがありますか。担っておられる重荷は重すぎるものに思えますか。もしそうであるとすれば,『自分は何のために労しているのだろうか。どんな荷を担っているのだろうか』と自問してみるのが良いかもしれません。この点に関してひとりの聖書注釈者は80年以上も前にこう述べました。「人生の重荷について考えてみると,それは二つの種類に分けられる。それを,自ら課したもの,また避け得ないもの,と呼ぶことができるだろう。つまり,自分の行為に由来するものと,そうでないものとである」。そして,その注釈者はさらにこう述べています。「厳密に自己吟味してみると,自分の負う重荷すべての中で自ら課したものの大きさに驚かされる人が多いであろう」。

      16 人は無思慮にもどんな重荷を自らに課していることがありますか。

      16 人が自らに課する重荷としてはどんなものがあるでしょうか。今日わたしたちは,物質主義的で,快楽を愛する,不道徳な世界に生きています。(テモテ第二 3:1-5)献身したクリスチャンとしても,世の流行や生活様式に合わせるよう終始圧力を受けています。使徒ヨハネは,「肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと」について記しました。(ヨハネ第一 2:16)これらには容易にわたしたちにも影響し得る力があります。知られている点として,ある人々は,世の楽しみ事をより多く求め,あるいは一定の生活様式を維持するために多くの借金をすることを少しもいといません。そして,その借金返済の資金を作るために,たいへんな量の時間を仕事に費やしたり,幾つもの仕事に就いたりしなければならなくなっています。

      17 どんな状況だと荷を負うのがいっそう難しくなることがありますか。どうしたらこれを解決できますか。

      17 他の人が持ち,あるいは行なっている事は,自分も持ったり行なったりして差し支えないと考えることがあるかもしれませんが,それが不必要な荷を自分に加えることにならないかを吟味してみることが大切です。(コリント第一 10:23)人が担える分には限りがありますから,新たな荷を引き受けるには何かを下ろさなければなりません。まず下ろされてしまうのは,往々にして聖書の個人研究,集会への出席,野外奉仕など,わたしたちの霊的福祉に欠かせないものです。結果として霊的な強さは失われ,荷を担ってゆくのがいっそう難しくなります。イエス・キリストはそのような危険を警告して,次のように言われました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい」。(ルカ 21:34,35。ヘブライ 12:1)荷を負いすぎて疲れきっているなら,わなに気づいてそれを避けるのが難しいでしょう。

      安らぎとさわやかさ

      18 イエスは自分のもとに来る人に何を差し伸べましたか。

      18 ですからイエスは愛ある解決策を差し伸べて,「わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう」と述べられました。(マタイ 11:28)ここの『さわやかにする』,また29節の「さわやかなもの」という語はギリシャ語の訳で,それは,セプトゥアギンタ訳が,『安息』または『安息日を守る』という意味のヘブライ語の言葉の訳に用いている語です。(出エジプト記 16:23)こうしてイエスは,ご自分のもとに来る人にもはや何の仕事もないと約束されたのではなく,その人々をさわやかにして,神の目的にしたがって果たさなければならない仕事のためにふさわしく整えられた者にすることを約束されたのです。

      19 人はどのようにして『イエスのところに来る』のですか。

      19 それにしても,人はどのようにして『イエスのところに来る』のでしょうか。弟子たちに対してイエスはこう言われました。「だれでもわたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい」。(マタイ 16:24)ですから,イエスのもとに来るとは,自分の意志を神の意志,またキリストの意志に従わせ,一定の責任の荷を受け入れて,絶えずそのようにしてゆくことを意味しています。このすべては余りに大きな要求ですか。払う代価が大きすぎますか。疲れた者たちに愛のこもった招きの言葉を語られた後,イエスがどのように述べられたかを考えましょう。

  • 「わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽い」
    ものみの塔 1995 | 8月15日
    • 「わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽い」

      「わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい」― マタイ 11:29。

      1,2 (イ)さわやかさをもたらすものとして生活の中でどんな事を経験しておられますか。(ロ)イエスの約束されたさわやかさを得るために人は何をしなければなりませんか。

      蒸し暑かった一日の終わりにシャワーを浴びたときのすがすがしさ,あるいは長くてきつい旅路の後の一晩の熟睡 ― ああ,何とさわやかなのでしょう。重たい荷を肩から下ろした時,また罪や違犯を許されたような場合にも同じように感じることでしょう。(箴言 25:25。使徒 3:19)人を晴れやかな気持ちにするそのような経験から来るさわやかさは,元気を取り戻させ,さらに前進して行く活力を得させてくれます。

      2 荷を負って疲れていると感じる人は皆イエスのところに来ることができます。イエスはその人たちにまさにそのようなもの,つまりさわやかさを約束されたからです。しかし,本当に見つけたいそのようなさわやかさを得るために,各自が喜んで行なわなければならないことがあります。「わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。……あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう」とイエスは言われました。(マタイ 11:29)ここで言うくびきとは何でしょうか。それはどのようにして人にさわやかさを与えますか。

      心地よいくびき

      3 (イ)聖書時代にはどんなくびきが用いられていましたか。(ロ)くびきという言葉にはどんな比喩的な意味が結びついていますか。

      3 イエスおよびその話を聞いていた人々は農耕社会に住んでいましたから,くびきというものについてよく知っていました。基本的に言って,くびきとは長い木の棒で,下に来る側に二つのくぼみがあり,一対の荷役動物,大抵は牛の首に上からはめてその二頭をつなぎ,すき,車,その他の荷を引かせるためのものでした。(サムエル第一 6:7)人間に使うための天びん式のくびきもありました。それは単純な棒かさおで人の肩に載せ,両方の端に荷を取り付けるようになっていました。労働者はそれを使って重い荷物を運ぶことができました。(エレミヤ 27:2; 28:10,13)くびきは,重荷や労働との連想から,聖書の中ではしばしば,支配や抑制の比喩として用いられています。―申命記 28:48。列王第一 12:4。使徒 15:10。

      4 そのもとに来る人にイエスが差し伸べるくびきは何を表わしていますか。

      4 では,さわやかさを求めてそのもとに来る人たちが担うようにとイエスが勧めておられるくびきとは何ですか。「わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい」と言われたのを思い出してください。(マタイ 11:29)学ぶ人とはつまり弟子のことです。ですから,イエスのくびきを負うとは,イエスの弟子になることにほかなりません。(フィリピ 4:3)しかしそのためには,イエスの教えを単に精神的に認める以上のことが求められます。その教えに調和した行動が必要です。つまり,イエスが行なった業を行ない,イエスと同じ生き方をしなければなりません。(コリント第一 11:1。ペテロ第一 2:21)さらに,イエスの権威に,またイエスが権威をゆだねた人たちに進んで服することも求められます。(エフェソス 5:21。ヘブライ 13:17)つまりそれは,献身してバプテスマを受けたクリスチャンとなって,その献身に伴うすべての特権と責任を受け入れることです。それが,さわやかさと慰めを求めてそのもとに来るすべての人にイエスが差し伸べるくびきです。あなたは進んでそれを受け入れますか。―ヨハネ 8:31,32。

      5 イエスのくびきを負うことが過酷な経験にならないのはなぜですか。

      5 くびきを負ってさわやかさを見つけるというのは,言葉の上での矛盾ではないでしょうか。実際にはそうではありません。「わたしのくびきは心地よ(い)」とイエスは言っておられるからです。この語には,穏やかで,気持ちよく,快いといった意味合いがあります。(マタイ 11:30。ルカ 5:39。ローマ 2:4。ペテロ第一 2:3)イエスは木工が専門でしたから,すきやくびきをこしらえたことがあるはずであり,くびきがぴったり合って,できるだけ快適に最大の仕事ができるような形にする方法を知っておられたことでしょう。くびきには布や革で内側に当て物をされたかもしれません。首をひどく擦ったりすりむいたりしないようにするため,多くのくびきはそのようになっています。イエスが差し伸べておられる比喩的なくびきも,それと同じように「心地よく」作られています。イエスの弟子になることには,一定の義務や責任が伴ってはいますが,それは過酷であったり抑圧的であったりすることはなく,人にさわやかさをもたらすのです。イエスの天の父エホバのおきても決して重荷となるようなものではありません。―申命記 30:11。ヨハネ第一 5:3。

      6 『わたしのくびきを負いなさい』と言われた時,イエスはどんなことを意味しておられたのでしょうか。

      6 イエスのくびきを「心地よく」,つまり負いやすいものにしているもう一つのことがあります。『わたしのくびきを負いなさい』と言われた際にイエスが意味しておられたのは,二つのことのうちのいずれかと考えられます。二連式のくびき,つまり二頭の荷役動物をつないで荷を引かせるタイプのものを意識しておられたなら,ご自分が就いておられるその同じくびきに共に就くようにと誘っておられたことになります。何という祝福ではありませんか ― イエスが傍らに来てわたしたちの荷を一緒に引いてくださるのです。一方,労役に携わる人が普通に使うようなくびき棒つまり天びん棒を念頭にしておられたのであれば,何にせよわたしたちが負わなければならない荷を担いやすく,あるいは扱いやすくする手段を差し伸べておられたことになります。いずれにしても,イエスのくびきは真のさわやかさの源となります。「わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです」と保証しておられるからです。

      7,8 圧迫を感じる時どんな間違った考え方をする人がいますか。

      7 では,自分の負う荷である生活上の問題が次第に堪えにくいものになって,もはや圧迫が耐え切れないところまで来たと感じるとき,どうしたらよいでしょうか。ある人は,実際には日常生活の煩いが重くのしかかっているのに,間違って,イエス・キリストの弟子であるくびきは余りに厳しく,余りに要求が多すぎると感じるかもしれません。そのような状況のときに,クリスチャンの集会に出席しなくなったり,宣教への参加をやめてしまったりする人もいます。それによって少しの安らぎを得られると考えるのかもしれません。しかし,それは大きな間違いです。

      8 わたしたちは,イエスの差し伸べておられるくびきが『心地よい』ものであることをよく理解しています。しかしそれを正しく装着していないのであれば,すれる箇所が痛くなることもあり得ます。そのような場合には,くびきが肩に当たる部分を点検してみるべきです。何かの理由でくびきに手入れが必要であったり,うまくはまっていなかったりしているのであれば,それを使う人には一層の努力が要るだけでなく,そのために多少の痛みもあることでしょう。言い換えれば,神権的な活動が重荷のように見えてくるなら,自分がそれを正しく扱っているかどうかを見直してみなければなりません。自分の行なっている事柄をどんな動機でしているのでしょうか。集会に行くとき十分な準備ができていますか。野外宣教に携わるとき,身体的また精神的に用意が整っていますか。会衆内の他の人たちと親しくて健全な関係を持っていますか。そして何よりも,エホバ神およびみ子イエス・キリストとの個人的な関係はどうですか。

      9 クリスチャンのくびきが決して耐え難い重荷にならないのはなぜですか。

      9 イエスの差し伸べておられるくびきを心から受け入れて,それを正しく担うことを学ぶなら,それが耐え難い重荷に感じられることはないはずです。事実,そのありさまを思い描くことができれば,つまり,自分のくびきにイエスも共に就いておられるのを見ることができれば,重荷の大方の部分を実際にはだれが担っているかはすぐに分かるはずです。幼児がベビーカーの握りを押さえ,自分で進ませていると思っても,言うまでもなく実際には親がそれを押している光景とそれほど変わりません。エホバ神は愛ある父親のようにわたしたちの限界や弱いところをよく知っておられ,イエス・キリストを通してわたしたちの必要に答えてくださいます。「神は,キリスト・イエスにより,あなた方の必要すべてを,その栄光の富に応じて十分に満たしてくださる」とパウロは述べています。―フィリピ 4:19。イザヤ 65:24と比較してください。

      10 弟子を作る業に真剣に取り組んでいるある人は何を経験してきましたか。

      10 多くの献身したクリスチャンは,個人的経験を通してこの点を認識するようになりました。例えばジェニーがいます。彼女は,毎月補助開拓者として奉仕し,しかも緊張を要する世俗の仕事に全時間従事するのがかなりのストレスになることを知っています。しかし彼女は,そのようにして開拓者として働くことが実際には平衡を保つのに役だっていると感じています。聖書の真理を学ぶように人々を助け,その人たちが神の是認を受けるために生き方を変えるのを見ることが,彼女の忙しい生活の中で最大の喜びのもととなっているのです。「エホバの祝福,それが人を富ませるのであり,神はそれに痛みを加えられない」という箴言の言葉に,彼女は心から同意しています。―箴言 10:22。

      軽い荷

      11,12 「わたしの荷は軽い」と言われたイエスはどんなことを意味しておられましたか。

      11 イエスは『心地よい』くびきを約束しておられるだけでなく,「わたしの荷は軽い」とも保証しておられます。くびきが『心地よい』だけで仕事はすでに楽なはずですが,そのうえ荷が軽いのであれば,その仕事は本当に楽しいものなのです。しかしそのように述べた際,イエスは何を念頭に置いておられたのでしょうか。

      12 農夫は,家畜にさせる仕事を変えようと思う時,例えば畑をすき返すことから車を引かせる仕事に変えようとする時,どのようにするでしょうか。まずすきを外し,それから車をつなぐことでしょう。すきと車を共にその動物につなぐのは愚かなことです。同じようにイエスも,人がすでに負っている荷の上にご自分の荷を載せるようにと言われたのではありません。イエスは弟子たちに,「どんな家僕も二人の主人に対して奴隷となることはできません」と言われました。(ルカ 16:13)こうしてイエスは,選択することを促しておられたのです。自分の負う重い荷をそのまま担ってゆくほうがよいですか。それとも,それを下ろして,イエスの差し伸べているものを受け入れるでしょうか。イエスは,「わたしの荷は軽い」という愛のこもった言葉で励みを与えてくださいました。

      13 イエスの時代の人々はどんな荷を担い,そのためにどんな結果になっていましたか。

      13 イエスの時代,人々は抑圧的なローマの支配者によって,さらには形式主義的で偽善的な宗教指導者から課せられた重い荷のもとであえいでいました。(マタイ 23:23)ローマからの荷を打ち払おうとしたある人々は,自分の手で事態を変えようとしました。そうした人々は政治的な闘争にかかわり,結局自らの破滅を招きました。(使徒 5:36,37)物質の追求に力を入れて自分の境遇を何とかよくしようと思い定めていた人もいました。(マタイ 19:21,22。ルカ 14:18-20)イエスの弟子となって安らぎを見つけるようにとの招きが差し伸べられた時,だれもがそれを受け入れる備えをしていた訳ではありません。そうした人々は,自分の担う荷が重たかったのに,それを下ろしてイエスからの荷を負うことをためらいました。(ルカ 9:59-62)何と嘆かわしい誤りでしょう。

      14 生活上の思い煩いや物質的な欲望がどのようにわたしたちを押しひしぐことがありますか。

      14 用心しなければ,今日のわたしたちも同じ誤りを犯しかねません。イエスの弟子になることによって,わたしたちは世の人々と同じ目標や価値観を追求することから解き放されました。日ごとの必要物を手に入れるために骨折って働かなければならないことは同じであるとしても,それを生活の中心に据えることはしません。とはいえ,生活上の思い煩いや物質的に快適なものへの誘いがわたしたちを強くとらえることがあり得ます。それを許してしまうと,喜んで受け入れた真理がそのような欲望によって締め出されてしまうことにもなりかねません。(マタイ 13:22)そのような欲望を満たすことに余りにとらわれてしまうと,クリスチャンとしての自分の責任が,疲れを覚えさせるだけの義務となって,ともかく片をつけて早く逃れたいといった気持ちにならせます。そのような精神で神への奉仕を行なうとしたら,それからもたらされるはずのさわやかさを得ることなど全く期待できません。

      15 物質上の欲望についてイエスはどんな戒めを与えましたか。

      15 イエスは,満ち足りた生活は,自分の願望をすべて満たそうとすることではなく,生きる上でより重要な事柄をしっかり見極めることから来る,という点を指摘しました。「何を食べまた何を飲むのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい。魂は食物より,体は衣服より大切ではありませんか」と諭し,次いで天の鳥に注意を促しつつこう言われました。「[鳥は]種をまいたり,刈り取ったり,倉に集め入れたりはしません。それでも,あなた方の天の父はこれを養っておられます」。それから,野のゆりに言及してこう言われました。「[ゆりは]労したり,紡いだりはしません。しかしあなた方に言いますが,栄光を極めたソロモンでさえ,これらの一つほどにも装ってはいませんでした」。―マタイ 6:25-29。

      16 物質的な追求のもたらす結果について経験は何を示していますか。

      16 これら簡明な実物教育から何かを学ぶことができますか。物質面での生活の境遇をよくしようと躍起になればなるほど,世俗的追求にからまり,それだけ自分の肩にのしかかる荷が重くなるというのはよくある経験です。この世界には,物質上の成功のために,家庭を破壊し,結婚関係を破たんさせ,健康を損ない,そのうえ多くの犠牲を払った事業家が非常に多くいます。(ルカ 9:25。テモテ第一 6:9,10)ノーベル賞を受けたアルバート・アインシュタインはかつてこう語りました。「財産,表向きの成功,有名になること,ぜいたく ― 私にとってこれらは常にくだらないものだった。私は簡素で気どらない生き方こそ万人にとって最善であると信ずる」。これは,「自ら足りて敬虔な専心を守ること,これは大きな利得の手段です」と述べた,使徒パウロの簡明な諭しの言葉の言い換えにほかなりません。―テモテ第一 6:6。

      17 聖書はどんな生き方を勧めていますか。

      17 見過ごしてはならない大切な要素があります。「簡素で気どらない生き方」に多くの益のあることは確かですが,それそのものが満ち足りた気持ちをもたらす訳ではありません。置かれた状況のために簡素な生き方を余儀なくされている人は多くいますが,その人々がそのために満ち足りて幸福であるという意味では決してありません。聖書は,物質上の楽しみを放棄して,隠とんの生活を送るようにと促している訳ではありません。ここでの要点は,敬虔な専心を保つことであって,単に自ら足りるようにすることではありません。「大きな利得の手段」を得るというのは,これら二つを合わせ持った場合だけです。どんな利得ですか。同じ手紙の中で,パウロはさらに,「不確かな富にではなく……神に希望を託す」人たちが,「自分のため,将来に対するりっぱな土台を安全に蓄え,こうして真の命をしっかりとらえる」ようになることを指摘しています。―テモテ第一 6:17-19。

      18 (イ)どうすることによって人は真のさわやかさを得られますか。(ロ)自分の経なければならない変化をどのように見るべきですか。

      18 自分が個人的に担っているのかもしれない重い荷を下ろして,イエスの差し伸べておられる軽い荷を負うことを学び取るなら,さわやかさを持つことができます。自分の生活を組織し直して,王国奉仕にさらに多くあずかれるようにした多くの人々は,幸福で満ち足りた生き方への道を見つけています。もちろん,そのような歩みのためには信仰と勇気が必要であり,その過程には障害物もあることでしょう。しかし聖書は,「風を見守っている者は種をまかない。雲を見つめている者は刈り取らない」と述べています。(伝道の書 11:4)実行しようとひとたび決意するならそれほどには難しくない事柄が多いのです。いちばん難しいのは,決意することのようです。頭の中の考えと取り組み,それに抵抗するだけで自分をすり減らしてしまうこともあるのです。思いを引き締めて,難しく見えても受け入れるなら,それがいかに祝福となるのかを知って驚くことにもなるでしょう。詩編作者は,「あなた方はエホバが善良であることを味わい知れ」と促しています。―詩編 34:8。ペテロ第一 1:13。

      『あなた方の魂にとってさわやかなもの』

      19 (イ)世界の状態が悪化してゆくにつれてどんなことを予期すべきですか。(ロ)イエスのくびきのもとにあってわたしたちにはどんな保証がありますか。

      19 使徒パウロは1世紀の弟子たちを励まして,「わたしたちは多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」と述べました。(使徒 14:22)これは今日でも真実です。世界の状態が悪化してゆくにつれ,義と敬虔な専心の生き方をしようと思い定めているすべての人に臨む圧力はいっそう増大することでしょう。(テモテ第二 3:12。啓示 13:16,17)それでもわたしたちは,次のように述べたパウロと同じように感じます。「わたしたちは,あらゆる面で圧迫されながらも,動きが取れないほど締めつけられているわけではなく,困惑させられながらも,逃れ道が全くないわけではなく,迫害されながらも,見捨てられているわけではなく,倒されながらも,滅ぼされているわけではありません」。これは,普通を超えた力をイエス・キリストが与えてくださることを頼りにすることができるからです。(コリント第二 4:7-9)弟子としてのくびきを心から受け入れるなら,「あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう」というイエスの約束の成就にあずかれるのです。―マタイ 11:29。

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