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キリスト教世界はどのようにこの世の一部となったかものみの塔 1993 | 7月1日
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国教
コンスタンティヌスの後,皇帝ユリアヌス(西暦361-363年)は,キリスト教に反対して異教を復興することを試みました。しかしユリアヌスはそれに失敗します。約20年後,皇帝テオドシウス1世は異教を禁止し,三位一体の“キリスト教”をローマ帝国の国教に定めました。フランスの歴史家アンリ・マルーは,巧みにまた正確にこう書いています。「テオドシウスの治世の終わりまでにキリスト教は,もっと正確に言えば,正統的カトリック教は,全ローマ世界の正式な宗教となった」。
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キリスト教世界はどのようにこの世の一部となったかものみの塔 1993 | 7月1日
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「ローマの遺産」という本の中でアーネスト・バーカー教授はこう述べています。「[コンスタンティヌスの勝利]によって直ちにキリスト教が国教となったわけではなかった。コンスタンティヌスは,キリスト教を帝国の公に行なわれる崇拝の一つと認めたことで満足していた。ローマではその後70年間,古い異教の儀式が公式に行なわれていた」。
それでこの時点で“キリスト教”はローマ帝国の合法的な宗教となりました。では,完全な意味で正式な国教となったのはいつでしょうか。新カトリック百科事典にはこう述べられています。「[コンスタンティヌスの]方針は,ユリアヌス[西暦361-363年]の時を除き,その後継者に引き継がれた。ユリアヌスのキリスト教に対する迫害は,彼の死によって突然に終わりを迎えた。結局,4世紀の最後の25年間に,テオドシウス大帝[西暦379-395年]がキリスト教を帝国の正式な宗教と定め,公に行なわれていた異教の崇拝を禁止した」。
聖書学者であり歴史家でもあるF・J・フォークス・ジャクソンは,このことを確証し,この新しい国教の実体を明らかにして,こう書いています。「コンスタンティヌスのもとでキリスト教とローマ帝国は手を結んだ。テオドシウスのもとでは一つになった。……その時以来,カトリックという肩書きは,父と子と聖霊に同じように崇敬を示す人だけのものとなった。この皇帝の宗教政策はすべてこの目的に向けられていた。その結果,カトリックがローマ人の唯一の合法的な宗教となった」。
ジャン・レミー・パランクはこう書いています。「テオドシウスは異教と闘う一方で,正統[カトリック]教会を支持する態度を明らかにするようになった。西暦380年の勅令で,すべての臣民に教皇ダマススと,アレクサンドリアの三位一体論者の司教の信仰を奉じるよう命じ,反対者たちの崇拝の自由を奪った。コンスタンティノープル公会議(381年)でも異端はすべて再び断罪され,皇帝はすべての司教に異端を支持させない措置を講じた。ニケアの[三位一体の]キリスト教が完全に国教となったのである。……教会は国家と堅く結びつき,国家からの全面的な支援を受けていた」。
ですから,使徒たちの時代の純粋なキリスト教がローマ帝国の国教となったのではありません。皇帝テオドシウス1世によって押しつけられ,ローマ・カトリック教会が実践していた4世紀の三位一体のカトリック主義は,現在の場合と同様に当時も実際にこの世の一部だったのです。
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