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スイスとリヒテンシュタイン1987 エホバの証人の年鑑
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聖書の真理がスイスに伝わる
1891年に,ものみの塔協会の初代会長チャールズ・T・ラッセルはヨーロッパと中東の幾つかの国を訪れる旅行を行ないました。いろいろな土地に立ち寄りましたが,特にスイスのベルンに滞在しました。同会長はその旅行の目的を説明して,「好奇心をそそる古代の遺跡や城などには全く興味がありません」と語り,『人々の生活様式や思考の習慣および性向を判断するために人々に会いたい』と述べました。後日,「シオンのものみの塔」誌の1891年11月号に掲載された報告の中で,ラッセルは,スイスのことを「収穫を待つばかりになっている」畑であると述べています。
そのような訳で,ラッセルはアドルフ・ウェーバーにスイスの「主のぶどう園に」行くよう提案しました。ウェーバー兄弟はスイス国民でしたが,米国で真理を知るようになり,ラッセル兄弟のところの植木屋としてパートの仕事をしていました。
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スイスとリヒテンシュタイン1987 エホバの証人の年鑑
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会長が戸口に
ウェーバー兄弟を通して真理を受け入れた初期の人たちの一人に,バーゼルのアンナ・バッハマン夫人がいます。この人は福音主義改革派教会に定期的に通っていましたが,ウェーバー兄弟が人類に対する神の目的や聖書の基本的な真理を伝えると,聖書を調べてみようという気持ちになりました。「世々に渉る神の経綸」と題する本を求め,援助してくれる人が周囲にいなかったため自分独りでその本を研究しました。1年後,ウェーバー兄弟は再びやって来て,持ち前の穏やかな物腰で夫人の質問に答え,神の言葉の研究を続けるよう励ましました。
次いで1903年の5月のこと,戸口に二人の訪問者が現われ,バッハマン夫人はびっくりしました。一人は近くのミュールハウゼン(当時はドイツの都市であったが,現在はフランス領)から来た聖書研究者で,他方はほかならぬ,ものみの塔協会の会長であるラッセル兄弟でした。その聖書研究者の通訳で交わされた会話はたいへん築き上げるもので,バッハマン夫人が進歩するのに役立ちました。
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スイスとリヒテンシュタイン1987 エホバの証人の年鑑
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ラッセル兄弟の築き上げる訪問
業が始まった当初から「全国大会」は重要な役割を果たしました。その一つは1910年にチューリヒで開かれ,約100名の出席者がありました。出席者の数は年々増加し,ラッセル兄弟の姿もたびたび見られました。
当時のことを考えると,同兄弟の進取の気性に感銘を受けずにはいられません。20世紀初頭における旅行は今日ほど快適で速くはありませんでした。にもかかわらずラッセル兄弟は,ヨーロッパの兄弟たちを強め,業を促進するためにほとんど毎年大洋を渡る努力を払いました。しかも,その日程は多忙を極めるものだったのです。
1912年にラッセル兄弟はジュネーブ,バーゼル,チューリヒおよびザンクト・ガレンを訪れました。「墓のかなたへ」と題する公開講演は大きなポスターで宣伝されましたが,そのポスターには,1本の指が僧職者の行列を指しているところが描かれ,『災いなるかな,……なんぢらは知識の鍵を取り去りしなり』という言葉が書かれていました。(ルカ 11:52,日本聖書協会 文語訳)その主題は人々の目をみはらせ,大評判になりました。地獄の火が存在しない証拠のこと,死者は無意識であること,また死者には生き返る希望があることなどの話で町中もちきりになったものです。(伝道の書 9:10。使徒 2:22-31; 24:15)うわさは野火のようにぱっと広がりました。借りた会場は適当な広さだとはとても思えませんでした。満員のため大勢の人に帰ってもらわなければならないことも珍しくありませんでした。死者の状態に関する真理がそのように宣明されることにより,伝統的な宗教の柱が抜き取られていきました。
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