-
ロシア2008 エホバの証人の年鑑
-
-
『エホバとやらはお前をここから出せないだろう』
ピョートル・クリボクルスキーは,1945年の夏を思い出して次のように語っています。「裁判の後,兄弟たちはあちこちの収容所に送られました。私がいた収容所では,多くの囚人が真理に誠実な関心を示しました。そのような囚人の一人だったある聖職者は,自分の聞いた事柄が真理であることをすぐに理解し,エホバの側に立ちました。
「とはいえ,状況は過酷でした。ある時,私は立っているのがやっとの小さな監房に閉じ込められました。そこは虫小屋と呼ばれていて,南京虫がうじゃうじゃいました。人間の血を一滴残らず吸ってしまいそうなほどたくさんいたのです。取調官が監房の前に立ち,『エホバとやらはお前をここから出せないだろう』と言いました。日ごとに与えられる食料は,パン300㌘とコップ1杯の水だけでした。空気がとても少なかったので,私は小さなドアに寄りかかり,髪の毛ほどのすき間から必死に空気を吸いました。南京虫に血を吸われるのを感じました。“虫小屋”にいた10日の間,耐え忍ぶための力を与えてくださるようエホバに繰り返し懇願しました。(エレ 15:15)ついにドアが開いた時,私は気を失い,目覚めた時には別の監房にいました。
「その後,強制労働収容所の裁判官たちに,重警備の懲罰収容所における10年間の拘禁を言い渡されました。罪状は,『ソビエトの権力に反対する扇動行為およびプロパガンダ』というものでした。その収容所では,郵便物を出すことも受け取ることもできませんでした。そこにいた囚人たちは大抵,殺人などの凶悪犯罪で有罪判決を受けていました。もし信仰を捨てないなら彼らは命令に従ってお前に何でもするぞ,と言われました。私は体重が36㌔しかなく,歩くのもやっとでした。しかし,そのような場所でも,真理に対して好意的な心を持つ誠実な人たちを見いだすことができました。
「ある時,植え込みの中で横になって祈っていると,年配の男性が近づいてきて,『何をやらかしてこの地獄に来る羽目になったんだい』と尋ねました。私が自分はエホバの証人だと告げると,その男性はしゃがんで私を抱きしめて口づけし,こう言いました。『兄ちゃん,おれはずっと聖書について知りたかったんだ。教えてくれないか』。私はこの上ない喜びを感じました。自分のぼろぼろの服に古い福音書の切れ端を幾つか縫い込んであったので,すぐに引っ張り出しました。男性は目に涙を浮かべ,私たちはその晩,長い時間話しました。男性は,収容所の食堂で働いているから食べ物をあげようと言いました。こうして私たちは親しくなり,その人は霊的に成長し,私は体力を取り戻しました。エホバがこのように事を運んでくださったに違いないと思いました。数か月後,男性は釈放され,私はゴーリキー州の別の収容所に移されました。
「そこの環境はずっとましでした。しかし,何よりうれしかったのは,4人の囚人との聖書研究を司会できたことです。1952年,私たちは文書を持っているところを収容所の刑務官たちに見つかりました。裁判の前の取り調べの際,私は密閉された箱に入れられました。息が詰まると箱が開けられ,二,三回呼吸した後にまた閉められるということが繰り返されました。信仰を捨てさせようとしたのです。私たちはみな有罪になりましたが,判決が言い渡された時に聖書研究生たちがだれも取り乱さなかったので,とてもうれしく思いました。4人とも,収容所における25年の懲役刑を宣告されました。私はもっと重い刑を受けましたが,それは変えられ,結局,重警備の収容所での25年の懲役と10年間の流刑を追加されました。裁判が行なわれた部屋を出る時,私たちは立ち止まり,支えてくださったエホバに感謝しました。看守たちは驚き,何をそんなに喜んでいるのか不思議に思いました。私たちは引き離され,それぞれ別の収容所に送られました。私が送られたのは,ボルクタにある重警備の収容所です」。
クリスチャンの中立ゆえに救われる
収容所での生活は過酷で,エホバの証人ではない大勢の囚人が自殺しました。イワン・クリロフは当時を思い起こしてこう語ります。「重警備の収容所から釈放された後,私は兄弟姉妹が強制労働をさせられていた炭鉱を幾つか訪ねました。私たちは接触を持ち,雑誌を手で書き写すことのできた人は他の人に写しを回しました。証人たちはどの収容所でも宣べ伝え,多くの人が関心を示しました。釈放された後にボルクタ川でバプテスマを受けた人たちもいます。
「私たちは絶えず,エホバとその王国に対する信仰が試みられる状況に直面しました。1948年のある時,ボルクタの収容所の一つで,一部の囚人が暴動を企てました。反逆者たちは他の囚人に,国籍や宗教別にグループを組織すれば暴動は大成功を収めるだろうと言いました。当時,その収容所にいたエホバの証人は15人でした。私たちは反逆者に,エホバの証人はクリスチャンであり,そういうことには参加できないと告げ,初期クリスチャンがローマ人に対する反乱に加わらなかったことを説明しました。もちろんそれは多くの人にとって意外なことでしたが,私たちは堅く立ちました」。
暴動は悲惨な結果を招きました。武装した兵士たちが抵抗勢力を押さえつけ,反逆者たちを別のバラックに連れて行きました。それからバラックにガソリンをかけ,火をつけたのです。中にいた人はほとんど死にました。兵士たちは,兄弟たちには何の危害も加えませんでした。
イワンはこう続けます。「1948年12月,私はある収容所で,25年の懲役刑を宣告された8人の兄弟たちに会いました。ひどく寒い冬で,炭鉱での仕事はきついものでした。それでも,兄弟たちの目は確信と強い希望に輝いていました。その積極的な態度は,エホバの証人ではない囚人さえも元気づけました」。
シベリアへ流刑に
当局の厳しい反対にもかかわらず,証人たちは引き続きエホバの王国の良いたよりを熱心に宣べ伝えました。そのことはモスクワにある中央政府,特にKGBをいら立たせました。KGBからスターリンにあてた1951年2月19日付の書簡にはこうあります。「エホバ信奉者の地下組織による,さらなる反ソビエト的な活動を抑圧するため,ソ連のMGB[国内治安省,KGBの前身]は,エホバ信奉者と判明している者ならびにその家族を,イルクーツク州およびトムスク州への流刑に処することが必要だと判断する」。KGBはだれがエホバの証人であるかを把握しており,ソ連の六つの共和国に住む8,576人をシベリアへ流刑にする許可をスターリンに求めました。そして許可が与えられます。
マグダリーナ・ベロシツカヤはその時の状況についてこう語っています。「1951年4月8日,日曜日の午前2時に,私たちはドアをたたく大きな音で起こされました。母は飛び起き,戸口へと走りました。目の前に一人の将校が立っていて,『お前たちは神を信じているゆえに,シベリアへ流刑に処される』と事務的に宣言しました。『2時間で支度するように。部屋にある物は持って行ってよいが,小麦粉や穀類は許可されていない。家具,木製品,ミシンもだめだ。庭の物は一切持って行ってはならない。寝具,衣類,袋や鞄を持って出てきなさい』と言われました。
「それ以前に出版物を読んで,東の方では多くの業を行なう必要があるということを知っていました。その業を始める時が来たのだと分かりました。
「だれ一人,泣いたりわめいたりしませんでした。将校は意外に思い,『だれも一粒の涙も流さないのか』と言いました。私たちは,こうなることを1948年から予期していたと話しました。旅のために,せめて生きた鶏1羽を連れて行かせてほしいと頼みましたが,許可されませんでした。将校たちは家畜を自分たちの間で分けました。私たちの目の前で鶏を分配し,一人は5羽,別の人は6羽,さらに別の人は3羽か4羽取りました。小屋に残った鶏が2羽だけになった時,将校は,それを殺して私たちに与えるよう命じました。
「生後8か月だった私の娘が,木製の揺りかごで寝ていました。揺りかごを持って行ってもよいかどうか尋ねましたが,将校はそれを分解するように命じ,赤ちゃんを寝かせる部分だけをくれました。
「程なくして近所の人たちも,私たちが流刑にされることを知りました。かりかりのパンが入った小さな袋をだれかが持ってきて,私たちが荷馬車に乗せられて出発する時に,荷台に投げ入れました。見張りの兵士はそれに気づき,袋を外に投げ捨ててしまいました。私たちは全部で6人でした。私,母,二人の弟,そして主人と8か月の娘です。村を出て少し行くと,私たちは車に詰め込まれて地域の集合所へ連れて行かれ,そこで書類が作成されました。それからトラックで駅まで運ばれました。
「日曜日で,とても天気のいい日でした。駅は,流刑にされる人たちと,それを見に来た人たちでいっぱいでした。私たちの乗ったトラックは,すでに兄弟たちがいた車両に横づけされました。列車が満員になると,兵士たちは全員の名字を呼んで確認しました。私たちの車両には52人いました。出発する前,見送りに来た人たちが泣き出し,嗚咽する人さえいました。中には全く知らない人もいたので,驚くような光景でした。しかし,それらの人は,私たちがエホバの証人で,これからシベリアへ流刑にされるということを知っていたのです。蒸気機関車が力強く汽笛を鳴らすと,兄弟たちはウクライナ語で歌い始めました。『キリストの愛なれと共にあれ。イエス・キリストに栄光を。その御国で我ら再び相まみえん』。私たちのほとんどは,エホバは決してお見捨てにならないという信仰と希望に満ちていました。皆で数節歌い,それがとても感動的だったので,涙を流す兵士もいたほどです。それから列車は走り出しました」。
「期待と正反対」
サンクトペテルブルクのゲルツェン大学で教えるN・S・ゴルディエンコ博士は自著の中で,迫害者たちが結局何を成し遂げたかについてこう書いています。「結果は,期待と正反対のものだった。彼らはソ連におけるエホバの証人の組織の弱体化を図ったのであるが,実際にはかえって強化してしまった。その宗派についてだれも聞いたことのない新しい開拓地で,エホバの証人の信仰と忠誠心は地元の人々に“伝染”していった」。
多くのエホバの証人はすぐに新たな環境に順応しました。複数の小さな会衆が組織され,区域が割り当てられました。ニコライ・カリババはこう言います。「シベリアで家から家へ,厳密に言うと家から二,三軒先の家へ宣べ伝えていた時期もありました。しかし,それは危険なことでした。どのように行なったのでしょうか。最初の訪問の後,再訪問は1か月ほどして行なうようにしました。まず家の人に,『鶏かやぎか牛を売りに出していませんか』と尋ねます。それから徐々に話題を変え,王国について話すのです。しばらくしてKGBがこのことを知り,間もなくエホバの証人と話さないよう地元住民に警告する記事が新聞に載りました。その記事には,証人たちは家々を回って人々にやぎや牛や鶏について尋ねるとありました。しかし,私たちは実際には羊を探していたのです」。
ガブリール・リビーはこう語ります。「兄弟たちはKGBに注意深く見張られていましたが,宣教奉仕に携わるよう努力しました。ソビエトの人々の態度といえば,だれかが宗教的な話題を持ち出そうとしているのを察すると,すぐに警察を呼ぶための警報を鳴らすというものでした。それでも私たちは伝道を続けました。最初は目に見える成果がありませんでしたが,時たつうちに真理は地元のある人たちを変化させ始めました。そうした人の一人に,大酒飲みだったロシア人の男性がいます。この人は真理を学んで生活を聖書の原則と調和させ,活発なエホバの証人になりました。後にKGBの係官に呼び出され,『だれと時間を過ごしているんだ。あの証人たちは皆ウクライナ人だぞ』と言われました。
「兄弟はこう答えました。『わたしが酔っ払って道端で寝転んでいた時には目もくれなかったじゃありませんか。そのわたしがまともになり,普通の市民になったら,それが気に入らないんですか。多くのウクライナ人がシベリアを去っていますが,彼らは神から生き方を学ぶようになった地元のシベリア人をあとに残してゆくのです』」。
数年後,イルクーツクのある役人がモスクワに次のような手紙を送りました。「地元で働く者の幾人かは,これらの[エホバの証人]全員をどこか北の地域に送るべきだと言明している。住民との接触をすべて断ち,再教育を施すためである」。シベリアでもモスクワでも,どうすればエホバの証人を沈黙させることができるのか分からなかったのです。
「お前たち全員を射殺していただろう」
1957年の初めごろ,当局は態勢を整え,エホバの証人に対して新たに行動を起こしました。兄弟たちは尾行され,家宅捜索を受けました。ビクトル・グットシュミットは当時を振り返ってこう語ります。「ある時,野外奉仕から帰ると,アパートの中がめちゃくちゃになっていました。KGBが文書を捜していたのです。私は逮捕され,2か月にわたって尋問されました。下の娘のユーリヤは生後11か月で,上の娘は2歳でした。
「尋問の際,取調官は私に,『お前はドイツ人か』と言いました。当時,多くの人にとって“ドイツ人”という言葉は,“ファシスト”と同義でした。ドイツ人は嫌われていたのです。
「私はこう答えました。『私は国粋主義者ではありませんが,もしあなたがナチスによって強制収容所に入れられたドイツ人のことを言っているのなら,私はそれらのドイツ人を誇りに思います。かつて聖書研究者<ビーベルフォルシェル>と呼ばれ,今はエホバの証人と呼ばれている人たちです。証人たちがだれ一人として,機関銃や大砲から一発の弾も撃っていないことを誇りに思います。それらのドイツ人を私は誇りに思います』。
「取調官は黙っていたので,私はこう続けました。『反乱や暴動に加わったエホバの証人は一人もいないことを確信しています。エホバの証人の活動が禁止されても,彼らは神への崇拝を続けます。同時に,証人たちは正当な権威者を認め,その法律がより高い創造者の法に違反しない限り従います』。
「不意に取調官が私を制し,こう言いました。『我々はエホバの証人とその活動を綿密に研究した。これほど調べたグループはほかにない。お前たちに不利な記録が一つでも見つかっていたなら,それがわずか一滴の血を流したことであったとしても,お前たち全員を射殺していただろう』。
「その時,私は思いました。『兄弟たちは世界中で勇敢にエホバに仕えていて,その実例がソ連にいる私たちの命を救った。だから,ここで神に仕えることが,他の場所にいる兄弟たちを何らかの仕方で助けることになるかもしれない』。こう考えると,エホバの道に固く付き従うための力が一層わいてきました」。
エホバの証人が50以上の収容所に
ソ連のエホバの証人の中立の立場と熱心な宣教は,引き続き政府にとって悩みの種でした。(マル 13:10。ヨハ 17:16)兄弟たちはそうした事柄において取った立場ゆえに,しばしば長くて不当な実刑判決を受けました。
1956年6月から1957年2月にかけて世界各地で開かれた199の大会で,46万2,936人の出席者が一つの請願書を提出することに満場一致で賛同しました。請願書の写しはモスクワのソ連邦閣僚会議に送られました。請願書には一部このように述べられていました。「ヨーロッパ・ロシアからシベリアにかけて,また北は北極海にまで至る地,さらには北極のノバヤゼムリャ島にもある50以上の収容所に,エホバの証人が収容されています。……アメリカおよび他の西欧諸国においては,エホバの証人は共産主義者と呼ばれており,共産主義者の支配する国々では,帝国主義者と呼ばれてきました。共産主義者の政府は,エホバの証人を『帝国主義のスパイ』として告訴し,裁判を行なって懲役20年の長期に達する刑を宣告してきました。しかし,エホバの証人が暴動活動……に従事したことは一度といえどもないのです」。残念なことに,この請願書をもってしても,ソ連のエホバの証人の状況はほとんど改善されませんでした。
とりわけロシアのエホバの証人の家族が子どもを育てるのは大変でした。そのころ3人の男の子を育てた,モスクワ出身のウラジーミル・ソスニンはこう言います。「ソビエトの学校に通うことは義務づけられていました。子どもたちは,教師や同級生から,共産主義のイデオロギーを志向する児童組織に入るよう圧力をかけられました。私たちは子どもに必要な教育を受けてほしいと思い,勉強を助けました。親にとって,子どもの心の中にエホバへの愛を育むのは,容易なことではありませんでした。学校には,社会主義や共産主義を促進しようという考えが浸透していました。私たち親は並外れた辛抱強さや粘り強さを示さなければなりませんでした」。
娘の耳をちぎり取ったとして告発される
シミョン・コスティリエフと妻のダーリヤは,シベリアで3人の子どもを育てました。シミョンはこう話します。「当時,エホバの証人は狂信者とみなされていました。1961年に,次女のアーラが1年生になりました。ある日,他の子どもたちと遊んでいた時,一人が誤ってアーラの耳にけがを負わせてしまいました。翌日,何があったのかと教師が尋ねると,アーラはクラスメートのことを言いつけたくなかったので何も答えませんでした。教師はアーラがエホバの証人の親に育てられていることを知っていたので,親が無理やり聖書の原則に従わせようとして暴行を加えたに違いないと考えました。学校側はそのことを検察当局に報告し,私の勤め先も巻き込まれました。約1年にわたる調査の末,1962年10月に私たちは法廷審問のために召喚されました。
「裁判の前の2週間,文化ホールには,『危険なエホバ派の裁判,間もなく開始』という横断幕が掲げられました。妻と私は,聖書に従って子どもを育てていることで訴えられ,さらに虐待の罪で告発されました。こともあろうに裁判所の主張は,私たちが娘に祈ることを強要し,娘の耳をバケツの縁でちぎり取ったというものだったのです。事実を証明できるのはアーラだけでしたが,当人は私たちの住んでいたイルクーツクから北へ約700㌔も離れたキレンスク市の児童養護施設に送られていました。
「ホールは青年同盟の活動家でいっぱいでした。審議のために休廷になると,群衆は騒ぎ出しました。私たちは押し回され,罵声を浴びせられ,“ソビエトの”服を脱げと言われました。皆が私たちを処刑すべきだと叫び,その場で殺すことを望む人さえいました。群衆はますます激高しましたが,判事たちはなかなか姿を現わしません。審議は1時間かかりました。群衆が私たちの方に押し寄せると,あるエホバの証人の姉妹とその未信者の夫が間に立ち,手を出さないようにと懇願しました。私たちに対する告発はすべて偽りであるということを説明しようとして,二人は文字どおり私たちを群衆の手から救い出しました。
「やっと一人の判事が人民裁判所の補佐人たちを伴って姿を現わし,判決を読み上げました。親権の剥奪です。私は矯正労働収容所へ護送され,そこに2年間入れられることになりました。長女も,両親は危険なセクトに属しており,成長に有害な影響を及ぼすと告げられた上で,児童養護施設に送られました。
「息子はまだ3歳だったので,ダーリヤと一緒にいることが許されました。刑期を終えると,私は家に戻りました。以前と同じように,証言は非公式に行なうことしかできませんでした」。
「子どもたちを誇りに思いました」
「アーラは13歳になった時に児童養護施設を出て家に戻り,また私たちと一緒に住むようになりました。1969年にアーラがエホバに献身し,バプテスマを受けたことは,私たちにとって大きな喜びでした。そのころ,私たちの住んでいた都市にあった文化ホールで,宗教に関する一連の講義が行なわれました。このたびはどんなことが話されるのか,聞きに行ってみることにしました。いつもどおり,最も多く取り上げられたグループはエホバの証人でした。講師の一人は『ものみの塔』誌を掲げ,『これは我々の国家の一致を揺るがす,有害で危険な雑誌である』と言い,一つの例を挙げました。『このセクトに属する者たちは,これらの雑誌を読んで祈ることを子どもたちに強要する。ある家族の場合,幼い娘が雑誌を読みたくないと言ったため,父親がその子の耳をちぎり取った』。アーラはびっくりしました。その場に座り,無傷の両耳で講義を聴いていたからです。しかし,また両親と離れ離れになるのが怖かったので,何も言いませんでした。
「息子のボリスは13歳になった時,エホバに献身しバプテスマを受けました。ある時,まだエホバの証人の活動は禁止されていましたが,ボリスは同い年の証人たちと一緒に街路証言をしていました。聖書も出版物も持っていませんでした。突然,1台の車が近づいてきて止まり,男の子たちはみな市民軍の基地に連れて行かれました。尋問と所持品検査を行なった民兵たちが見つけたのは,幾つかの聖句が書かれた紙だけでした。男の子たちは家に帰ることを許され,帰宅したボリスは自分や他の兄弟たちがエホバのみ名のために迫害されたことを誇らしげに話してくれました。エホバに支えられて試練を切り抜けたことを知り,子どもたちを誇りに思いました。この出来事の後,ダーリヤと私は幾度かKGBに呼び出されました。ある係官に,『この子どもたちは未成年者を罰する施設に送られるべきだ。まだ14歳になっていなくて残念だ』と言われ,私たちは息子の伝道活動のために罰金を科されました。
-
-
ロシア2008 エホバの証人の年鑑
-
-
聖書が反ソビエト的とみなされる
兄弟たちは,聖書を持っているというだけで裁判にかけられることもありました。ナデジュダ・ビシュニャクはこう言います。「夫と私はまだエホバの証人ではありませんでしたが,真理に深く心を動かされていました。ある時,警察が職場にやって来て,私は作業着のまま連行されました。夫のピョートルも仕事中に逮捕されました。このことが起きる前に私たちの家は捜索を受け,警察は聖書と『ハルマゲドンの後 ― 神の新しい世』という小冊子を見つけていたのです。ピョートルは私が逮捕されるとは思っていませんでした。妊娠7か月だったからです。
「私たちはソビエト当局に逆らって行動したとして告発されました。それに対して私たちは,ソビエトの権力よりはるかに高い権威を持つ聖書を信じていると説明しました。
「『聖書は神の言葉ですから,私たちはその原則に従って生きることを望んでいるのです』と私は言いました。
「裁判が行なわれたのは,出産予定日のわずか2週間前でした。審問の合間に,私が武装した兵士に付き添われて外を散歩できるよう,判事は何度か休憩を取ることを許しました。そうした散歩の際に一度,何をしたのかと兵士に尋ねられたので,証言を行なう素晴らしい機会となりました。
「判事は,押収された聖書や文書は『反ソビエト的』であると宣言しました。夫と私だけでなく,私たちの文書や聖書さえも反ソビエト的だと非難されたことをうれしく思いました。どこでエホバの証人と知り合ったのか尋ねられたので,ボルクタの強制労働収容所でと答えると,判事は『我々の収容所で何が起きているか見るがいい!』と腹立たしげに叫びました。私たちは有罪判決を受け,二人とも矯正労働収容所における10年の懲役を言い渡されました。
「ピョートルはロシア中央部のモルドビニアの収容所に送られ,私は独房に監禁されました。1958年3月,私は男の子を出産します。この困難な時期に,最高の友および助け手になってくださったのはエホバでした。母が息子を引き取って世話してくれることになり,私はシベリアのケメロボに連れて行かれ,強制労働収容所に入れられました。
「8年がたち,私は刑期が満了する前に釈放されました。バラックで刑務官の女性が私について,『反ソビエト的』な発言をしたことは一度もなく,私たちの文書は全く宗教的なものであると,大きな声で述べたことを覚えています。私は自由にされた後,1966年にバプテスマを受けました」。
刑務所や収容所で,聖書や聖書文書はとりわけ貴重なものでした。1958年,モルドビニアの収容所で,兄弟たちは定期的に集会を開いていました。刑務官たちが来ても慌てないように,一つのグループが「ものみの塔」誌を研究している間,幾人かの兄弟たちが声の届く所で見張りをするよう割り当てられました。刑務官が来ると,いちばん近くの兄弟が次の見張りに「来ました」と言い,集まっているグループに達するまで伝言が繰り返されます。皆が散り散りになり,雑誌は隠されました。しかし,刑務官がどこからともなく急に姿を現わすことも少なくありませんでした。
ある時,兄弟たちは不意を突かれてしまいました。ボリス・クリルツォフは,刑務官たちの注意をそらして雑誌を守ろうとし,とっさに1冊の本をつかんでバラックから飛び出しました。刑務官たちはしばらく追いかけ,やっとのことで追いつきましたが,ボリスが持っていたのはレーニンの著書でした。ボリスは7日間の独房監禁に処されましたが,雑誌が無事だったので喜びました。
モスクワで真理の種がまかれる
モスクワで王国の良いたよりを宣べ伝える業は,小さなグループによって始められました。ボリス・クリルツォフは,初期に国の首都で熱心に伝道を行なった少数の人たちの一人でした。兄弟はこう語ります。「私は建設現場の監督として働いていました。幾人かの兄弟姉妹と共に,非公式に宣べ伝えるよう努力しました。しかし,私の活動について知ったKGBが1957年4月にアパートを捜索して聖書文書を見つけたため,私は直ちに逮捕されました。尋問の際に取調官は,エホバの証人は国内で最も危険な人々だと話し,さらにこう言いました。『もしお前たちを自由にしたら,大勢のソビエト国民が仲間になるだろう。お前たちを国家に対する大きな脅威と見ているのはそのためだ』。
「私はこう答えました。『聖書は,法律に従う国民になるようにと教えています。さらに,王国と神の義をいつも第一に求めなければならないと述べています。いかなる国においても,真のクリスチャンが権力を握ろうとしたことは決してありません』。
「『捜索の際に見つかった文書はどこで手に入れたんだ』と捜査官は尋ねました。
「私は,『その文書に何か問題があるのですか。聖書の預言を論じているもので,政治的な問題は何も取り上げていませんが』と聞き返しました。
「『そうだな。だが,外国で出版されたものだ』という答えでした。
「私は結局,ウラジーミル市にある重警備の刑務所に入れられました。所持品を徹底的に検査されましたが,驚いたことに,薄い紙に手で書き写した『ものみの塔』誌4冊を持ち込むことができました。エホバが助けてくださったことは明らかでした。監房の中で,私はその4冊すべてをさらに書き写しました。そこに自分以外にも証人たちがいて,7年のあいだ全く霊的食物を受け取っていないことを知っていたからです。階段のモップがけを任されていた姉妹を通して,それらの雑誌を回しました。
「あとで分かったことですが,兄弟たちの中に密告者が紛れ込んでいて,だれかが聖書文書を回していると刑務所の看守たちに告げました。看守たちはすぐに全員を調べ始め,文書をすべて取り上げました。間もなく私のところにも来て,マットレスの中の文書を見つけました。私は85日間も独房に監禁されましたが,エホバは引き続きそれまでと同じように私たちを世話してくださいました」。
-