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93年の人生を回顧してものみの塔 1987 | 5月1日
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後日,私たちは,ものみの塔協会の二代目の会長ジョセフ・F・ラザフォードと,ブルックリンの本部で奉仕していた同僚のうち6人が,米国の戦争遂行に傾ける努力を妨害したとして不当にも有罪宣告を受けたことを知りました。それらの兄弟たちは,四つの訴因の各々に対してアトランタ連邦刑務所での20年の懲役刑を宣告されました。もっとも,その懲役刑は各々同時に執行されることになりました。戦争は1918年11月11日に終わり,次いで1919年3月25日にラザフォード兄弟とその同僚は保釈されました。その後,それら兄弟たちは無実の罪を完全に晴らされました。また,「終了した秘義」の本も禁令を解除され,再び自由に頒布することが許されました。
協会が1919年9月1日から8日まで,オハイオ州サンダスキーの近くの保養地だった半島の端に位置していたシーダー・ポイントで開催するよう取り決めた戦後初めての大会は私たちの霊を何と元気づける集まりだったのでしょう。その大会に出席できたことは,私にとって大変喜ばしい特権でした。
ベテルへ招かれる
翌年の1920年,ラザフォード会長は,オハイオ州シンシナティ市で一般の聴衆に話をする招きに応じてくださいました。当時,私は聖書文書頒布者の業を行なっていましたが,ラザフォード兄弟は,ブルックリンの本部のベテルで奉仕するために手紙で申し込むよう私に勧めてくださいました。
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93年の人生を回顧してものみの塔 1987 | 5月1日
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ラジオと大会に関する特権
私は1926年までずっと聖書文書頒布者部門で奉仕しました。その間に,ものみの塔聖書冊子協会は協会最初のラジオ放送局WBBRをスタテン島に開設しました。それは1924年のことでした。私は協会のラジオ番組で奉仕する喜ばしい特権をいただきました。その番組では話をするだけでなく,テノール独唱や,ピアノの伴奏でマンドリン演奏もしました。さらに,WBBR男声四重唱団でセカンド・テノールも受け持ちました。もちろん,協会の会長であったラザフォード兄弟はWBBR放送の主要な話し手で,その話に大勢の聴取者が耳を傾けました。
ものみの塔聖書冊子協会の全国大会がオハイオ州シーダー・ポイントで二度目に開かれたのは1922年のことでした。私たちはこの大会で,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい!」というラザフォード兄弟の大変力強い勧めを受けました。
私が1920年代にあずかった大変貴重な特権の一つは,1926年に英国のロンドンで開催された国際大会でラザフォード兄弟と一緒に奉仕したことです。その時,ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで大勢の聴衆を前に,私がそのホールの有名なオルガンの伴奏でテノールの独唱をした後,ラザフォード兄弟が公開講演を行ないました。
翌日の夜,ラザフォード兄弟は,「ユダヤ人のためのパレスチナ ― それはなぜか」という主題でユダヤ人の聴衆に話し,私はヘンデルの「メサイア」の一部で独唱部分の「慰めよ,汝らわが民を慰めよ」を歌いました。何千人ものユダヤ人がその特別の集まりに出席していました。当時,私たちはヘブライ語聖書の預言を,割礼を受けた肉のユダヤ人に間違って適用していました。しかし,1932年にエホバは私たちの目を開き,それらの預言が霊的イスラエルに適用されることを理解させてくださいました。
また,1931年のオハイオ州コロンバスで開かれた大会に出席し,その大会でラザフォード兄弟がエホバの証人という『新しい名称』を提起した時,私は本当に胸の躍る思いがしました。そして私たちすべては熱意にあふれてその名称を採択しました! その後直ちに,全世界のエホバの民のすべての会衆もその『新しい名称』を採択しました。―イザヤ 62:2と比較してください。
1935年5月31日,金曜日,ラザフォード兄弟は,啓示 7章9節から17節に関する画期的な講演をして,その節に描かれている『大いなる群衆』の成員の実体を正確に説明しましたが,その時,私は演壇のすぐ下の楽団席でオーケストラの指揮者として奉仕していました。そして,ラザフォード兄弟が,『大いなる群衆』(ジェームズ王欽定訳)すなわち「大群衆」は『良き羊飼い』イエス・キリストの『他の羊』で構成されることになっていたという点を明らかにした時,いわゆるヨナダブ級の人々も出席するよう特に招かれていた理由が明らかになりました。(ヨハネ 10:14,16,欽定訳)それは胸を躍らせる出来事でした。翌日,6月1日の土曜日に,大会出席者の中の840名が,地上の楽園<パラダイス>を期待してキリストを通して神に献身したことを表わす水の浸礼を受けました。それは私にとって何と心を動かす事柄だったのでしょう。その時以来,キリストの「ほかの羊」の数のほうが,りっぱな羊飼いイエス・キリストの,霊によって生み出された羊のような弟子たちである,徐々に減少する「小さな群れ」の成員よりもはるかに多くなってゆきました。―ルカ 12:32。
しかし,1939年に第二次世界大戦が勃発した時,「大群衆」を集める業もこれで終わりになるかのように思えました。私は,ラザフォード兄弟がある時,「ところで,フレッド,『大いなる群衆』も結局はそれほど大きくなりそうもないようだね」と私に言われたのを思い出します。大規模な取り入れがなお前途に控えていようとは,私たちには知る由もありませんでした。
1934年に協会は,携帯用蓄音機を導入し,聖書文書を紹介するためにラザフォード会長の数々の講話のレコードが用いられました。それらの話がスペイン語に翻訳されて,そのレコードが出された時,私は,アダムス通り117番の協会の工場の付近に住むスペイン語を話す人々に音信を伝えるため,専らそれらのレコードを用いました。それから,再訪問をして,聖書の真理を学ぶよう関心のある人たちを助け,こうしてやがてブルックリンで,スペイン語を話す人々の最初の会衆を組織する特権にあずかりました。私はブルックリンのスペイン語会衆が設立されて以来ずっと,その最初の会衆に所属しています。
協会の会長が代わる
1942年1月8日にラザフォード兄弟が亡くなり,ネイサン・H・ノアがその後を継いで協会の会長になりました。
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