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  • シエラレオネとギニア
    2014 エホバの証人の年鑑
  • シエラレオネとギニアの概要
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      84,85ページの図版

      シエラレオネとギニアの概要

      国土 どちらの国も,海岸沿いの湿地,サバンナ,高台の耕作地,内陸の高い山々が特徴です。ギニアからは,西アフリカの三大河川 ― ガンビア川,ニジェール川,セネガル川 ― が流れ出ています。

      83ページの地図

      住民 シエラレオネにいる18の現地民族のうち,特に多いのがメンデ族とテムネ族です。クリオと呼ばれるアフリカ人の解放奴隷の子孫は,おもにフリータウン周辺に住んでいます。ギニアには30以上の民族がおり,中でもフラニ族,マンディンゴ族,スス族が多くいます。a

      宗教 シエラレオネでは約60%がイスラム教徒で,ほかはおもにキリスト教徒です。ギニアでは90%近くがイスラム教徒です。どちらの国でも多くの人がアフリカの伝統宗教も奉じています。

      言語 どの民族にも独自の言語があります。シエラレオネの共通語はクリオ語(英語とヨーロッパの言語とアフリカの言語の混成言語)です。ギニアの公用語はフランス語です。どちらの国でもおよそ60%の人は読み書きができません。

      生活 大半の人が農業で自給自足しています。シエラレオネの輸出収入の半分近くは沖積ダイヤモンドによるものです。ギニアは世界でも有数のボーキサイト埋蔵国です。

      食物 よく使う言葉に,「米がないと食べたとは言えない」という表現があります。フフ(ゆでたキャッサバを餅状につきあげたもの)はよく,肉やオクラ,酸味のあるソースと一緒に食べます。

      気候 沿岸部は高温多湿ですが,高地では比較的気温は低めです。乾季には,サハラ砂漠からハルマッタンと呼ばれる乾いた風が何日も吹きつけるため,気温が下がり,一帯は砂塵で覆われます。

      a 複数の名で呼ばれている民族もあります。

      シエラレオネ

      ギニア

      面積

      7万1,740平方㌔

      24万5,857平方㌔

      人口

      609万2,000人

      1,174万5,000人

      2013年の伝道者数

      2,039人

      748人

      伝道者一人当たりの人口

      2,988人

      1万5,702人

      2013年の記念式出席者数

      8,297人

      3,609人

  • 1915-1947年 初期の活動(第1部)
    2014 エホバの証人の年鑑
    • 86ページの図版

      シエラレオネとギニア

      1915-1947年 初期の活動(第1部)

      真理の光が輝き出す

      シエラレオネに良いたよりが届いたのは1915年のことです。その年,あるシエラレオネ人たちが英国から聖書に基づく出版物を持って帰国しました。同年の7月,バプテスマを受けたエホバの僕が初めてフリータウンに到着します。南米のガイアナ出身で31歳のアルフレッド・ジョセフです。アルフレッドは,すでに同じ年に西インド諸島のバルバドスでバプテスマを受けており,機関士の仕事でフリータウンに来ることになったのです。フリータウンのコットンツリーから3㌔ほど離れたクラインタウンの鉄道員宿舎に住み,すぐに同僚に聖書の音信を伝え始めます。

      86ページのグラフ

      翌年,アルフレッドのもとに,かつての仕事仲間レナード・ブラックマンがバルバドスからやって来ます。アルフレッドに真理を伝えたのは,そのレナードの母エルビラ・ヒューイットでした。レナードはアルフレッドの隣に住み,二人は定期的に聖書について話し合い,友人や関心のある人に聖書文書を渡すようになりました。

      二人はフリータウンの畑が「収穫を待って白く色づいて」いるのを見て取りました。(ヨハ 4:35)1923年,アルフレッドはニューヨークの世界本部に手紙を書き,こう伝えます。「ここでは多くの人が聖書に関心を持っています。人々を世話し,シエラレオネでの伝道活動を拡大するため,どなたかを遣わしていただけないでしょうか」。返信がありました。「だれかを派遣します」。

      88ページの図版

      ウィリアム・“バイブル”・ブラウンと妻のアントニア

      アルフレッドはこう述べています。「数か月後のある土曜日の夜遅く,突然電話が鳴りました」。

      「電話の声は,『奉仕者を求める手紙をものみの塔協会に書いたのはあなたですか』と言いました。

      「『そうです』と答えると,

      「力強い声で,『わたしが派遣された者です』と返ってきました。

      「声の主は,ウィリアム・R・ブラウンでした。妻のアントニアと幼い娘を伴ってその日に到着し,ゲインフォードホテルに泊まっていたのです。

      「翌朝,レナードと一緒に毎週行なっていた聖書研究をしていると,戸口に大きな人影が現われました。ウィリアム・R・ブラウンでした。兄弟は真理への熱意にあふれていて,公開講演を明日行ないたいと言いました。わたしたちはフリータウンで一番大きな会館だったウィルバーフォース・メモリアルホールをすぐに予約し,次の木曜日の晩に一連の4つの公開講演の最初のものを行なえるよう計画しました。

      「講演を宣伝するために,数人しかいないわたしたちは忙しく働きました。新聞やビラを使ったり,口頭で伝えたりしました。人々はどう反応するだろうと不安でしたが,心配いりませんでした。ホールには500人ほどが詰めかけ,その中にはフリータウンの聖職者もたくさんいました。みんなで大喜びしました」。

      1時間ほどの話の間,ブラウン兄弟は様々な聖句を引用し,スライドで聖句をスクリーンに映し出しました。そして何度も,「ブラウンが言うのではなく,聖書が述べているのです」と言いました。聴衆は引きつけられ,度々,拍手喝采しました。兄弟の威厳のある話し方にではなく,確かな根拠として挙げられた聖句に感銘を受けたのです。ある若い神学生はこう言いました。「ブラウン氏は聖書を知り尽くしている!」

      90ページの図版

      1930年

      ブラウン兄弟の講演は町中に知れ渡り,話を聞こうとたくさんの人が詰め寄せました。次の日曜日,再び満員になった聴衆は「地獄へ行って戻る ― だれがそこにいるか」という講演を聞きました。その晩,兄弟が話した力強い真理のゆえに,著名な教会員の中に脱退を申し出る人さえいました。

      一連の講演の最後の話だった「現存する万民は決して死することなし」には,とりわけ大勢の人が集まりました。フリータウンのある人が後に述べたところによると,「教会員が皆ブラウン兄弟の講演に行ってしまうので,教会は晩の礼拝を取りやめにしなければなりませんでした」。

      ブラウン兄弟はいつも最も重要な論拠として聖書を用いたので,人々から“バイブル”・ブラウンと呼ばれました。やがてこの呼び名は定着し,西アフリカ中で知られるようになります。ウィリアム・R・ブラウンは地上での歩みを終えるまでこの名で呼ばれ,それを光栄に感じていました。

  • 1915-1947年 初期の活動(第2部)
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      1915-1947年 初期の活動(第2部)

      グラディエーターズとの対決

      フリータウンの聖職者たちは教会員がブラウン兄弟の講演を楽しむのを見て,ねたみに駆られ,怒りを募らせます。「ものみの塔」1923年12月15日号(英語)にはこうあります。「聖職者たちは業を煮やし,新聞を用いて真理を攻撃している。ブラウン兄弟は幾度となく論駁し,新聞には両者の見解が載せられた」。やがて聖職者たちは口をつぐむようになり,その論法が偽りであることが明らかにされました。聖書の真理が広く知らされ,多くの新聞読者が聖書文書を求めました。聖職者たちは神の民を沈黙させようと策を弄しましたが,エホバは「彼らにその害悪を返」されたのです。―詩 94:21-23。

      聖職者たちを援護しようと,ある教会に属するグラディエーターズ(剣闘士の意)という若者のグループが一連の集会の開催を知らせます。彼らが“ラッセル主義”と呼ぶ王国の音信を批判しようというのです。それに対し,ブラウン兄弟は討論会を公に持ちかけますが,グラディエーターズは参加を拒み,兄弟の挑戦を報じた新聞編集者を非難します。しかも,自分たちの集会にブラウン兄弟が来られないよう妨害したため,代わりにアルフレッド・ジョセフが行くことになりました。

      集会はバックストン記念礼拝堂で開かれました。フリータウンで名高いメソジスト教会です。アルフレッドはこう述べています。「質疑応答の場で,わたしは英国国教会の信条,三位一体の教理,他の非聖書的な教えについて質問を投げかけました。議長は,最後には質問を受け付けなくなりました」。

      その場にいたグラディエーターズの一員メルバーン・ガーバーは,以前に“バイブル”・ブラウンの講演を聞いていました。「ブラウン氏は聖書を知り尽くしている!」と言った,あの若い神学生です。ガーバーは聞いた事柄についてよく考えた末,真理を見つけたと確信し,ブラウン兄弟に聖書研究を依頼しました。するとブラウン兄弟から自宅で毎週行なっている「ものみの塔」研究に招かれます。家族からは勘当されてしまいますが,霊的に急速に進歩し,まもなく他の人たちと共にバプテスマを受けました。

      始まり出した伝道活動を押さえ込もうとするサタンのたくらみは失敗しました。フリータウンの市長がグラディエーターズに述べたとおりです。「それが人による活動なら,いずれ終わるでしょう。しかし神からのものなら,それをやめさせることはできません」。―使徒 5:38,39。

      ブラウンの宗教

      1923年5月の初め,ブラウン兄弟はロンドン支部に電報で出版物を依頼します。程なくして5,000冊が届き,その後も次々と送られてきます。兄弟は引き続き公開集会を開き,たくさんの人が関心を持ちました。

      同じ年の終わりに「ものみの塔」誌はこう伝えています。「[シエラレオネでの]業が急速に拡大したため,ブラウン兄弟は助け手を必要としており,かつては西インド諸島にいたウィニペグ市のクロード・ブラウンがまもなく合流する予定である」。

      クロード・ブラウンは,様々な困難を乗り越えてきた良いたよりの奉仕者でした。第一次世界大戦中,クリスチャンの中立を貫いたゆえにカナダと英国の刑務所に入れられ,ひどい扱いを耐え忍びました。シエラレオネで4年奉仕し,地元の兄弟姉妹を大いに強めました。

      ポーリン・コールは当時のことをこう述べています。「1925年にバプテスマを受ける時,クロード兄弟は丁寧に質問してくださいました。

      「『コール姉妹,「聖書研究」の本で学んだことを理解しておられますか。聖書の教えを理解していないために真理から漂い出ることをわたしたちは望んでいません』。

      「それでこう答えました。『クロード兄弟,わたしは学んだことを何度も読み返しました。そして決めたんです!』」

      93ページの図版

      ポーリン・コール

      ポーリンはエホバに60年余り仕えました。そのほとんどを特別開拓者として奉仕し,1988年に地上での歩みを終えました。

      ウィリアム・“バイブル”・ブラウンも,良い霊的習慣を培うよう人々を助けることに意欲的でした。アルフレッド・ジョセフはこう言っています。「朝,ブラウン兄弟に会うと,こう言われたものです。『こんにちは,ジョー兄弟。お元気ですか。今日の聖句は何ですか』。答えられないと,『日々のマナ』[現在の「日ごとに聖書を調べる」]の本から毎日聖句をしっかり見るようにと言われました。それで翌朝,兄弟に聞かれても答えられるよう,すぐに聖句を読みました。最初は,大切な訓練を受けているという意識はさほどありませんでしたが,後になってとてもありがたく思いました」。

      こうした訓練は立派な実を結びました。1923年,フリータウンに会衆が設立され,14人がバプテスマを受けたのです。その中にはジョージ・ブラウンという人もいて,会衆にはブラウン家が3つになりました。3家族の熱心な働きゆえに,聖書研究者たちはフリータウンの人々から“ブラウンの宗教”と呼ばれました。

  • 1915-1947年 初期の活動(第3部)
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      1915-1947年 初期の活動(第3部)

      地方ヘ,そしてその先へ

      真理への熱意にあふれたフリータウン会衆は「ひたすらみ言葉のことに携わる」ようになります。(使徒 18:5)アルフレッド・ジョセフはこう述べています。「愛車のノートンの大型バイクに,よく聖書文書の箱をくくり付けたものです。そしてトーマス・グラントかシルベスター・グラントを後ろに乗せ,フリータウン周辺の田舎と小さな町々に,わたしたちが“勧誘”と呼んでいた活動に出かけました」。

      1927年まで,奉仕者たちはおもにフリータウンの中と周辺を伝道していました。ザ・コロニーと呼ばれた地域です。しかし1928年から毎年,雨季の始まる前に,会衆はバスを借りて地方に出かけるようになります。参加できない人たちは,旅費を援助しました。メルバーン・ガーバーが奉仕者たちを率い,東はカイラフン,南はリベリアの国境付近まで出かけ,町や村を伝道しました。そして月の第1日曜日には,関心を示した人の再訪問に行きました。

      そのころ,ブラウン兄弟は西インド諸島に行き,1台の自動車と共に戻ってきました。当時はシエラレオネに車がほとんどない時代です。その車は,公の証言用に,大音量を出せる音響装置が付いていました。ブラウン兄弟は公共の場所で車を停め,勇壮な音楽をかけて人々を集めました。それから,短い話をしたり録音された講演を流したりし,聖書文書を受け取るよう勧めるのです。これは“話す自動車”と呼ばれて話題になり,大勢の人が聞きに来ました。

      95ページの図版

      大胆に宣べ伝える

      ブラウン兄弟は次いで,霊的に未開の地に目を向けます。英語を話す人がいる西アフリカの他の地域です。1920年代後半,兄弟はガンビア,ガーナ,リベリア,ナイジェリアに伝道旅行に出かけました。どの国でも関心のある人を見いだしましたが,ナイジェリアがとりわけ有望でした。それで1930年,兄弟は家族と一緒にフリータウンからラゴスに移動します。そこから引き続き西アフリカでの王国の活動を監督しました。

      現在,西アフリカでは50万人以上もの証人たちがエホバに奉仕している

      体を悪くしたため,兄弟は1950年にジャマイカに戻らなければならなくなりましたが,大きな成果を残しました。27年ほどの間に,ブラウン兄弟姉妹は西アフリカのエホバの証人の数が二人から1万1,000人以上に増えるのを目にしました。まさにイザヤの預言の成就を経験したのです。「小さな者が千となり,小なる者が強大な国民となる」。(イザ 60:22)それから60年余りが経過した現在,西アフリカでは50万人以上もの「強大な国民」がエホバに奉仕しています。

      禁令下で堅く立つ

      第二次世界大戦がアフリカに暗い影を落としていたころ,シエラレオネのエホバの民はクリスチャンの中立の立場を取りました。(ミカ 4:3。ヨハ 18:36)英国当局は,事実に反して兄弟たちを反体制分子と決めつけて活動を監視し,出版物を発禁処分にしました。フリータウンの税関の役人が出版物の積荷を差し押さえ,焼き払ったこともあります。発禁文書を持っているとして逮捕された兄弟たちもいます。幸い,まもなく釈放されました。a

      禁令にもかかわらず,証人たちは伝道を続けました。ポーリン・コールはこう述べています。「定期的に来る船の乗組員だった兄弟が『ものみの塔』誌を何部か届けてくれていました。それをもとに,わたしたちは集会用の写しをタイプして作りました。聖書の話題に関するビラを印刷して人々に配ることもしました。特に地方の村々で,兄弟たちは引き続き公開講演をし,ラザフォード兄弟のラジオ講演の録音を流しました」。

      そうした地道な努力は確かにエホバの祝福をもたらしました。経験豊かな長老で特別開拓者のジェームズ・ジャレットはこう述べています。「戦時中,石切りの仕事をしていた時に,高齢の姉妹が『避難者』という小冊子をくださいました。多くの避難民がフリータウンに来ていたので,その題に興味を引かれました。その晩それを読み,すぐに真理だと悟りました。翌朝,姉妹を探し,兄と二人の弟のためにも小冊子を受け取りました。兄弟4人全員が真理を受け入れました」。

      1945年に戦争が終わった時,フリータウン会衆には32名の奉仕者がいました。兄弟姉妹は忠誠を保ち,霊的に活発であり続けました。前進する意欲に満ちていたのです。

      公開集会運動

      1945年8月29日,フリータウン会衆は奉仕会で,「通知」(現在の「わたしたちの王国宣教」)の1944年12月号で知らされた新しい運動について話し合いました。その知らせによれば,各会衆が区域内の「すべての都市,町,集落」で,一連の4つの公開集会を宣伝して開きます。集会では1時間の講演が行なわれ,話すのは神権宣教学校で割り当てをしっかり果たしている18歳以上の兄弟です。4つの集会の後,地域の関心のある人たちを援助するため,聖書研究を取り決めます。

      この新しい指示に奉仕者たちはどう反応したでしょうか。奉仕会のメモにはこんな記録が残っています。

      司会者: 「この新しい運動はわたしたちも実施できると思いますか」。

      兄弟1: 「アメリカのようにはいかないでしょう。ここの人たちは違います」。

      兄弟2: 「わたしもそう思います」。

      兄弟3: 「まずやってみませんか」。

      兄弟4: 「でも,難しいでしょうね」。

      兄弟5: 「いえ,エホバの組織からの指示に従うべきです」。

      兄弟6: 「ですが,この国ではきっとうまくいかないですよ」。

      姉妹1: 「とは言っても,『通知』の指示ははっきりしています。やってみましょう!」

      こうして,兄弟たちはやることにしました。フリータウンの沿岸部から,南東のボー,北部の高原のカバラまで出かけ,学校の教室や市場や個人の家で集会を開いたのです。この活動により,会衆はさらに活気づき,「エホバの言葉は盛んになり,広まって」いきました。―使徒 12:24。

      それでも奉仕者たちには神権的な訓練が必要でした。エホバは確かにそれをお与えになります。

      a 禁令は1948年に解かれました。

  • 1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第1部)
    2014 エホバの証人の年鑑
    • 102ページの図版

      シエラレオネとギニア

      1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第1部)

      ギレアデの宣教者の到着

      1947年6月,ものみの塔ギレアデ聖書学校の卒業生3人がフリータウンに到着します。チャールズ・フィッツパトリック,ジョージ・リチャードソン,ヒューバート・グレシャムです。後にやって来ることになる多くの宣教者たちの第一陣でした。

      102ページのグラフ

      宣教者たちは,地元の奉仕者たちが伝道に熱心であるものの,より効果的な教え手になる必要があるのを見て取ります。(マタ 28:20)そこでまず,関心のある人の継続的な援助の仕方や聖書研究の司会の方法を教えました。また,会衆の集会や神権組織に関する最新の指示も伝えました。公開集会がウィルバーフォース・メモリアルホールで開かれました。450人もが出席し,宣教者たちはとても喜びました。その後,週ごとの雑誌の日も実施されるようになります。こうした訓練により会衆は勢いづき,将来の増加の土台が据えられました。

      宣教者にとって,現地の気候に順応するのは容易ではありませんでした。1948年の支部の報告にはこうあります。「シエラレオネの気候は過酷です。雨季は毎年6か月に及び,激しい豪雨が降り続きます。2週間降りやまないこともあります。乾季は猛烈な暑さで,高湿度です」。昔にシエラレオネを訪ねたヨーロッパ人は,その地を“白人の墓場”と呼んだほどです。マラリアや黄熱病などの熱帯病が蔓延していました。宣教者は次々と体を壊し,国を出ることを余儀なくされました。

      無理もないことですが,地元の奉仕者はこうした事態に動揺しました。しかし,くじけませんでした。報告によると,1947年から1952年にかけて伝道者最高数は38人から73人に増えています。開拓者たちの骨折りにより,フリータウンの近くの町ウォータールーに新たな会衆が設立されました。フリータウン郊外のキッシーとウェリントンには新しい群れが出来ました。拡大に向けて舞台は整いました。あとはきっかけを待つのみです。

      励みとなる訪問

      1952年11月,すらりとした30代前半のアメリカ人がフリータウンの波止場に降り立ち,にぎやかな都市に入って行きました。世界本部から来たミルトン・G・ヘンシェルです。その時のことをこう述べています。「近代的な都市を見て本当に驚きました。世界の大半の都市よりもはるかにきれいでした。……通りは舗装され,店はにぎわい,車は新しく,道行く人の流れはどこまでも続いていました」。

      ヘンシェル兄弟は,フリータウンの有名なコットンツリーから2ブロックの所にある宣教者ホームを訪ねます。そして,集った兄弟たちに,シエラレオネにさらなる助けが差し伸べられることを知らせます。次の日曜日,ウィルバーフォース・メモリアルホールに集まった253人に,幾つもの胸の躍る発表を行ないました。シエラレオネに支部事務所が開設され,巡回監督や巡回大会の取り決めが設けられます。キッシーに会衆が設立されます。地方での伝道活動がいっそう拡大します。聴衆の心は大いに高鳴りました。

      ヘンシェル兄弟はこう述べています。「兄弟たちは『クシェ』と何度も言っていました。『やった!』という意味の,感情を表わす言葉です。とても高揚した様子でした。夕闇の中,ホールから人々が出てゆき,……幾人かの出席者は歌を口ずさんでいました」。

      支部事務所の監督をするよう,新たに到着した宣教者ウィリアム・ヌーシーが任命されました。ウィリアムはかつて全米を渡り歩いてカジノディーラーをしていた人です。その仕事を辞めてクリスチャンになり,義の原則を固く守る人になりました。その人柄ゆえに,シエラレオネの奉仕者たちから愛され,尊敬されました。

  • 人気を集めた上映会
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      人気を集めた上映会

      105ページの図版

      1956年,フリータウンの兄弟たちは,「躍進する新しい世の社会」という映画を上映しました。こんな報告があります。

      「わたしたちはフリータウンで最も大きな会場を借り,招待ビラを1,000枚配りました。何人来るか不安でした。映画が始まる30分前,来ていたのは25人だけでした。それから15分ほどの間に,100人以上がやって来ました。まもなく500席すべてがいっぱいになり,座れなかった100人以上は,快く立ちました。ほかにも500人が会場に入れずにいました。その人たちは2回目の上映を待つでしょうか。『はい』という答えでした。雨が降っているにもかかわらず,待ったのです」。

      その後の年月に,シエラレオネでこの映画や他の際立った映画を見た人は8万人以上になります。

  • 1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第2部)
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第2部)

      結婚という神の賜物を誉れあるものとする

      ウィリアム・ヌーシーは割り当てられた場所で奉仕してゆくうちに,一部の奉仕者が結婚に関するエホバの規準を擁護していないことに気づきます。内縁関係にあり,当局への届け出をせずに夫婦として暮らしている人がいました。地元の慣習に従い,女性が妊娠して,子どもができると分かるまでは結婚しない人もいました。

      そのため,1953年5月,支部事務所は各会衆に手紙を送り,結婚に関する聖書の規準を明確に説明しました。(創 2:24。ロマ 13:1。ヘブ 13:4)夫婦には婚姻届を出すための猶予期間が与えられました。届け出なければ,会衆から除かれることになります。―コリ一 5:11,13。

      多くの奉仕者はこの精錬に快く応じました。しかし,従来の見方を許容し,独自の立場を取る人たちもいました。2つの会衆では,奉仕者の半数以上がエホバの組織と交わるのをやめてしまいます。一方,忠節を保った人たちはより活発になり,エホバに祝福されていることが明らかになりました。

      兄弟たちの尽力により,やがてフリータウンの王国会館が挙式の場所として認可されます。1954年9月3日,兄弟たちは正式な結婚式を初めて執り行ないます。後に,政府は幾人かの兄弟たちに,全国の7つの地区で結婚式を執り行なう資格を与えます。これにより,多くの関心のある人が法的に結婚することができ,良いたよりの伝道者の資格を満たせるようになりました。

      107ページの図版

      王国会館での結婚式

      一夫多妻婚をしている関心のある人たちも,神の規準に従うために調整を図りました。現在はボンティに住むサミュエル・クーパーはこう言います。「1957年に二人の妻と一緒に集会に出席し始め,まもなく神権宣教学校に入りました。ある日,クリスチャンの結婚に関する話をする割り当てを受けました。資料を調べると,2番目の妻を去らせる必要があることに気づきました。そのことを親族に話すと,みんなから反対されました。2番目の妻との間には子どもが一人いましたが,1番目の妻には子どもがいませんでした。それでも聖書の原則に従おうと心に決めていました。驚いたことに,2番目の妻が家族のもとに戻ると,1番目の妻に子どもができました。今では,子どもが5人います」。

      ギニアとの国境を越えた所に住むオノレ・カマノも,3人の妻のうち二人を去らせました。すると1番目の妻は感謝し,真理をより真剣に受け止めるようになりました。去ることになった二人のうちの一人は,がっかりしたものの,オノレが聖書の原則を重んじたことに感銘を受けました。聖書研究を願い出,後にエホバに献身しました。

      エホバの証人は結婚を誉れあるものとする人たちとして知られている

      現在,エホバの証人はシエラレオネでもギニアでも,結婚を誉れあるものとする人たちとして知られています。夫婦間の貞節は神の教えを飾り,結婚の取り決めを設けられた神への賛美となっています。―マタ 19:4-6。テト 2:10。

      フリータウンで生じた分離

      1956年,さらに二人のギレアデ卒業生がフリータウンに到着します。チャールズ・チャペルと妻のレバです。宣教者ホームに向かう途中,二人はウィルバーフォース・メモリアルホールでの聖書講演の大きな広告を目にし,戸惑います。「広告にあった講演者はC・N・D・ジョーンズで,“エホバの証人のエクレシア”の代表者となっていました」と,チャールズは述べています。

      油そそがれた者と称えるジョーンズは,数年前にフリータウンの会衆から離脱したグループを率いていました。そのグループはエホバの“真の”証人であると主張し,宣教者のことや組織の代表者に忠節な人たちのことを“詐欺師”や“ギレアデ・カウボーイ”などと呼んでいました。

      事態は悪化し,ジョーンズと支持者たちは排斥されます。チャールズはこう述べています。「その発表にショックを受け,反対者たちを容認しようとする兄弟たちもいました。不平を公然と訴える人も数名おり,ほかの人たちと一緒になって反対者と交わりつづけ,集会や野外奉仕の取り決めを妨害しようとしました。不満を抱く人たちは集会で,反対者の席と呼ばれた場所に固まって座りました。ほとんどはやがて真理から離れてしまいましたが,霊的なバランスを取り戻して熱心な奉仕者になった人たちもいます」。

      大勢の人が忠節の立場を取ったことにより,神の霊は妨げられることなく流れつづけました。翌年,地帯監督ハリー・アーノットはフリータウンを訪問した際にこう述べました。「ここ数年,シエラレオネでこれまでにない確かな増加が生じています。今後の進展を十分に期待できます」。

      キシ族を教える

      アーノット兄弟の訪問後まもなく,チャールズ・チャペルが隣国リベリアの兄弟から手紙を受け取ります。その兄弟はシエラレオネで自分の民族に伝道することを望んでいました。それはキシ族のことで,シエラレオネとリベリアとギニアの国境付近に広がる起伏の多い森林地帯に住んでいます。キシ語を話す人の中に,聖書を理解したいと願う人がたくさんいるようでした。

      キシ族の多くは読み書きができなかったので,聖書の基本的な真理を教えられるようにするため,コインドゥで識字クラスが開かれました。何百人もがクラスに参加しました。チャールズはこう述べています。「すぐに新しい伝道者が5人誕生し,10人,15人,20人と増えていきました。あまりにも急速に人々が真理に入ったので,本当の伝道者なのだろうかと思うほどでした。でもわたしが間違っていました。ほとんどが忠実で熱心な伝道者だったのです」。

      程なくして,熱意に満ちた新しい伝道者たちは良いたよりをコインドゥの向こうに,やがてはギニアにまで伝えました。何時間もかけて山々を越え,農場や村で伝道しました。当時の巡回監督エリエザー・オウドウィは,「何週間も,時には何か月も,車の音を聞くことが全くありませんでした」と述べています。

      キシ族の兄弟姉妹は王国の種をまいて水を注ぎ,神がそれを成長させてくださいました。(コリ一 3:7)目の見えないある若い男性は真理を聞き,『御国のこの良いたより』という32ページの小冊子をすべて暗記しました。そして伝道や聖書研究の司会の際に節をそらで言い,人々を驚かせました。また,耳の聞こえないある女性は真理を受け入れ,大きな変化を遂げました。それを見た義理の妹は10㌔もの道のりを歩いて集会に出席するようになりました。

      キシ族への伝道活動はたちまち実を結びました。会衆が一つ,次いでもう一つ設立されます。約30人が開拓奉仕を始めます。コインドゥでは,町長が真理に関心を持つようになり,王国会館を建てられるよう土地を寄付しました。カイラフンでは,巡回大会に500人以上が出席し,そこにも会衆が出来ました。程なくして,シエラレオネのエホバの証人の約半分をキシ族が占めるようになりました。全人口の2%に満たないキシ族から,多くの兄弟姉妹が誕生したのです。

      とはいえ,この躍進を喜ばない人たちもいました。とりわけ,ねたみに駆られたキシ族の宗教指導者は,いまや脅威となったエホバの証人を除き去ろうと意気込みました。いつどのようにして攻撃したでしょうか。

  • 1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第3部)
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第3部)

      ポロに立ち向かう

      最初の攻撃は,コインドゥの近くの村で起きました。そこでは男性のグループが聖書を学び,集会に定期的に出席していました。キシ族の多くの男性と同様,その人たちは,心霊術とかかわりの深いポロという秘密結社に属していました。シエラレオネで奉仕したギレアデ卒業生の宣教者ジェームズ・メンサはこう説明しています。「聖書研究生が悪霊的な儀式に参加するのを拒むと,ポロの頭は激怒しました。頭と取り巻きたちは研究生たちを殴打し,持ち物を奪い,家を焼き払い,鎖で縛って草むらに置き去りにして餓死させようとしました。大首長がポロのメンバーをあおり立てたのです。こうした仕打ちを受けても,研究生たちは堅く立ちました」。

      コインドゥの兄弟たちが警察に通報すると,ポロの頭と仲間たち,そして大首長は逮捕されました。その後裁判にかけられ,厳しくとがめられます。大首長は1年近くその立場から退かされました。この法的勝利は広く知られ,新しい人たちは集会に行きやすくなりました。後に,大首長は心を入れ替え,真理に関心を示すようになります。近くで巡回大会が開かれた時には,出席者たちに泊まる場所を準備し,大きな牛1頭を寄付したほどです。

      ポロの他のリーダーたちは別の形での攻撃を試み,悪賢くも「布告によって難儀を仕組み」ます。(詩 94:20)ポロの政治家たちが議会に,エホバの証人の活動を禁じる法案を提出したのです。チャールズ・チャペルはこう述べています。「しかし,大首長がわたしたちの弁護に回り,自分は2年間エホバの証人と研究したことがあると議会に告げました。エホバの証人の組織が全く政治的なものではなく,人々を教育して道徳を向上させていると言いました。そして,いつか自分もその一員になりたいと宣言しました。研究していた別の議員も大首長に同調し,法案は通りませんでした」。

      「神に食べさせてもらえばいい!」とやじられました

      秘密結社をやめた人たちは,家族から厳しい反対を受けました。コインドゥの十代の若者ジョナサン・セルは,4代続くまじない師の家庭に生まれ,仕事を継ぐよう育てられました。しかし,聖書を研究し始めると,心霊術的な儀式や捧げ物をしなくなります。家族は激しく反対しました。学校に通えないようにし,クリスチャンの集会に行く時には食べ物を与えず,「神に食べさせてもらえばいい!」とやじりました。それでも,ジョナサンは堅く立ちました。おなかをすかせて困ることはなく,読み書きを学び,後に正規開拓者になりました。しかも,うれしいことに母親が真理を受け入れました。

      他の地域での増加

      1960年の時点で,会衆と孤立した群れは,ボー,フリータウン,キッシー,コインドゥ,ルーンサル,マグブラカ,マケニ,モヤンバ,ポート・ロコ,ウォータールー,そして北方のカバラにありました。伝道者数はその年,182人から282人に跳ね上がりました。拡大する会衆を強めるため,ガーナとナイジェリアから多くの特別開拓者がやって来ました。

      新しい人たちは,おもに2つの民族で成っていました。フリータウンとその周辺に住むクリオと,東部州に住むキシ族です。しかし,良いたよりが広められるにつれ,他の民族もこたえ応じるようになります。クランコ族,リンバ族,北のテムネ族,南のメンデ族などです。

      1961年,フリータウン東会衆は王国会館を献堂します。次いでコインドゥ会衆が,泥れんが造りで座席数300の,大会ホールを兼ねた王国会館を献堂します。その後まもなく,40人の長老がシエラレオネで最初の王国宣教学校に出席しました。この歴史的な年の終わりには,「新世界訳聖書」を公に提供するキャンペーンが行なわれ,成功を収めました。

      116ページの図版

      シエラレオネでの王国宣教学校,1961年。ウィリアム・ヌーシー(後ろの列,中央),チャールズ・チャペル(真ん中の列,右から2番目),レバ・チャペル(前の列,右から3番目)

      エホバは確かにご自分の民を祝福しておられました。1962年7月28日,多くの国で用いられていた法人である「国際聖書研究者協会」がシエラレオネ政府によって正式に認可されました。

      ギニアへの扉が開く

      ここで隣の国ギニア(旧称フランス領ギニア)に目を向けてみましょう。1958年より前は,この国を一時的に訪れた何人かの兄弟たちが簡単な証言をしましたが,フランス植民地当局はエホバの証人の活動に反対していました。しかし1958年,門戸が開かれます。ギニアはフランスの支配を退け,共和国として独立したのです。

      その後,同じ年に,フランス語を話す30代前半のマヌエル・ディオゴがダオメー(現在のベナン)からやって来ます。そして首都コナクリの北80㌔の町フリアのボーキサイト鉱山で働き始めます。手つかずの区域で伝道する意欲に満ちたマヌエルは,フランス支部に手紙を書き,出版物の発送と特別開拓者の助けを要請します。手紙をこう結んでいます。「伝道活動をエホバが祝福してくださることを祈っています。ここには関心のある人が非常に多くいるからです」。

      フランス支部はマヌエルに励ましの手紙を送り,可能な限りギニアにとどまるよう勧めます。そして宣教の訓練を与えるため,特別開拓者の訪問を取り決めます。マヌエルは励ましから力を得て,1968年に亡くなるまで,フリアで熱心に伝道しました。

      1960年に地帯監督ウィルフレッド・グーチがコナクリを訪問した時,ほかにも二人のアフリカ人の兄弟がそこで伝道していました。グーチ兄弟は,フランス支部ではなくシエラレオネ支部がギニアを世話することを推薦します。その変更は1961年3月1日に実施され,1か月後,ギニアで最初の会衆がコナクリに設立されました。

      熱帯雨林に霊的な光が差す

      良いたよりはギニア南部にも広められてゆきます。かつてリベリアに住んでいたキシ族のファリャ・ゴンドは,ゲケドゥの西13㌔の故郷の村フォデドゥに戻りました。その際,「失楽園から復楽園まで」という本を持ち帰りました。ファリャは字が読めませんでしたが,同じ民族の人たちに本の挿絵を説明できました。その時のことをこう述べています。「その本をきっかけにいろんな話ができました。みんなは“アダムとエバの本”と呼びました」。

      ファリャはリベリアに戻ってバプテスマを受け,後に特別開拓者になります。そして月に2度,フォデドゥに帰って30人ほどのグループと研究しました。程なくして,リベリアから来たキシ族の特別開拓者ボーボー・シーシーも加わり,二人はゲケドゥでもグループと研究を始めます。やがて2つのグループはどちらも会衆になりました。

      キシ族のエホバの証人が増えるにつれ,長たちはその立派な行状に目を留めるようになります。証人たちは勤勉に働き,正直で,村の平和に貢献しました。そのため,フォデドゥに王国会館を建てる許可を願い出た時,長たちは喜んで3ヘクタールの土地を譲ってくれました。ギニアで最初のその王国会館は1964年に完成しました。

      コナクリで生じた変動

      そのころ,コナクリで問題が起ころうとしていました。政治的混乱により,役人たちが外国人を疑いの目で見るようになったのです。ギレアデの宣教者4人が永住ビザの取得を拒まれ,強制退去になりました。ガーナの兄弟二人が事実無根の罪で逮捕され,2か月近く勾留されました。

      その二人のうちの一人イマニュエル・オウス-アンサは釈放後,すぐに再逮捕され,劣悪な環境に置かれました。不衛生な監房から手紙を書いています。「霊的には健康ですが,ずっと熱があります。でも伝道は続けられます。先月は,野外奉仕に67時間を費やし,二人の聖書研究生がわたしと一緒に伝道するようになりました」。研究生の一人は真理に入りました。5か月後,オウス-アンサ兄弟は釈放され,シエラレオネに追放されます。コナクリの奉仕者は一人だけになってしまいました。

      政治的緊張が和らいだ1969年,特別開拓者たちがコナクリに到着します。彼らは当局の許可を得て,王国会館を設け,看板を掲げます。まもなく関心のある30人ほどが定期的に集会に出席するようになりました。

      逮捕の危険があったため,兄弟たちは当初,慎重に伝道していました。しかし状況を把握するにつれ,奉仕を拡大してゆきます。1973年中,コナクリの小さな会衆は6,000枚ものパンフレットを配布します。その後,商業地区での雑誌の提供も開始します。役人や一般の人たちは徐々に,エホバの証人の活動を理解して評価するようになりました。兄弟たちの辛抱強い不断の努力により,ついに1993年12月15日,「ギニアのエホバの証人のクリスチャン協会」が法的に認可されました。

  • 秘密結社
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      秘密結社

      秘密結社は西アフリカ中に広く見られ,民族や文化や言語の枠を超えたものです。結社はメンバーの社会的・教育的・政治的な活動を定めますが,おもに宗教的な役割を果たします。2大秘密結社として,ポロ(男子結社)とサンデ(女子結社)があります。a ポロ結社の場合,目指すのは,「霊を操り,人間の物事に役立つように介入させること」です。―「イニシエーション」(英語),1986年。

      112,113ページ,全面図版

      ポロに新しく加入するメンバーは,霊界の秘義や魔術的な力について教えられ,体に傷を付ける儀式を施されます。サンデの新しいメンバーも心霊術的な儀式を学び,多くの場合,女性性器切除を受けます。この切除の慣行は,行なわれなくなった地域もあります。

      秘密結社の中には,性的な行動を定めたり,精神疾患や他の病気に心霊治療を施したりするものもあります。シエラレオネの内戦の際,メンバーは銃弾の影響を受けることはない,と主張する秘密結社もありましたが,実際はそうではありませんでした。

      グループの教えや儀式について口外することは禁じられています。おきてや儀礼に従わないなら,命を危険にさらすことになります。

  • 「1年もしないうちに死んでしまうよ」
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      「1年もしないうちに死んでしまうよ」

      ザキアス・マーティン

      • 生まれた年 1880年

      • バプテスマ 1942年

      • プロフィール 72歳で開拓奉仕を始めた。

      99ページの図版

      ザキアスは聖書をだれかと研究したことが一度もありませんでした。しかし,「救い」と「神の立琴」の2冊の本を読んで,真理を見つけたと確信しました。

      1941年のある日曜日の朝早く,ザキアスはエホバの証人の集会に初めて出席するため,出かけました。険しい山道を8㌔ほど下った所で開かれている集会です。何時に始まるか知らなかったので,数時間早く到着し,兄弟たちが来るのを座って待ちました。王国会館での日曜日の集会に3回出席した後,地元の英国国教会に行き,名簿から除いてほしいと申し出ました。

      同じ教会に行っていた仲の良い友人がザキアスにこう注意しました。「君ね,8㌔も歩いてこの山を登ったり下りたりして,あの連中の会館へ行き続けた日には,1年もしないうちに死んでしまうよ」。その友人は,ザキアスが週に2回その山を上り下りするのを5年間見ていました。すると,友人のほうが突然死んでしまいました。兄弟は25年経った後も,元気でした。

      そして97歳で亡くなるまで,エホバに忠実に仕えました。

  • “バイブル”・ブラウンと呼ばれた人
    2014 エホバの証人の年鑑
    • シエラレオネとギニア

      “バイブル”・ブラウンと呼ばれた人

      ウィリアム・R・ブラウン

      • 生まれた年 1879年

      • バプテスマ 1908年

      • プロフィール 西アフリカの初期の伝道活動において先頭に立った。

      100ページの図版

      パナマ運河の建設に携わっていた1907年,ウィリアム・ブラウンは聖書研究者(エホバの証人の当時の名称)のアイザイア・リチャーズが街角で行なっていた講演を耳にします。リチャーズ兄弟は,神の目的の説明に用いられる「世々の図表」をもとに話していました。ウィリアム・ブラウンはすぐに真理を受け入れ,ジャマイカに戻って母と妹にも伝えます。やがてその二人も聖書研究者になりました。

      ブラウン兄弟はしばらくパナマのパナマ市で奉仕します。そこにいる間,講演旅行でパナマを訪れていた聖書研究者の代表者イベンダー・J・カワードに出会います。力強い生き生きとした話し手で,たくさんの人がその話を聞きに来ました。カワード兄弟はブラウン兄弟の真理に対する熱意を見て,トリニダードでの伝道旅行に誘いました。

      続く10年余りの間,ブラウン兄弟は西インド諸島を旅行して回り,開拓奉仕をしながら小さな群れを強めます。1920年には,忠実な姉妹アントニアと結婚します。結婚式の二日後,二人はリーワード諸島の小島モントセラトに向かいます。「創造の写真劇」(聖書に基づく4部からなる映画とスライド)を持参しました。二人は,バルバドス,ドミニカ,グレナダといった島々でも伝道しました。エホバへの奉仕という新婚旅行を楽しんだのです。

      2年後,ブラウン兄弟は,当時エホバの民の活動を監督していたジョセフ・F・ラザフォードに手紙を書きます。「エホバの助けにより,カリブ海諸島の大半を証言して回り,多くの島で弟子を作ることができました。再び回るとよいでしょうか」。数日後,返事がありました。「妻と子どもを連れて,西アフリカのシエラレオネに行ってください」。

      家族と共に西アフリカで奉仕した27年間,兄弟はいつも,事務所に座っているより外に出かけて伝道することを望みました。聖書の大切さを強調したので,“バイブル”・ブラウンと呼ばれるようになりました。

      1950年,71歳の時に兄弟は妻と一緒にジャマイカに戻り,そこでも開拓奉仕を行ないました。そして1967年に地上での歩みを終えるまで続けました。開拓奉仕を本当に愛し,人の得られる最高の特権だと感じていたのです。

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