-
1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第3部)2014 エホバの証人の年鑑
-
-
を配布します。その後,商業地区での雑誌の提供も開始します。役人や一般の人たちは徐々に,エホバの証人の活動を理解して評価するようになりました。兄弟たちの辛抱強い不断の努力により,ついに1993年12月15日,「ギニアのエホバの証人のクリスチャン協会」が法的に認可されました。
-
-
1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第4部)2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
1945-1990年 「多くの者を義に導」く ― ダニ 12:3(第4部)
低い識字率に取り組む
1963年の初め,ミルトン・ヘンシェルはシエラレオネの2度目の訪問の際に,支部がしばらく取り組んできた課題に目を向けます。低い識字率に対処するため,いっそう努力を払うよう勧めたのです。
すでに幾つかの会衆は英語の識字クラスを開いていました。しかしヘンシェル兄弟の訪問後,生徒たちの母語で読み書きを教えるようになります。クラスを2つや3つの言語で設けた会衆もあります。識字クラスは評判を呼び,国内の奉仕者の3分の1が参加しました。
1966年,リベリアの兄弟たちが,キシ語の読み方を教える挿絵付きの小冊子を作ります。リベリア政府の役人たちにその教本を見せると,役人は感銘を受け,無償で印刷して配布することにしました。教本はギニア,リベリア,シエラレオネで配られ,キシ語を話す大勢の人が読み書きを学ぶのに役立てました。後に,教本は他の言語グループのために応用され,多くの人がそれを使って読み書きができるようになりました。
シアは黒と赤のひもを使って伝道の記録を取っていた
識字クラスは読み書きを教えるだけでなく,霊的な進歩を助けました。バプテスマを受けていない伝道者だった50歳の女性シア・ンガラの例があります。シアは読み書きができず,黒と赤のひもを使って伝道の記録を取っていました。1時間伝道すると黒のひもに結び目を1つ作り,1件再訪問をすると赤のひもに結び目を1つ作るのです。しかし識字クラスに参加し,宣教の記録を正確に付けられるようになりました。進歩してバプテスマを受け,より効果的に伝道したり教えたりできるようになりました。
シエラレオネとギニアでは,現在でも多くの会衆で識字クラスが開かれています。シエラレオネのある政府高官は,支部事務所の兄弟たちにこう語りました。「皆さんは,聖書教育活動に加え,この社会の人々に読み書きを教えるという立派な活動を行なっておられます」。
「石が叫ぶ」
様々な民族の多くの人が字を読めるようになると,翻訳の必要が大きくなりました。大半の民族には,自分の言語で読める一般の出版物はなく,あってもごくわずかでした。教育を受けた人はシエラレオネでは英語,ギニアではフランス語を読めます。では,母語で書かれた聖書文書を提供するため,何ができるでしょうか。
1959年,二人のギレアデの宣教者がパンフレットと小冊子をメンデ語に翻訳しましたが,この2つは限られた数が配布されただけでした。10年後,「御国のこの良いたより」と「正義の新しい世を待ち望んで生活する」という小冊子がキシ語に翻訳されます。これらは約3万部配布され,聖書研究に用いられました。
1975年,支部は「ものみの塔」の研究記事をキシ語で発行し始めます。キシ族の奉仕者たちはとても喜びました。ある兄弟はこう書いています。「エホバはわたしたちのために驚くべきことを行なわれました。わたしたちは皆,学校に行ったことがありません。話すことのできない石のようでした。そんなわたしたちが今では,キシ語の『ものみの塔』を手にし,エホバの偉大な業について語れます」。(ルカ 19:40)ほかにも幾つかの出版物がキシ語に翻訳されました。
今でも,シエラレオネとギニアのほとんどの人は英語かフランス語で出版物を読んでおり,集会もそれらの言語で開かれています。しかし,地元の言語の出版物が大幅に増えています。聖書文書はいまや,ゲルゼ語,キシ語,クリオ語,マニンカカン語,メンデ語,プラール語,スス語で入手できます。「神の言われることを聞いて,いつまでも生きつづけてください」と「神の言われることを聞いてください」のブロシュアーは,これらすべての言語で入手可能です。こうした読みやすい手引き書のおかげで,読解力の限られた多くの人たちが聖書の素晴らしい音信を理解でき,感謝しています。
支部事務所を建てる
1960年代の初め,フリータウンの兄弟たちは新しい支部事務所の建設用地を探していました。ついに1965年,ウィルキンソン・ロードに面した土地を取得します。海を見渡せる,都市の住宅地の中でも指折りの場所です。
そこに建てるのは,王国会館と宣教者ホームと事務所が一つになった立派な建物です。建設中,ウィルキンソン・ロードはよく渋滞になりました。車から現場を見ようとする人がたくさんいたからです。完成した建物は1967年8月19日に献堂されました。300人近くが献堂式に出席し,中には地元の名士たちや,1923年に“バイブル”・ブラウンからバプテスマを受けた長年の奉仕者たちもいました。
フリータウンの支部事務所と宣教者ホーム(1965-1997年)
新しい支部の建物ができたことにより,エホバの証人の活動を多くの人が高く評価するようになりました。そして,エホバの証人はシエラレオネに居続けることはないだろう,と言った宗教批評家たちへの答えが出されました。新しい建物は,エホバの証人がそこにずっと居ることをはっきりと告げていたのです。
増加に貢献した熱心な宣教者たち
野外奉仕で,ぬかるんだ田んぼの中を通る兄弟姉妹
1970年代半ばから,ギレアデで訓練を受けた宣教者たちが相次いでやって来て,シエラレオネとギニアでの活動を後押ししました。アフリカの別の国で奉仕した経験があり,すぐに順応した人もいれば,初めてアフリカに来た人もいました。この“白人の墓場”での生活にどのように慣れていったのでしょうか。何人かのコメントを見てみましょう。
「人々は謙遜で,霊的に飢えていました。そうした人たちが真理を知って生活を変えるのを見て,深い満足感を味わいました」。―ハンネロール・アルトミヤ。
「熱帯特有の気候と病気がたいへんでした。でも,エホバに仕えるよう心の正直な人たちを助ける喜びはそれとは比べものになりませんでした」。―シェリル・ファーガソン。
「辛抱強さを学びました。ある姉妹に,お客さんがいつ来るのかを尋ねると,『今日かもしれません。明日かもしれません。いや,あさってかもしれません』と言われました。わたしはけげんな表情をしたのでしょう。姉妹は『でも,必ず来ます』と言いました」。―クリスティン・ジョーンズ。
「民族も文化も違う14人の宣教者がフリータウンの宣教者ホームで一緒に暮らしました。2つのトイレ,1つのシャワー,1つの洗濯機,1つの台所を共同で使いました。食べ物は限られていて,質もよくありません。突然停電になって,何日か続くこともありました。ほとんどがマラリアなどの熱帯病にかかりました。悪い条件がそろっているかのようですが,わたしたちは一緒に生活して,許し合い,難しい時にはユーモアを示すことを学びました。伝道はとても楽しく,宣教者たちは友情の固い絆で結ばれました」。―ロバート・ランディスとポーリン・ランディス。
聖書研究を司会するポーリン・ランディス
「わたしたちの人生の中でもシエラレオネでの日々は特に充実していました。何の後悔も不満もありません。本当に良い思い出です」。―ベンジャミン・マーティンとモニカ・マーティン。
「ある関心のある女性の家に泊めてもらった時,得体の知れない食べ物が出てきました。『これ,ヘビです。毒牙は取ってありますので,どうぞ』。失礼にならないように断わりましたが,それでも勧めてきました。こういう怖い経験もしましたが,温かなもてなしはとてもありがたく,そんな人々が大好きになりました」。―フレデリック・モリッシーとバーバラ・モリッシー。
「43年にわたる宣教者奉仕の間に,100人余りの宣教者と生活を共にしました。これほど大勢の人と知り合うことができたのは本当に大きな特権です。みな個性は違いますが,同じ目標を持って奉仕しているのです。神と共に働く者となり,人々が聖書の真理を受け入れるのを見ることができたのは,何という喜びでしょう」。―リネット・ピータース。
「神と共に働く者となり,人々が聖書の真理を受け入れるのを見ることができたのは,何という喜びでしょう」
1947年以来,シエラレオネでは154人,ギニアでは88人の宣教者が奉仕してきました。必要の大きな所で奉仕するためにやって来た他の証人たちもたくさんいます。現在,シエラレオネには44人,ギニアには31人の宣教者がいます。その粘り強い努力と献身的な奉仕は,大勢の人の生き方に感化を与えてきました。支部委員会で長年奉仕しているアルフレッド・ガンはこう言います。「彼らについて思う時,本当に温かな気持ちになります」。
-
-
大会バッジが“パスポート”に2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
大会バッジが“パスポート”に
「ギニアのゲケドゥで1987年に開かれた『神の平和』地域大会に1,000人以上の代表者が出席しました。シエラレオネとリベリアの代表者たちは,大会会場が国境を越えてすぐの所にあったので,毎日通うことにしました。ところが,兄弟たちはパスポートを持っていませんでした。それで,責任ある兄弟たちが国境管理の当局と掛け合い,特別の許可を得ました。代表者はパスポートの代わりに大会バッジさえあればよいことになったのです。国境警備員はオレンジ色のバッジを見るとすぐ,代表者を通してくれました」。―エベレット・ベリー,元宣教者。
大会で食事を楽しむ
-
-
1991-2001年 「苦悩の溶鉱炉」― イザ 48:10(第1部)2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
1991-2001年 「苦悩の溶鉱炉」― イザ 48:10(第1部)
内戦
1980年代には,社会的・政治的・経済的問題が火種となり,西アフリカ全土で紛争が生じました。隣国リベリアが戦禍を被ると,多くの人がシエラレオネに逃げてきました。支部は避難してきた証人たちが住めるよう家や王国会館を提供し,兄弟たちが世話を行ないました。
避難民にとって苦難の時でしたが,ほほえましいエピソードもあります。長年の宣教者イゾルデ・ローレンツはこう話します。「お父さんに頼まれて男の子が王国会館の裏手にやって来ました。そこは支部の所有地で,男の子は庭に設けられた炉で食べ物を温めました。お父さんの所に戻ると,今日は食事ができないと伝えます。どうしてかと尋ねられて,こう言いました。『だって今日はね,エホバがライオンの口からぼくを助けてくれたんだもん』。何が起きたかというと,食べ物を持って帰る途中,支部が飼っている大きなシェパード犬のロボに出くわしたのです。ロボは危険な犬ではありませんでしたが,男の子は襲われるのではと思いました。手をできる限り伸ばして食べ物の皿を差し出し,逃げようとしました。ロボはもちろん餌をもらったと思い,喜んで食べました」。
リベリアでの武力紛争がシエラレオネとの国境にまで及び,1991年3月23日,その後11年続くことになる内戦が勃発します。革命統一戦線(RUF)という反政府勢力があっという間にカイラフンやコインドゥに攻め進み,地元住民の大半がギニアに避難します。その中には約120人の兄弟姉妹もいました。反政府軍が来る前に,リベリアからシエラレオネに避難した証人たちも大勢いました。
当時の支部委員会の調整者ビリー・カウアンはこう述べています。「数か月にわたり,おなかをすかせ憔悴しきった兄弟たちがまとまって何組もフリータウン・ベテルにやって来ました。言葉にならない残虐行為を目にし,野草を食べて飢えをしのいできた人が多くいました。わたしたちはすぐに食べ物と着る物を与え,一緒に来た家族や関心のある人も世話しました。地元の兄弟姉妹は寛大に避難民を自宅に招き入れました。避難してきた証人たちはすぐに野外奉仕を忙しく行なうようになり,会衆に貢献しました。ほとんどの人はやがて移動しましたが,ここにいる間,わたしたちを強めてくれたのです」。
シエラレオネでは11年間内戦が続いた
慰めと希望が与えられる
支部は,ギニア南部の難民キャンプにいる証人たちのため,食料,薬,建築資材,工具,調理器具を供給しました。フランスからの大量の衣類の寄付も送られました。ある父親はこう書いています。「うちの子たちは歌って踊ってエホバを賛美していました。集会に着て行く新しい服をもらえたんです」。こんなにおしゃれをしたのは初めて,と言った兄弟姉妹もいました。
しかし,避難してきた人たちには物資以上に必要なものがありました。「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」とイエスが言ったとおりです。(マタ 4:4)支部は聖書文書を送り,大会を通常どおり開きました。開拓者や旅行する監督が避難民のもとに遣わされました。
巡回監督のアンドレ・バートはギニアのクンドゥーを訪問した時,難民キャンプの係官から,避難民に聖書の講話をしてはどうかと言われました。そこで50人ほどの人に,詩編 18編に基づく「エホバのもとに避難する」という話をしました。話が終わると,年配の女性が立ち上がってこう言いました。「話を聞いて本当に心が温まりました。お米では問題は解決できませんが,聖書は神に希望を置くことを教えているんですね。慰めと希望を与えてくださって本当にありがとうございます」。
宣教者のウィリアム・スローターと妻のクラウディアがギニアのゲケドゥに割り当てられた時,100人以上の難民からなる会衆は霊に燃えていました。(ロマ 12:11)ウィリアムはこう話します。「多くの若い兄弟が霊的に意欲的でした。神権宣教学校で割り当てを果たせない人がいると,進んで代わりを申し出る若い兄弟が10人から15人もいました。たくさんの人がグループに分かれて熱心に伝道に出かけました。そうした熱意ある若者たちは,やがて特別開拓者や旅行する監督になりました」。
紛争のさなかの建設
内戦が始まってまもないころ,フリータウンの兄弟たちはウィルキンソン・ロード133番地に,0.6ヘクタールの土地を購入しました。支部事務所から道を数百メートル下った所にある土地です。アルフレッド・ガンはこう述べます。「そこに新しいベテル・ホームを建てたいと思っていましたが,戦争のことが心配でした。そのころ統治体のロイド・バリーの訪問を受けていたので,気がかりな点を話しました。するとこう言われました。『戦争のことでしり込みするなら,何も成し遂げられませんよ』。この励ましのおかげで勇気が出て,計画を進められました」。
このプロジェクトのため,大勢の兄弟たちが働きました。12か国から50人以上の奉仕者が駆けつけ,地元の会衆の人たちも喜んで手伝いました。建設が始まったのは1991年5月です。建設を監督したトム・ボールはこう話します。「人々は現場で造られる高品質のブロックを見て感心しました。鉄骨の建物は現地の建物とは大きく異なっていました。ですが,人々がもっと感銘を受けたのは,外国から来た白人と現地の黒人が一緒に仲良く働いている様子でした」。
1997年4月19日,喜びの日を迎えました。いろいろな国から来た人たちが新しい支部施設の献堂式に集ったのです。しかし1か月後,5年にわたって地方の町で残虐行為を働いてきたRUFがフリータウンに攻め込んできます。
フリータウン支部の建設の様子と現在の支部
フリータウンでの戦い
ごわごわの髪に赤いヘッドバンドをしたRUF兵士の集団がフリータウンに押し寄せ,略奪やレイプ,殺戮を行ないました。アルフレッド・ガンはこう述べています。「非常に緊迫した状況でした。外国から来た宣教者のほとんどはすぐに国外に退避しました。あとはビリー・カウアンと妻のサンドラ,ジミー・ホランドと妻のジョイス,わたしと妻のキャサリンだけになりました」。
「とどまることを申し出てくれた地元のベテル奉仕者たちと共に祈ってから,退避場所に急ぎました。途中で,酒に酔った恐ろしげな反政府軍兵士20人ほどに止められましたが,雑誌とお金を渡すと,行かせてくれました。そして,重装備の米海兵隊員が配置された安全なチェックポイントにたどり着き,1,000人以上の避難者に合流できました。米軍のヘリコプターに乗り込み,洋上の軍艦に運ばれました。船の士官から後で聞いたところによると,この度の民間人の退避作戦はベトナム戦争後に米海軍が行なった中で最大規模のものだったようです。翌日,ヘリコプターでギニアのコナクリに行き,そこで仮の支部事務所を開きました」。
他の避難者と共に退避するアルフレッド・ガンと妻のキャサリン
宣教者たちは不安を抱きながらフリータウンからの知らせを待ちました。ようやく届いた手紙にはこうありました。「混乱のさなかでも,『王国ニュース』第35号,『いつの日かすべての人が互いを愛するようになりますか』の配布を行なっています。人々はよく耳を傾けてくれます。反政府軍の中にも研究する人がいるほどです。わたしたちは伝道活動にいっそう力を入れる決意でいます」。
巡回監督として奉仕していたジョナサン・ムボーマは,当時を振り返ってこう言います。「特別一日大会をフリータウンで開くこともしました。霊的にとても励まされるプログラムだったので,ボーとケネマにも出かけ,そこでもプログラムを提供しました。戦争の被害を受けたそうした町の兄弟たちは,素晴らしい霊的食物を得られてエホバに感謝しました。
「1997年の終わりに,フリータウンのナショナル・スタジアムで地域大会を開きました。最終日,反政府軍の兵士たちがスタジアムに入ってきて,退去するよう要求してきました。わたしたちはプログラムが終わるまで待ってくれないかと必死に求めました。長い話し合いの後,彼らは態度を和らげ,立ち去りました。1,000人以上が大会に出席し,27人がバプテスマを受けました。危険を顧みずボーまで旅をし,大会をもう一度楽しんだ兄弟たちもいます。本当に素晴らしく,感動的な大会でした」。
-
-
1991-2001年 「苦悩の溶鉱炉」― イザ 48:10(第2部)2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
1991-2001年 「苦悩の溶鉱炉」― イザ 48:10(第2部)
ベテルが襲撃される
1998年2月,政府軍と西アフリカ諸国経済共同体監視団(ECOMOG)の軍隊が,反政府軍をフリータウンから排除するため,全面的な攻勢に出ます。悲しいことに,激しい戦闘のさなか炸裂した榴散弾によって,兄弟が一人亡くなりました。
150人ほどの奉仕者がキッシーとコクリルの宣教者ホームに避難しました。ベテルで夜警をしていた二人のうちの一人ラディー・サンディーはこう述べています。「夜遅く,フィリップ・トゥーレイと警備をしていると,武装したRUF兵士二人が現われ,ロビーのガラスのドアを開けるよう要求してきました。わたしたちがすぐに安全な場所に移動すると,二人はドアの錠を何度も撃ちました。でも錠は持ちこたえました。結局,ガラスを撃つことはせず,いら立った様子で,立ち去りました。
「二日後の夜,兵士たちは,血気にはやる武装した仲間を20人ほど引き連れて再びやって来ました。わたしたちはすぐにベテル家族に知らせ,地下に作っておいた避難場所に急ぎました。真っ暗な中,7人で2つの大きな樽の陰で恐怖におびえながら身を潜めました。兵士たちは建物に侵入しようと,何度も発砲して錠を溶かしてしまいました。『エホバの証人のやつらを見つけろ! のどをかき切ってやれ!』というどなり声が聞こえました。兵士たちが建物の中を荒らし回る間,わたしたちはじっとうずくまっていました。7時間後,ついに彼らはけりをつけ,帰って行きました。
「わたしたちは荷物をまとめ,コクリルの宣教者ホームに走って行きました。以前のベテル・ホームだった場所で,道を少し上った所にあります。行く途中,兵士たちの別のグループに物を奪われました。宣教者ホームに着いても恐怖で震えていましたが,命があることを感謝しました。数日休んだ後,ベテルに戻り,荒らされた建物を片付けました」。
2か月後,ECOMOGの軍隊が都市を制圧します。それにより,宣教者たちがギニアから戻れるようになりました。とはいえ,長くはとどまれないことを,その時は知る由もありませんでした。
皆殺し作戦
8か月後の1998年12月のことです。フリータウンのナショナル・スタジアムで「神の命の道」地域大会が開かれ,数百人がプログラムを楽しんでいました。しかし突如,低い音がとどろき,丘から煙が立ち上ります。反政府軍が戻ってきたのです。
その後,フリータウンの状況は悪化します。支部委員会は小型飛行機をチャーターし,宣教者12人,外国人のベテル奉仕者8人,建設奉仕者5人をコナクリに避難させます。3日後の1999年1月6日,反政府軍は「皆殺し作戦」と呼ぶ殺戮を始めます。この恐ろしい侵略により,フリータウンは壊滅し,およそ6,000人の民間人が殺されます。反政府軍は手当たり次第に人々の手足を切断し,何百人もの子どもを連れ去り,何千もの建物を破壊しました。
とても慕われていた兄弟,エドワード・トビーが残忍な仕打ちを受けて殺害されてしまいました。精神的な傷を負った奉仕者たち200人以上がベテルかコクリルの宣教者ホームで寝泊まりしました。自宅で身を潜めた人たちもいます。都市の東端にあるキッシーの宣教者ホームに避難した証人たちもいましたが,そこで,緊急に薬が必要になりました。しかし都市を横断して届けるのは極めて危険です。だれが行くでしょうか。ベテルの勇敢な夜警係ラディー・サンディーとフィリップ・トゥーレイがすぐさま買って出ます。
フィリップはこう話します。「都市は混乱状態にありました。幾つもの検問所に反政府軍兵士が配置され,人々に蛮行を働いていました。厳重な外出禁止令により,日中のわずかな時間しか移動できませんでした。ベテルを出てから二日後,やっとキッシーの宣教者ホームに到着しましたが,そこは荒らされ,火で焼かれていました。
「周囲を見回ると,アンドリュー・コルカーという兄弟を見つけました。ぞっとするような傷を頭に負っていました。兵士たちに縛られて何度も斧で殴られたものの,奇跡的に死を免れ,逃げてきたのです。わたしたちは急いで病院に担ぎ込みました。兄弟はそこで徐々に回復し,その後正規開拓者になりました」。
(左から右)ラディー・サンディー,アンドリュー・コルカー,フィリップ・トゥーレイ
クリスチャンが中立の立場を取るという評判のおかげで,死やけがを免れた証人たちもいます。ある兄弟はこう述べています。「兵士たちから,白いバンダナを巻いて道で踊り,彼らの主張を支持するようにと求められました。『やらないと,手か足を切り落とすか殺すか,どっちかだぞ』と言われました。妻とわたしは恐怖に駆られながら脇に寄り,無言でエホバの助けを祈り求めました。すると,追い詰められたわたしたちを見て,反政府軍を支持する近所の若者が,兵士の隊長に言いました。『彼は我々の“兄弟”です。政治にはかかわりません。代わりにわたしたちが踊ります』。兵士はそれをよしとし,立ち去ったので,わたしたちはすぐ家に戻りました」。
そのうち都市には不気味な静けさが漂うようになり,兄弟たちは用心しながら集会と野外奉仕を再開します。検問所でエホバの証人であることを示すため,大会バッジを身に着けました。そして,そこに出来る長い列に並ぶ際,巧みに聖書についての会話を始めました。
都市では何もかもが枯渇していたため,英国支部から200カートンの救援物資が送られます。コナクリからフリータウンへの物資の空輸にはビリー・カウアンとアラン・ジョーンズが付き添い,幾つもの検問所を通過しました。ベテルに物資が着いたのは,夜間の外出禁止時間に入る直前でした。ほかにも,ジェームズ・コロマが遣わされ,コナクリから聖書文書その他の必需品を運びました。そうした霊的食物はボーやケネマの孤立した奉仕者にも届けられました。
救援物資がフリータウンに到着する
1999年8月9日,コナクリにいた宣教者たちがフリータウンに戻り始めます。翌年,英国の遠征軍が反政府軍をフリータウンから締め出します。しばらくは戦闘が散発的に生じましたが,2002年1月,戦争の終結が宣言されます。11年に及ぶ戦闘により,5万人が殺され,2万人が手や足を失い,30万戸の家が破壊され,120万人が退去を余儀なくされました。
その間,エホバの組織はどのような進展を見たでしょうか。エホバの保護と祝福を確かに経験しました。戦争中,約700人がバプテスマを受けました。何百もの証人たちが戦闘地域を離れなければなりませんでしたが,シエラレオネの伝道者数は50%増加しました。ギニアでは300%以上の増加がありました。何より,証人たちは忠誠を貫きました。「苦悩の溶鉱炉」のただ中で,クリスチャンの揺るがぬ一致と愛を示し,「たゆみなく教え……良いたよりを宣明し続けた」のです。―イザ 48:10。使徒 5:42。
-
-
少年兵が正規開拓者に2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
少年兵が正規開拓者に
わたしは16歳の時,反政府軍の兵士たちによって無理やり入隊させられました。麻薬やアルコールを与えられ,錯乱状態で戦うこともよくありました。何度も戦闘に加わり,ひどく残虐なこともしました。とても後悔しています。
ある日,一人の年配のエホバの証人がバラックに伝道にやって来ました。たいていの人はわたしたち兵士を恐れ,嫌いましたが,その証人は聖書を学ぶよう勧めてくれました。集会に招かれたので,行くことにしました。集会で話された内容は覚えていませんが,そこで受けた温かい歓迎ははっきり覚えています。
戦争が激化すると,エホバの証人と連絡が取れなくなりました。そのころ,わたしは重傷を負い,治療のために反政府軍支配地域へ送られました。戦争が終わる前に,政府支配地域へ逃げ込み,そこで,兵士の武装解除・動員解除・社会復帰を図る教育プログラムを受けました。
霊的な助けを強く求めていました。ペンテコステ派の集会に行きましたが,教会員たちからサタンと呼ばれました。それで,エホバの証人を探しはじめました。証人と会うことができ,研究を始め,集会に出席するようになりました。自分が犯した悪行について兄弟たちに打ち明けると,慰めとなるイエスの言葉を読んでくれました。「健康な人に医者は必要でなく,病んでいる人に必要なのです。……わたしは,義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです」。―マタ 9:12,13。
この言葉にとても感動しました。聖書を教えてくれていた兄弟に,持っていた短刀を渡し,こう言いました。「報復された時に身を守れるよう持っていたんです。でも,エホバとイエスがわたしを愛していることを知ったので,もう持っていたくありません」。
兄弟たちから読み書きも教わりました。そしてバプテスマを受けて,正規開拓者になりました。反政府軍の元兵士に伝道すると,生き方を改めたことを尊敬している,と言ってくれます。わたしの副隊長だった人と研究することもできました。
兵士だった時,3人の男の子の父親になりました。真理を学んで,息子たちにも聖書を教えたいと思いました。うれしいことに,二人がこたえ応じました。一人はバプテスマを受けていない伝道者になり,長男は補助開拓奉仕をしています。
-
-
2002-2013年 近年の進展(第1部)2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
2002-2013年 近年の進展(第1部)
「エホバ,ありがとう!」
情勢が安定するにつれ,兄弟姉妹は被害を受けた自宅に戻りました。特に,戦闘で荒廃したシエラレオネ東部では,戦争中になくなっていた幾つかの会衆が活動を再開します。ある地域の特別開拓者はこう報告しています。「最初の集会に16人,次の集会には36人,その次には56人が集まりました。記念式には77人が出席しました。感激でした」。新しい会衆が9つ設立され,会衆の数は全部で24になりました。ギレアデの宣教者が新たに10人到着し,伝道活動にさらに弾みが付きます。2004年の記念式出席者は7,594人でした。全伝道者数の5倍以上の数です。ギニアでも同じような増加が見られました。
帰還した避難者たちが元の生活に戻れるよう,統治体は速やかに基金を提供します。(ヤコ 2:15,16)救援奉仕者のチームが移動しながら,12棟の王国会館とコインドゥの大会ホールを建設または修繕しました。家を破壊された家族のために,泥れんが造りの簡素な家を42軒造ることもしました。70代のやもめの姉妹はトタン屋根の新しい家のそばに立ち,涙を流してこう言いました。「エホバ,ありがとう! エホバ,ありがとう! 兄弟たち,ありがとう!」
支部は,資金や人材の限られた国々のためのプログラムによる基金を用いた王国会館建設も始めます。ボー西会衆の長老で開拓者のサイドゥ・ジュアナはこう話します。「ある姉妹は,『新しい王国会館を持てるとしたら,わたしは手と足で拍手します!』と言っていました。新しい会館を建てるという発表をすると,その姉妹は席から立ち上がり,手をたたいて踊り出しました。手と足で“拍手”したのです!」
2010年には,ウォータールー会衆が新しい王国会館を献堂します。800人収容の大会ホールに拡張できる会館です。会衆が土地を購入した日,地主の女性に,別の人からより高い値で買いたいという申し出がありました。しかし女性はこう言いました。「この土地には,商売に使う建物より宗教の集会場が建ってほしいと思います」。
資金や人材の限られた国々のためのプログラムにより,シエラレオネに17棟,ギニアに6棟の王国会館が建ちました。簡素ながらも品位のある崇拝の場所に,ますます多くの人が引き寄せられ,集会に出席しています。
失われていたエホバの羊を探す
伝道活動に勢いが出ると,支部は,あまり行っていない区域を伝道する2か月間のキャンペーンを取り決めます。奉仕者たちは1万5,000冊近くの書籍を配布し,たくさんの良い経験をしました。町の人から,ここにエホバの証人の会衆を作ってはどうかと言われた奉仕者もいました。やがて実際に2つの会衆が新たに設立されました。ある辺ぴな村では,戦争中に家を離れ,エホバの組織と連絡が取れなくなっていた二人の姉妹が見つかりました。兄弟たちは村ですぐに定期的な集会を開くようにし,聖書研究を幾つか始めました。
2009年,支部は,ギニアの山奥の村にエホバの証人だと言っている人たちがいることを聞きました。調査のために兄弟たちを遣わすと,かつて,退職後に故郷のその村に帰った年配の兄弟がいたことが分かります。その兄弟は亡くなる前に村人数人と研究をしたようでした。研究生のうちの一人がエホバに信仰を持ち,聖書の知識を他の人に伝えるようになりました。亡くなった兄弟の出版物を使って集会も開きました。その後人々は,一人の奉仕者に偶然見つけられるまで,20年にわたり自分たちだけでエホバを崇拝していたのです。支部は直ちに兄弟たちを送り,霊的な援助を差し伸べました。2012年には,キリストの死の記念式に村の172人が出席しました。
ここ数年,多くの「失われていた」羊が見つかっています。離れた人たちや会衆から除かれた人たちです。そうした放とう息子のような人たちが変化し,真理のもとに戻って来ました。そして兄弟姉妹に温かく迎え入れられています。―ルカ 15:11-24。
誠実なイスラム教徒が真理を受け入れる
使徒パウロは良いたよりを伝える際,「あらゆる人に対してあらゆるもの」となりました。(コリ一 9:22,23)シエラレオネとギニアのエホバの証人も,人々に合わせた伝道をしています。例えば,どちらの国にもイスラム教徒が多くいます。イスラム教徒で,寛容な見方をする人にどのように証言しているでしょうか。
かつてイスラム教徒だったサイドゥ・ジュアナはこう言います。「イスラム教の人は,アダムが塵から造られたと信じていますが,まず天のパラダイスで生活したと考えています。正しい理解を得てもらうため,わたしはこう尋ねます。『塵はどこにあるものでしょうか』。
「『地面です』という答えが返ってきます。
「そこで,『では,アダムはどこで造られたのでしょうか』と聞くと,
「『地上です』と答えてきます。
「要点を理解してもらうため,創世記 1章27,28節を読んでから,尋ねます。『天にいる者たちには子どもがいますか』。
「『いいえ。天使には男性も女性もありません』。
「『神がアダムとエバに子どもをもうけるようにと告げた時,二人はどこにいたのでしょうか』。
「『地上です』。
「『では,神がパラダイスを回復なさる時,どこに回復なさるでしょうか』。
「『この地上です』」。
サイドゥはこう述べています。「このように聖句から筋道立てて論じると,多くの誠実なイスラム教徒はさらに耳を傾け,聖書文書を受け取ります」。
モモという男性の例もあります。店を営むイスラム教徒で,いつかイマーム(指導者)になりたいと思っていました。しかしエホバの証人の宣教者から聖書の筋道立った説明を聞いて,興味を引かれました。巡回大会の一部に出席し,その内容を気に入ります。4日後には,妻のラマツと5人の子どもと一緒にイエスの死の記念式に行きます。次いで真剣に聖書を研究し始め,数回の研究の後,たばこを売るのをやめます。客には,たばこは体によくないし,神も嫌っておられると言いました。そして店で妻や子どもたちと研究を始めます。研究中に客が来ると,研究は家族にとってとても大事なことなので座って待ってほしいと言いました。ラマツとの結婚を正式に届け出ると,親族から猛反対を受けますが,二人はひるまず大胆に証言し,やがて立派な行状により敬意を得るようになります。モモは2008年に,ラマツは2011年にバプテスマを受けました。
血の神聖さを擁護する
エホバの証人は神の道徳規準を勇敢に擁護します。血に対する神の見方もその一つです。(使徒 15:29)シエラレオネとギニアの医療関係者は,この立場を尊重するようになっています。
病院で兄弟たちが姉妹に慰めの言葉をかける
1978年,兄弟たちは「エホバの証人と血の問題」という小冊子をシエラレオネ中の医師,看護師,病院管理者,弁護士,裁判官に配りました。その後まもなく,一人の姉妹が分娩中に内出血を起こしますが,医師たちは無輸血での治療を拒みます。しかし,「血」の小冊子を読んでいたある医師が治療に同意します。小冊子の情報豊かで納得のゆく説明に感銘を受けていたのです。姉妹は元気な男の子を出産し,すっかり回復しました。
1991年ごろ,ケネマ病院の外科医バシル・クルマが「血はあなたの命をどのように救うことができますか」のブロシュアーを読みました。クルマ医師はその内容に感心し,聖書研究を始め,クリスチャンの集会に出席するようになります。そのころ,エホバの証人の9歳の男の子が事故で脾臓破裂を起こします。両親は担当した医師に無輸血の手術を頼みますが,断わられ,「死ぬしかないですね,家に連れて帰ってください」と言われました。しかしクルマ医師に頼んだところ,見事手術を成功させてくれました。
クルマ医師はやがてクルマ兄弟になり,無輸血医療を堅く擁護するようになります。その立場ゆえ,他の医師たちから敬遠されましたが,手がけた患者はいつも順調に回復しました。そのうち,同僚たちから,難しい手術の際に援助を求められるようになりました。
1994年以来,フリータウンにある支部の医療機関情報デスクは,シエラレオネとギニアに医療機関連絡委員会を設けています。この委員会により,大勢の病気の兄弟姉妹が親切なサポートを受け,多くの医療関係者がエホバの証人の立場に理解を示すようになっています。
-
-
2002-2013年 近年の進展(第2部)2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
2002-2013年 近年の進展(第2部)
ろう者を援助する
シエラレオネには3,000人から5,000人,ギニアには数百人のろう者がいると言われています。エホバの「ご意志は,あらゆる人が救われ」ることです。耳の聞こえない人はどのようにして良いたよりを“聞く”のでしょうか。―テモ一 2:4。
1998年にシエラレオネに来たギレアデの宣教者ミシェル・ワシントンはこう話します。「夫のケビンとわたしは,4人のろう者が集会に出席している会衆に割り当てられました。わたしはアメリカ手話ができたので,4人を援助したいと思いました。支部から,集会や大会で手話に通訳するようにと言われ,近隣の諸会衆にその取り決めが知らされました。支部はまた,ろう者を援助したいと願う奉仕者のために手話クラスを開くこともしました。わたしたちは近くに住むろう者を探し,聖書研究を始めました。ろう者を援助する取り組みを見て,地域の多くの人が褒めてくれました。しかし,その努力を喜ばない人もいました。ろう者を世話していた牧師です。わたしたちを『偽預言者』と呼び,ろう者とその家族にわたしたちとかかわらないようにと言いました。かかわるなら経済的な援助を断ち切ると言うこともあったようです。ろう者のコミュニティーはすぐに2つに分かれました。わたしたちに会ったことがなく牧師を支持する人たちと,わたしたちに会ったことがあり牧師を支持しない人たちです。後者の中には,やがて真理の側に立場を定め,進歩してバプテスマを受けた人がいます」。
例えば,フェミは生まれた時から耳が聞こえず,簡単な身ぶりでコミュニケーションを取ることしかできませんでした。人を警戒し,特に聴者には心を許しませんでした。自分は不幸せで,だれからも愛されていないと感じていました。そんな時,手話の群れの兄弟たちと聖書研究を始めます。すぐに集会に定期的に出席するようになり,手話も学びました。進歩してバプテスマを受け,今ではろう者に真理を教えることを楽しんでいます。
大会で王国の歌を歌うフェミ(右端)
2010年7月,フリータウンのアメリカ手話の群れが会衆になりました。また現在,手話の群れがボーとコナクリにあります。
貧しくても「信仰に富」んでいる
聖書によれば,1世紀のクリスチャンの大半は貧しい人たちでした。弟子ヤコブはこう書いています。「神は,世に関しては貧しい者を選んで信仰に富ませ……たのではありませんか」。(ヤコ 2:5)シエラレオネとギニアの奉仕者たちも,エホバへの信仰によって慰めと希望を抱いています。
僻地に住む多くの貧しい証人たちは,信仰ゆえに,地域大会に出席するために何か月もかけてお金をためています。作物を育てて旅費を工面する人もいます。二,三十人が小さなトラックにぎゅうぎゅう詰めになり,暑い中20時間以上かけて,砂ぼこりの舞うでこぼこ道を旅することもあります。長い距離を歩く人たちもいます。ある兄弟はこう言います。「バナナをたくさん持って,まず大会会場に向けて80㌔歩きました。途中でバナナを売って荷物を軽くし,残りの区間のトラック代にしました」。
トラックで地域大会に行く
信仰を働かせ,経済的に豊かな国に移動しないことにしている人もたくさんいます。独身の兄弟のための聖書学校の卒業生イマニュエル・パットンはこう言います。「わたしたちはエホバが必要を顧みてくださると確信しています。王国伝道者の必要が大きな国に住んでいると,自分たちの奉仕が本当に貴重であると感じます」。(マタ 6:33)イマニュエルは現在会衆の長老として奉仕し,妻のユーニスと共に神の王国を第一にしています。家族の一致や霊性を守るために移動しないことにした家族の頭もいます。特別開拓者や代理の巡回監督として奉仕したことのあるティモシー・ニュマはこう話します。「長い期間家族と離れることになる仕事は断わりました。また妻のフローレンスとわたしは,子どもたちを遠くに預けるのではなく地元で教育を受けさせました」。
様々な困難がありながらもクリスチャンの活動を粘り強く行ない,信仰を表わしている兄弟姉妹もいます。前に挙げたケビン・ワシントンはこう述べます。「家から出たくないと思ったり嫌になったりするような問題があっても,多くの奉仕者たちが定期的に伝道し,会衆での務めを果たしています。例えば,慢性的な病気があっても,ほかの所でなら受けられる医療を地元では受けられない人たちがいます。また読み書きを苦労しながら学んでいる人たちもいます。兄弟たちの割り当ての果たし方を批判的に見てしまう時には,こう考えるようにしています。『全時間働き,病気があり,目が悪くても眼鏡がなく,神権的な出版物が限られ,電気もなかったら,兄弟たちと同じようにできるだろうか』」。
こうした例はごく一部にすぎず,シエラレオネとギニアの兄弟姉妹は実に様々な仕方で信仰を表わし,エホバの栄光をたたえています。1世紀のクリスチャンと同じように,「多大の忍耐と,患難と,窮乏と」によって,自分を神の奉仕者として推薦しています。「貧しいようでいて多くの人を富ませ,何も持っていないようですべての物を所有しているのです」。―コリ二 6:4,10。
確信を抱いて将来を見つめる
今から90年以上前,アルフレッド・ジョセフとレナード・ブラックマンは,シエラレオネの畑が「収穫を待って白く色づいて」いると報告しました。(ヨハ 4:35)その35年ほど後,マヌエル・ディオゴはギニアから,「ここには関心のある人が非常に多くいる」と書き送りました。そして現在,この2つの国のエホバの証人は,今後もより多くの人が良いたよりにこたえ応じると確信しています。
2012年,ギニアでは記念式の出席者が3,479人でした。国の全伝道者の4.5倍以上の数です。伝道者数2,030人のシエラレオネでは,その4倍近くに当たる7,854人が記念式に出席しました。その夜集った中に,長年の奉仕者で93歳の特別開拓者ウィニフレッド・レミがいました。ウィニフレッドが夫のリッチフィールドと共にシエラレオネに来たのは1963年のことです。全時間奉仕60年を迎えた時にも特別開拓者として奉仕していました。こう述べています。「シエラレオネに,頼もしい霊的な兄弟姉妹がこれほど多くなることをだれが想像したでしょうか。私は年を取りましたが,この喜ばしい増加にこれからも貢献したいと思います」。a
シエラレオネとギニアのエホバの証人は,まさにウィニフレッドと同じように感じています。水の流れのほとりに植えられた堂々たる木々のように,実を結びつづけてエホバを賛美することを決意しています。(詩 1:3)エホバの力により,「神の子供の栄光ある自由」という,人類にとっての真の希望を,これからもふれ告げてゆくのです。―ロマ 8:21。
支部委員会(左から右): コリン・アティック,アルフレッド・ガン,タンバ・ジョサイア,デルロイ・ウィリアムソン
a ウィニフレッド・レミはこの年鑑が準備されている間に亡くなりました。
-
-
エホバがわたしを抱き上げてくださいました2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
エホバがわたしを抱き上げてくださいました
ジェイ・キャンベル
生まれた年 1966年
バプテスマ 1986年
プロフィール ポリオにより,まひを患いながらも正規開拓者になった。
わたしは子どものころから下半身が不自由でした。母と貧困に苦しむ数家族と共にフリータウンのある集落に暮らしていましたが,18歳までは集落の外に出たことが一度しかありませんでした。人に見られることが恥ずかしく,こわかったのです。
18歳の時,エホバの証人の宣教者ポーリン・ランディスが集落に来て,聖書を教えてあげますと言ってくださいました。読み書きができないと答えると,それも教えますとのことでした。それでお願いすることにしました。
聖書を学ぶと喜びでいっぱいになりました。ある日ポーリンに,会衆の集会に出席できないかと尋ねました。1区画先の家で開かれている集会です。わたしは「木のブロックを使えば,歩いて行けます」と言いました。
ポーリンが迎えに来てくれると,母や近くに住む人たちが不安げにわたしを見ました。わたしはまず木のブロックをつかんで地面の前側に置き,手で体重を支えました。そして前に身を乗り出して進みます。庭を横切ろうとした時,近くの人たちがポーリンに言いました。「そんなこと無理やりさせて。前にも歩こうとして失敗したんだよ」。
ポーリンから,「ジェイ,行きたい?」と優しく聞かれました。
「はい! 自分で決めたんです」と答えました。
かたずをのんで皆が見守る中,出口の所まで行きました。ついに外に出ると,わっと歓声が上がりました。
集会はとても楽しく,今度は王国会館に行こうと思いました。それには,通りの端まで“歩き”,タクシーに乗り,兄弟たちに抱えてもらって急な坂道を登らなければなりません。着くころには汗びっしょりで泥だらけになったので,会館で着替えなければなりませんでした。後にスイスの姉妹が親切に車いすを送ってくださり,きちんとした姿で通えるようになりました。
障害を持つ兄弟姉妹の経験を読んで,エホバにもっとお仕えしたいという気持ちが高まり,1988年に正規開拓者になりました。目標を達成できるようエホバに助けを祈り求めました。家族のだれかと区域のだれかをエホバに献身するよう助けるという目標です。祈りは聞かれました。二人の甥と,街路証言で会った女性を真理を学ぶよう助けることができたのです。
今では腕の力がなくなり,車いすを押してもらわなければなりません。慢性的な痛みもあります。でも,エホバについて人に教えることが薬になっています。その喜びのおかげで痛みは和らぎ,慰められています。エホバがわたしを抱き上げて,目的のある人生を送れるようにしてくださったのです。
-
-
兵士から危害を受けずに済みました2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
兵士から危害を受けずに済みました
アンドリュー・ボウン
生まれた年 1961年
バプテスマ 1988年
プロフィール 1991年に戦争が始まった時,シエラレオネの東部州のペンデンブで正規開拓奉仕をしていた。
ある日の午後,反政府軍の兵士たちが町にやって来て,空に向けて銃を撃ち,それが2時間続きました。中には年若い兵士もいて,武器を抱えるのもやっとの様子でした。とても汚らしくて,髪はぼさぼさで,麻薬のためか異様な雰囲気でした。
次の日,殺戮が始まります。人々は手足を切られたり殺されたりし,女性はレイプされました。ひどい状態でした。わたしの家に,アマラ・ババオー兄弟の家族と4人の関心のある人が避難してきました。わたしたちは恐怖におびえていました。
まもなく,兵士の隊長が現われ,翌朝の戦闘訓練に出るよう命令してきました。拒むことは死を意味しますが,中立を保つ決意でいました。祈ってその夜を過ごしました。朝早く起き,その日の聖句を考慮して,兵士たちが来るのを待ちました。ところが,来ませんでした。
「日々の聖句を読むってことは,エホバの証人だな」
後日,やって来た将校と4人の部下によって,家を占拠されました。家にとどまれと言われたので,その後も通常どおり集会を開き,日々の聖句を討議しました。兵士たちはこう言いました。「日々の聖句を読むってことは,エホバの証人だな」。聖書には関心がないようでしたが,わたしたちに一目置いていたのです。
ある日,位の高い隊長が,家に寝泊まりしている兵士たちの様子を見に来ました。隊長はババオー兄弟に敬礼し,握手します。そして兵士たちに向かってこう言います。「この人はおれのボスだ。おまえらのボスでもある。この人と仲間から髪の毛一本でも落ちるようなことがあれば,ただじゃ済まないぞ。分かったな」。「はい!」と兵士たちは答えました。隊長は,平和な民間人であるわたしたちに危害を加えてはならないと革命統一戦線(RUF)に命じる手紙をくれました。
数か月後,幾つかの反政府勢力同士の争いが始まったため,わたしたちは隣国のリベリアに逃げました。そこで別の反政府グループに止められてしまいました。「わたしたちはエホバの証人です」と告げると,「じゃあ,ヨハネ 3章16節を言ってみろ」と言われました。聖句をそらで言うと,行かせてくれました。
後に別の隊長に会い,ババオー兄弟とわたしは,付いてくるようにと言われます。襲われるのではと怖くなりましたが,隊長は,戦争の前にエホバの証人と研究をしたことがあると言いました。そしてお金をくれ,わたしたちの手紙を近くの会衆の兄弟たちに届けてくれました。まもなく,救援物資を持った二人の兄弟が来て,安全な場所に連れて行ってくれました。
-
-
「ものみの塔の人」2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
「ものみの塔の人」
ジェームズ・コロマ
生まれた年 1966年
バプテスマ 1990年
プロフィール 内戦の間,兄弟たちのために物資を運んだ。
1997年に,政府軍と反政府軍がフリータウンで戦っていた時,わたしはフリータウンからギニアのコナクリにあった仮の支部事務所に通信物を届ける役目を引き受けました。
バス発着所で,何人かと一緒にバスに乗りました。遠くで銃声が鳴り響き,怖くなりました。市街を進んで行くと,銃の連射音が近くで聞こえるようになりました。運転手は来た道を引き返し,別のルートを通ることにします。程なくして,銃を手にした反政府軍の兵士たちに止められ,バスを降りるよう命じられます。兵士たちから尋問された後に,通行を許可されました。その後,別の兵士たちに止められますが,乗客の一人がそのグループの隊長を知っていたので,通してくれました。市の外れに来た時,またしても兵士たちに止められて質問されますが,行かせてくれました。北に進むにつれて,さらに幾つもの検問所を通過しなければなりませんでした。砂にまみれたバスがコナクリに到着したのは,日が暮れるころでした。
その後も,聖書文書,事務用品,支部の書類,救援物資を運びました。たいていは車かマイクロバスを使いました。雇った人やカヌーを使って,雨林を通ったり川を渡ったりして文書を運んだこともあります。
ある時,マイクロバスに乗ってフリータウンからコナクリに備品を運んでいると,国境の所で反政府軍兵士に止められました。兵士の一人がわたしの荷物に気づき,不審そうに質問してきました。ちょうどその時,兵士たちの中に同じ学校に行っていた人がいるのに気づきます。その人は他の兵士から“つわもの”と呼ばれており,グループの中でいちばん怖そうでした。そこでわたしは,尋問してきた兵士に,“つわもの”に会いに来たのだと言い,大声で呼びかけました。“つわもの”はすぐにわたしに気が付き,駆け寄って来ました。わたしたちは笑顔で抱擁しました。その後,彼は真剣な表情でこう言います。
「何か困ったことがあるのか」。
わたしは「ギニアに行きたいんだ」と答えます。
すると,すぐに兵士たちに命令し,検問所をそのまま通過できるようにしてくれました。
それ以来,その検問所ではいつも,“つわもの”が兵士たちに命令を出して通行できるようにしてくれました。持っていた雑誌を兵士たちに渡すと,とても喜ばれました。そのうち,わたしは「ものみの塔の人」と呼ばれるようになりました。
-
-
ダイヤモンドに勝るもの2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
ダイヤモンドに勝るもの
タンバ・ジョサイア
生まれた年 1948年
バプテスマ 1972年
プロフィール 真理に入る前,ダイヤモンド鉱山で働いていた。現在はシエラレオネ支部委員会の一員。
1970年当時,私はトンゴ・フィールドにある英国の鉱山会社で働いていました。そこはケネマの北にあるダイヤモンドの豊富な場所です。仕事以外の時間にダイヤモンドを探すこともしました。原石を見つけると,きちんとした服装でケネマに行ってそれを売り,手にしたお金を遊びに使ったものです。
1972年,エホバの証人と出会い,聖書研究を始めました。5か月後,バプテスマを受ける資格にかなうようになりました。しかし,休暇が残っていなかったので,地域大会に行ってバプテスマを受けられるよう,同僚に,代わりに働いてもらえないかと尋ねました。すると,1週間分の給料をくれるなら代わってもいいと言われました。バプテスマは私にとってお金よりずっと大切だったので,喜んでその条件をのみました。大会から戻ると,同僚から,神に仕えるのは正しいことだからお金はいらないと言われました。半年後,収入のよいその仕事を辞め,特別開拓者になって天に宝を蓄えることにしました。―マタ 6:19,20。
18年にわたり,国の様々な所で特別開拓者や巡回監督として奉仕しました。その間に結婚して,クリスティアーナという忠節でいつも支えてくれる妻を持ち,娘リネットにも恵まれました。
かつてはダイヤモンドを探すことに夢中でしたが,はるかに勝るものを見つけました。宝のような真理とエホバへの奉仕の特権です
シエラレオネの内戦中,私と妻はボーで開拓奉仕をしました。ボーにもダイヤモンドの大規模な採掘場がありましたが,私たちはそこで別の“ダイヤモンド”をたくさん見いだしました。真のクリスチャンの弟子たちです。4年の間に会衆は60%以上増加し,今ではボーに活発な会衆が3つあります。
2002年,シエラレオネ支部委員会の一員として奉仕するよう招かれました。夫婦でベテルの近くに住み,私はベテルに通い,妻は特別開拓者として奉仕しています。リネットはベテルのクリオ語翻訳チームで働いています。
私はかつてダイヤモンドを探すことに夢中でした。でもそれよりはるかに勝るものを見つけました。宝のような真理とエホバへの奉仕の特権です。真のクリスチャンの弟子たちという“ダイヤモンド”を18人見いだす喜びも味わいました。エホバはまさに,あふれるほど豊かに祝福してくださったのです。
-
-
エホバに仕えることを心に決めていました2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
エホバに仕えることを心に決めていました
フィリップ・テンベ
生まれた年 1966年
バプテスマ 1997年
プロフィール 難民生活を送りながら,5つの王国会館の建設に携わった。
1991年,住んでいたシエラレオネのコインドゥが反政府軍に占領され,妻のサタと共に命からがら逃げました。それから8年以上にわたり,様々な難民キャンプで過ごしました。食糧難や病気に耐えなければならず,周りには不道徳な行ないをする人がたくさんいました。
どのキャンプでも,当局に王国会館を建てる場所をもらえるようお願いしました。承諾されることもありましたが,断わられることもありました。それでも,崇拝のために集まる場所を必ず設けました。エホバに仕えることを心に決めていたのです。こうして,難民キャンプに4つの王国会館を建てることができました。
戦争が終わっても,家には帰れませんでした。何年も続いた戦いで,コインドゥは荒れ果てていたからです。そのため,ボーの近くの難民キャンプに送られました。そこでは支部の提供する基金で,5つ目の王国会館を建設しました。
-
-
シエラレオネが大好きになりました2014 エホバの証人の年鑑
-
-
シエラレオネとギニア
シエラレオネが大好きになりました
シンディー・マッキンタイア
生まれた年 1960年
バプテスマ 1974年
プロフィール 1992年に宣教者となった。ギニアとセネガルで奉仕し,現在はシエラレオネで奉仕している。
到着して2週間もしないうちにシエラレオネが大好きになりました。重い荷物を頭に載せて楽々と運んでいる人たちを見て,すごいと思いました。辺りは活気に満ちていて,通りでは,子どもたちが遊んだり踊ったりしていました。リズミカルに手をたたき,ステップを踏んでいます。どこも色鮮やかで,とてもにぎわい,音楽があふれていました。
いちばん楽しいのは伝道です。ここの人たちは見知らぬ人を歓迎することを大切にしています。聖書に敬意を示し,音信に耳を傾けます。わたしを家に招き入れてくれ,帰る時には道の先まで一緒に付いて来てくれます。人々のこうした温かさを考えると,水不足や停電といった少しの不便はそれほど苦ではありません。
わたしは独身なので,さみしくなることはないかと時々尋ねられます。でも,することがたくさんあって,さみしく思う時間はありません。とても充実した毎日を送っています。
-