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全体主義の圧政のもとでの半世紀目ざめよ! 1999 | 2月22日
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1951年,私はシベリアでの10年の強制労働を宣告され,北極圏内のはるか北方の収容所まで何千キロも運ばれました。仕事ではくたくたになり,気候は厳しく,生活環境はひどいものでした。どうしてそこにいたのか,またその苦しみが無駄でなかったと言える理由をお話ししましょう。
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全体主義の圧政のもとでの半世紀目ざめよ! 1999 | 2月22日
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1944年6月,ソ連は再びエストニアを占領するようになりました。その2か月後,私は自由の身で家に戻り,農場の仕事を手伝いました。しかし,帰ってからそれほどたたない11月,ロシア軍に出頭するようにとの命令が下りました。私は勇気を振り絞り,徴兵委員会に対して大胆に証言しました。彼らは私に,ソ連の支配体制は君の信条には関心がないし,国民はみな軍務に就かなければならないと告げました。しかし,戦争の残りの期間,私は何とか自由でいることができ,仲間の証人に聖書文書を供給する仕事の援助に自らを費やしました。
戦後の活動
1945年5月に戦争が終わり,良心的兵役忌避者に大赦が認められた時,私は復学しました。1946年の初頭までには,エストニアでの農業には将来性がないという結論に達しました。ソ連の集団農場政策が個人経営の農場を駆逐していたからです。それで学校をやめ,王国を宣べ伝える業にいっそう十分に携わるようになりました。
ソ連の統治下では,もはや公の宣教奉仕はできませんでした。実際,第二次世界大戦中はものみの塔協会との接触が断たれていたので,私は保存されていた文書を古い謄写版印刷機で複写するのを助け,会衆の集会を開くためにも最善を尽くしました。
1948年8月,KGB(ソ連の国家保安委員会)によるエホバの証人に対する迫害が始まりました。率先して業を行なっていた人のうち5人が逮捕・投獄され,間もなく,KGBは全員の逮捕を狙っていることが明らかになりました。私たちは4人から成る委員会を作り,宣べ伝える業を組織し,クリスチャンの兄弟たちを励まし,刑務所にいる人たちを援助しました。私はまだ比較的自由に動き回ることができたので,仲間の証人たちと連絡を取るために用いられました。
1948年9月22日付の公式の抗議文がエストニアのソ連当局に送られました。それには,私たちの組織のことと業の目的が明記してあり,投獄されている仲間の信者の釈放を要求していました。反応はどうだったでしょうか。さらに多くの人が逮捕されました。1948年12月16日,私たちは兄弟たちの無罪判決と釈放を求めて,もう一通の抗議声明文をエストニアのソ連最高裁判所評議会に送りました。その写しや他の嘆願書は,タリン市の公文書保管所に現在も保管されています。
当時,きちんとした書類は入手できなかったため,旅行には危険が伴いました。それでも私たちは,4気筒のブロックエンジンを搭載した,馬力のあるサイドカー付きオートバイに乗って,アラベタ,オテピャー,タリン,タルトゥ,ブイルにある会衆を訪問しました。そのオートバイはロシア人の役人から手に入れたものでした。私たちはそれを,親しみをこめて兵車と呼びました。
スターリンに対する抗議
1949年6月1日,もう一通の嘆願書がエストニア社会主義共和国の最高事務局と,ソ連最高会議幹部会のニコライ・シベールニク議長宛てに送られました。タリンの公文書保管所から回収した,その書類の写しには,ニコライ・シベールニク自身がそれを受け取った後,その写しをソビエト連邦の首相ヨシフ・スターリンに送ったことを示す本人の判が押されています。その嘆願書の最後の部分はこうなっています。
「我々は,エホバの証人を刑務所から釈放するとともに,彼らに対する迫害を中止するよう要求する。ものみの塔聖書冊子協会を手段とするエホバ神の組織には,エホバの王国の良いたよりをソビエト連邦に住むあらゆる人々に,妨害されることなく宣べ伝えることが許されるべきである。さもなければ,エホバはソビエト連邦と共産党を完全に滅ぼされる。
「我々はこれを,エホバ神とその王国の王であるイエス・キリストの名において,また,投獄されている仲間の信者すべての名において要求する。
「署名: エストニアのエホバの証人(1949年6月1日)」。
迫害が激しくなる
1950年の初めに,私たちはドイツから戻ったある人から「ものみの塔」誌を3号受け取りました。それで,クリスチャンの兄弟たちが皆その霊的な食物から益を得られるよう,大会を組織することにしました。大会は,1950年7月24日に,オテピャー村の近くのある聖書研究生の干し草小屋で行なわれることになりました。しかし,どういうわけかKGBが私たちの計画をかぎつけ,一斉逮捕の準備を進めました。
2台のトラックいっぱいの兵士たちがパルペラの駅に配備されました。兄弟たちはそこで降りることになっていたからです。さらに,無線機を持った一人の兵士が,大会会場から目と鼻の先の,オテピャーとパルペラを結ぶ道路で待ち伏せしていました。早く来ると思っていたある兄弟たちが予定通りに姿を現わさなかったので,私たちの計画は見破られたのではないかと思いました。
私は,仲間の証人であるエラ・キカスを連れて,パルペラの二つ手前の駅までオートバイを飛ばしました。列車はちょうど駅に入ってきたところだったので,エラと私はそれぞれ一番前と一番後ろの車両に乗り込み,客車の中を走りながら,降りてくださいと皆に大声で言いました。証人たちが降りると,私たちは次の日に別の小屋で大会を開くよう取り決めました。こうして,証人たちを一斉に逮捕するKGBの計画はくじかれたのです。
しかし,その大会から2か月後,大規模な逮捕が始まりました。1950年9月22日に,私も尋問のために連行されました。エストニアの宣べ伝える業を監督していた他の3人の委員も連行されました。私たちはタリンのパガリ通りにあるKGBの刑務所に8か月間入れられました。その後,バッテリーと呼ばれていた,カルダ通りの普通の刑務所に移され,そこで3か月監禁されました。地下室に入れられていたKGBの刑務所と比べると,バルト海に面した今度の刑務所はまるでリゾートのようでした。
シベリアでの困難な生活
その後まもなく,はるか遠いシベリアのノリリスクの収容所での10年に及ぶ刑を宣告されました。ハリー・エンニカ,アレクサンダー・ヘルム,アルベルト・コーズ,レオンハルト・クリビも同じ刑を宣告されました。シベリアでは,夏の間太陽は2か月間沈みませんし,冬は2か月間,地平線より上に昇りません。
1951年8月,タリンからノリリスクまでの旅程の第一区間は列車で始まりました。プスコフ,サンクトペテルブルク(以前のレニングラード),ペルミ,エカテリンブルク(以前のスベルドロフスク),ノボシビルスク,そしてエニセイ川沿いのクラスノヤルスクを経由して,約6,000㌔にわたる旅をしました。そしてついに10月初旬にはクラスノヤルスクで大型の平底船に乗り込み,曳航されて1,600㌔以上北へ進みました。2週間後,北極圏内のはるか北方の町ドゥジンカに到着し,そこでもう一度列車に乗り換え,ノリリスクまでの120㌔に及ぶ次の旅程に就きました。ノリリスクの駅から町外れの強制労働収容所までは,大雪の中を15㌔歩きました。
私の冬服は平底船に乗っていた間に盗まれてしまったため,身に着けていたのは,夏物のコートと帽子とサンダルだけでした。私たちはタリンからの何週間もの旅で衰弱しており,日々配給される食料もわずかだったので,失神してしまう囚人もいました。私たちは,馬が来るまでその人たちをずっと助け,その後,馬の引くそりに乗せてあげました。
収容所に着くとすぐ,私たちは登録され,サウナに連れて行かれ,その日の食料を支給されました。バラックは暖かく,私はすぐに深い眠りに落ちました。しかし真夜中に,耳の炎症による激痛で目が覚めました。翌朝,治療を受け,仕事を免除してもらいましたが,刑務所の職員たちは,私が働けないことに腹を立て,私を打ちたたきました。私は「収容所内の平和をぶち壊している」ということで,1か月間独房に入れられました。ありがたいことに,診療室の治療を受けることができ,独房にいた期間は健康を取り戻す機会となりました。
収容所での最初の冬はこれまでになく厳しいものでした。仕事はおもにニッケル鉱山の露天掘りで,くたくたになりましたし,受け取るわずかな食料は質の悪いものでした。多くの人が壊血病の症状を呈すると,病状を緩和するためにビタミンCの注射が打たれました。しかしうれしいことに,私たちは収容所で,モルドバ,ポーランド,ウクライナから来た大勢の仲間の証人たちと出会いました。
刑務所での生活が変わる
1952年の春,囚人たちは少額の給料をもらうようになったため,配給される食料の足しにする食物を買うことができました。また,一部の証人たちは,二重底の箱に入った食物を受け取るようにもなりました。その底には聖書文書が隠されていました。ある時,モルドバ出身の一証人がラードの入ったブリキの缶を受け取りました。ラードを全部使ったところで,豚の胃袋が出てきました。その中には,なんと「ものみの塔」誌が3号入っていたのです。
1953年3月5日にスターリンが死ぬと,刑務所の生活は劇的に変化しました。まず,解放を要求する囚人たちのストライキと暴動が勃発しました。それらを鎮圧するために陸軍が派遣されました。ノリリスクでは一度の暴動で120人の囚人が殺されましたが,証人たちはかかわらなかったので死傷者は一人も出ませんでした。1953年の夏にはニッケル鉱山の仕事が2週間停止し,その後,刑務所での生活は楽になりました。囚人たちの中には釈放された人もいれば,刑期を短縮された人もいました。
忠実な証人
収容所が騒然としていたその時期が過ぎ,私は南のイルクーツク州タイシェット市の近くにある収容所に移されました。その収容所で,私と最初に聖書研究をしてくれたアルトゥール・インダスに会いました。収容所で医師として働くことを拒み,代わりに体力的にはもっと厳しい仕事を選んだのです。インダス兄弟は,「本当に病気の囚人が強制的に働かされているのに,責任ある立場を与えられた健康な囚人の病欠を認めることなど,私の良心が許さなかった」と説明しました。
同兄弟はその時すでにやせ衰え,病気になっていました。体力的にかなり厳しい仕事はこれまでしたことがなかったからです。それでも兄弟は,こうした苦しみによって霊的な意味で心が精錬されるように感じると話してくれました。私たちは約3週間共にいました。そののち兄弟は収容所内の病院に運ばれ,1954年1月にそこで亡くなりました。インダス兄弟の名もなき墓は,果てしなく続く亜北極の森のどこかにあります。兄弟は忠実なクリスチャンとして死に,復活を待っています。
釈放されて家路に就く
1956年に,ソ連最高会議の一委員会が囚人記録を調査するために収容所に派遣されました。その委員会の前に立ったとき,担当の将官から,「釈放されたら何をするつもりかね」と尋ねられました。
「その時になってみなければ分かりません」,と私は答えました。
私は席を外すようにと言われました。呼び戻された時,将官は,「お前はソビエト連邦にとって最もたちの悪い敵だ。イデオロギーの敵だ」と言いました。それでもこう付け加えました。「お前を自由にさせてやろう。だが,我々はお前の後をつけるつもりだ」。私は1956年7月26日に自由になりました。
私は,スイェティカ村のウクライナ人の証人たちを二日ほど訪問しました。その村はタイシェットの近くにあり,証人たちは1951年にその村に流刑にされていたのです。次に,母が流刑にされていた場所に近いトムスクの行政地域に4日滞在しました。駅から20㌔ほど歩いてグリゴリェフカ村まで行って気づきました。その村の状況は,私たちの多くが収容所で経験した状況より劣悪だったのです。姉のレイダは,カザフスタンの捕虜収容所から釈放された後,母と一緒になるため,数か月前にその地域に来ていました。しかし姉はパスポートを没収されていたため,まだエストニアに戻れずにいました。
エストニアで圧力のもとに置かれる
私はやがてエストニアの故郷にたどり着き,両親の農場にまっすぐ向かいました。シベリアでうわさに聞いていた通り,政府が私たちの建物をすべて壊してしまったことを知りました。数日後,私はポリオにかかりました。長い間入院し,その後も治療を続けました。いまだに片足を引きずって歩いています。
まもなく私は,1943年の夏の間働いていた,レッセの泥炭会社に勤め口を見つけました。会社から集合住宅の一室を与えられ,母とレイダが1956年12月に流刑から帰って来てからは,レッセで一緒に生活するようになりました。
1957年11月,私はエラ・キカスと結婚しました。そのころ,エラもシベリアの捕虜収容所から戻ってきていたのです。2か月後,二人でタルトゥに引っ越し,個人の家の小さな下宿を見つけました。最終的に私は,タルトゥ地区生活協同組合で運転手の仕事に就くことができました。
シベリアにいた間に,私は「ものみの塔」誌の十の研究記事をロシア語からエストニア語に翻訳し,それらを家に持ち帰っていました。その後,「失楽園から復楽園まで」の本を入手し,それも何人かでエストニア語に翻訳してから,タイプライターで写しを作りました。その間,KGBは監視の目を光らせていました。私たちは彼らが尾行するときの方法に通じていたので,狙われている動物のようにいつも用心深くし,注意を怠りませんでした。
KGBの標的にされる
1960年代の初めに,KGBは証人たちを中傷する運動を始めました。妻と私はおもな標的にされました。新聞は中傷的な記事を載せるようになり,私たちはラジオやテレビで非難されました。KGBは私の職場で2回,公の集会を開きましたし,タリンのエストニア映画館では,私のことを皮肉った喜劇がプロの俳優たちによって上演されました。こうした状況は,ダビデの語った次の言葉を思い起こさせるものでした。「門に座っている者たちは,わたしについて関心を示すようになり,わたしは,酔わせる酒を飲む者たちの歌の題となりました」― 詩編 69:12。
私たちを辱めようとするそうした試みは,1965年に最後の集会がタルトゥの労働者公衆衛生局の庁舎で開かれた時まで続きました。エラも私もそこにおり,会場を埋め尽くした聴衆に交じってKGBの捜査官もそこにいました。エラが質問を受けると,聴衆が拍手喝采して応じるという場面が数回ありました。聴衆が私たちに味方していることは明らかでした。KGBの捜査官たちはその結末にがっかりし,腹を立てました。
霊的な飢えを満たす
共産主義者たちは私たちの文書の頒布をやめさせようとしましたが,1965年ごろから,クリスチャンの兄弟たちに比較的十分な量の文書を供給できるようになりました。しかし,人目に付かない秘密の場所でひそかに翻訳し,印刷を行なうには,かなりの時間やエネルギーが求められます。ある時KGBの一捜査官は,私の地下活動や文書の運搬方法に言及して,「トーム,君は二重底のスーツケースみたいだ」と言いました。
もちろん,集会は小さなグループに分かれて,ひそかに開かなければなりませんでした。伝道も非公式に行なわれました。兄弟たちは,自分たちの集合住宅の抜き打ち捜索に備える必要がありました。そのため,ものみの塔協会の出版物は非常に注意深く隠しておかなければなりませんでした。しかしそうした状況下でさえ,聖書の真理を愛する人々が大勢見いだされ,王国の側に立場を定めました。
1980年代にソ連の大統領ミハイル・ゴルバチョフが改革を始めた時,私たちは実際に以前より自由に神に仕えることができるようになりました。結局,ソビエト連邦は1991年に崩壊し,エホバの証人は法的認可を受けました。
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