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  • ソビエトによる対宗教攻撃
    目ざめよ! 2001 | 4月22日
    • ソビエトによる対宗教攻撃

      ソビエト社会主義共和国連邦は,1922年に結成されました。当初は四つの共和国で構成されていましたが,その一つであるロシアは,ずば抜けて大きく,際立った存在でした。やがて15の共和国を含むようになり,地表面積のほぼ6分の1を占めるまでに拡大しました。ところが1991年,ソビエト連邦は突如崩壊しました。a 注目すべき点として,ソ連は,国民の考えから神に対する信仰をぬぐい去ろうとした最初の国家でした。

      ソビエト連邦の最初の指導者ウラジーミル・レーニンは,キリスト教を抑圧の道具と評したカール・マルクスの信奉者でした。宗教を「人民のアヘン」と呼んだのは,そのマルクスでした。後にレーニンは,「いかなる宗教概念,いかなるものにせよ神に関するいっさいの概念……は,まさに名状しがたい愚劣である」と公言しました。

      ロシア正教会の総主教チーホンが1925年に死んだ後,同教会は新しい総主教の選出を許されませんでした。続いて起きた,宗教に対する攻撃によって,教会堂の大半は破壊されるか,世俗的な用途のために改装されました。司祭たちは強制労働収容所へ送られ,大勢がそこで死にました。ブリタニカ百科事典(英語)はこう説明しています。「ヨシフ・スターリンの支配中,1920年代後半から1930年代にかけて,教会は血なまぐさい迫害を経験し,非常に多くの人が命を絶たれた。1939年の時点で公式に活動していたのは,正教会の主教三,四人と100の教会のみだった」。

      ところが,ほとんど一夜にして,驚くべき変化が生じました。

      第二次世界大戦と宗教

      1939年,ソビエト連邦の同盟国であったナチ・ドイツがポーランドに侵攻し,第二次世界大戦が始まりました。ソ連は,それから1年もしないうちに,15の共和国のうちの最後の四つ ― ラトビア,リトアニア,エストニア,モルダビア ― を吸収していました。一方,1941年6月,ドイツはソ連に対して大規模な攻撃をしかけました。それはスターリンにとって全く不意の出来事でした。年末には,ドイツの部隊がモスクワ郊外まで達していました。ソ連の敗北は時間の問題であるかに見えました。

      必死になったスターリンは,ロシア人が“大祖国戦争”と呼ぶものに国民を動員したいと考えました。そして,戦争に対する国民の支持を得るには,教会に譲歩する必要があることを見て取りました。多くの人が依然として宗教心を抱いていたからです。スターリンが宗教政策を見事に転回させた結果はどうだったでしょうか。

      教会の協力によってロシアの人民は戦争に動員され,1945年までに,ドイツに対して劇的な勝利を収めることができました。宗教に対する攻撃が一時的に停止した後,正教会の教会数は2万5,000にまで増加し,司祭の数も3万3,000人に達しました。

      新たな攻撃が始まる

      しかし実際のところ,国民の考えから神の概念をぬぐい去るというソビエトの指導者たちの目標は変わっていませんでした。ブリタニカ百科事典はこう説明しています。「1959年から1964年にかけて,ニキータ・フルシチョフ首相が新たな反宗教運動に着手し,開いている教会の数は1万以下に減少した。アレクシーの死後,1971年にピーメン総主教が選出された。何百万という人々の忠節心を集めてはいたが,教会の将来はなお不安定であった」。b

      ロシア正教会がソビエト当局の新たな攻撃をどのように生き残ったかは,後ほど考慮します。それにしても,ソビエト連邦内の他の諸宗教はどのように扱われたのでしょうか。とりわけ,おもな標的となったのはどの宗教でしょうか。それはなぜでしたか。次の記事でそれらの点を取り上げます。

      [脚注]

      a 現在は独立している,旧ソビエト連邦の15の共和国は次のとおりです。アゼルバイジャン,アルメニア,ウクライナ,ウズベキスタン,エストニア,カザフスタン,キルギスタン,グルジア,タジキスタン,トルクメニスタン,ベラルーシ,モルドバ,ラトビア,リトアニア,ロシア。

      b 1945年から1970年までロシア正教会の総主教を務めたアレクシー1世と,1990年から現職のアレクシー2世は,アレクシイやアレクセイと表記されることもあります。

      [3ページの図版]

      レーニンは,『神に関するいっさいの概念を,まさに名状しがたい愚劣』と呼んだ

      [クレジット]

      Musée d'Histoire Contemporaine—BDIC

  • ソビエトによる攻撃の標的
    目ざめよ! 2001 | 4月22日
    • ソビエトによる攻撃の標的

      ソビエト連邦は,第二次世界大戦で勝利するためロシア正教会に譲歩したものの,教会活動一般に対する締めつけを緩めたわけではありませんでした。そのため,KGB(ソビエトの国家保安委員会)の歴史を記した1999年の本,「剣と盾」(The Sword and the Shield)はこう述べています。「KGBは,直接の配下にはいないクリスチャンたちの『破壊的な』活動に,はるかに大きな注意を払っていた」。それらクリスチャンたちとは,どの宗教グループのことでしたか。

      そのうち最大のものは,現在ウクライナ・カトリック教会と呼ばれている,ウクライナのギリシャ・カトリック教会で,400万人の信者がいました。「剣と盾」によると,「10人の主教のうち二人を除く全員と,何万人もの司祭や信者が,信仰のためにシベリアのグラーグ[強制労働収容所]で死に」ました。ほかにもKGBの標的となったのは,未登録のプロテスタント系諸教会でした。それらも,国家の直接の配下にはありませんでした。KGBは,1950年代後半に,プロテスタント系諸宗派には,すべて合わせて約10万人の信者がいると見ていました。

      KGBは,エホバの証人をプロテスタントの一グループとみなし,1968年の時点で,約2万人の信者がソビエト連邦にいると考えていました。第二次世界大戦の始まった1939年まで,エホバの証人の数はわずかでした。そのため,注目されることはほとんどありませんでした。ところが,状況が劇的に変わりました。幾千人もの証人たちが,突如ソ連内に現われたのです。どうしてそうなったのでしょうか。

      劇的な増加の始まり

      ワルター・コラーズは,1961年に書いた「ソ連の宗教」(Religion in the Soviet Union)という本の中で,この劇的な増加をもたらした二つの要因を挙げています。その一つは,「1939年から40年にかけてソ連に併合され(た)」領土 ― ラトビア,リトアニア,エストニア,モルダビア ― に,「活発なエホバの証人のグループ」が多く存在していたことでした。さらに,1,000人余りのエホバの証人がいたポーランド東部やチェコスロバキアの一地域もソ連に併合され,ウクライナの一部となりました。こうして,それらの証人たちすべてが,いわば一夜にしてソ連内に移植されたのです。

      コラーズは,さらに増加をもたらしたものについて,それは「信じられないことに思えるかもしれないが,ドイツの強制収容所」だったと書いています。ナチは,ヒトラーとその侵略戦争を支持しなかった大勢のエホバの証人を収容所に送っていました。コラーズは,その収容所に入れられていたロシア人の囚人たちが「『証人たち』の勇気と確固とした態度に感動し,恐らくそのためであろうが,彼らの神学に魅力を感じた」と説明しています。結果として,多くの若いロシア人が,エホバ神や,地球に対する神のすばらしい目的について,新たに見いだした信仰を携えて収容所からソ連各地に戻りました。―詩編 37:29。啓示 21:3,4。

      こうした幾つかの理由で,何千人ものエホバの証人がソ連内に,にわかに姿を現わしたのです。1946年の初めには1,600人そこそこだったのが,1940年代の終わりには,8,000人を優に上回っていました。この増加にKGBは警戒しました。前にも述べたように,KGBが特に注意を払っていたのは,『直接の配下にはいないクリスチャンたちの活動』だったからです。

      攻撃が始まる

      エホバの証人の数はソビエト連邦内で比較的少数でしたが,その熱心な伝道活動はすぐにソビエト当局の攻撃の的となりました。エストニアでは,1948年8月に攻撃が始まり,業に率先していた5人が逮捕,投獄されました。「間もなく,KGBは全員の逮捕を狙っていることが明らかになりました」と,エストニア人の証人レムビト・トームは語っています。そのことは,ソ連内のどこにいる証人たちにとっても現実となりました。

      ソビエト当局は,エホバの証人を極悪の犯罪者,無神論のソビエト国家にとって大きな脅威としました。そのため,エホバの証人はどこにいても追い回され,逮捕され,投獄されました。「剣と盾」はこう述べています。「エホバ信奉者を追い回すKGB幹部の執着は,ごくささいな意見の相違も平衡感覚をもって扱えない究極の例と言えるだろう」。

      その執着のほどは,念入りに計画された,エホバの証人に対する攻撃が1951年4月に実行された時に,劇的な形で示されました。今から2年前の1999年,尊敬されるロシアの学者セルゲイ・イワネンコ教授は,自著「聖書から離れない人々」(ロシア語)の中でこう述べました。1951年4月の初め,「ウクライナ,ベラルーシ,モルダビア,そしてバルト海沿岸のソ連領共和国から,5,000組を超えるエホバの証人の家族が,シベリア,極東,カザフスタンに『永久移住』させられた」。

      記憶すべき事柄

      その攻撃にどれほどの労力が伴っていたかを想像できるでしょうか。この広大な領域の隅々にわたり,幾千ものエホバの証人の家族を一日で一斉検挙したのです。数百人,ひょっとすると数千人の人員を組織して,だれが証人かをまず特定し,その後,闇に紛れてその家々を一斉に奇襲することについて考えてください。その上,人々を馬車,荷車,護送車などに乗せ,鉄道の駅まで連れて行き,貨車に乗せる仕事もありました。

      そのように扱われた人たちの苦しみについても考えてください。不潔な貨車にただ詰め込まれ,3週間からそれ以上にわたり,何千キロも強制的に運ばれてゆく様子を想像できますか。トイレはなく,バケツが一つあるだけなのです。そして,シベリアの荒涼たる原野に放り出され,その過酷な環境で生き延びるために苦闘してゆかなければならないと知った時のことも想像してみてください。

      1951年4月にエホバの証人が流刑にされて,今月でちょうど50年になります。数十年に及ぶ迫害にもめげず忠実を保った証人たちの物語を伝えるために,生存者の経験がビデオに収録されました。それらの経験は,1世紀のクリスチャンの場合と同様,神への崇拝を妨げようとする試みがいずれは必ず失敗に終わることの証しです。

      流刑によってなされたこと

      ソビエト当局は,証人たちにエホバへの崇拝をやめさせることが予想したより難しいことをすぐに悟りました。流刑にされてゆく時,証人たちは,連行してゆく役人たちから制止されても,エホバへの賛美の歌を歌い,「エホバの証人乗車」と書いたものを車両に掛けました。ある証人はこう説明しています。「途中の駅では,流刑にされる人たちを乗せた他の列車を見かけることがあり,幾つかの車両に[そのように書いたもの]が掛けられているのを目にしました」。それはどんなにか励みになったことでしょう。

      こうして,流刑にされた人たちは,それによって意気をくじかれるどころか,イエスの使徒たちと同じ精神を表わしました。聖書によると,使徒たちは,むち打たれ,宣べ伝えることをやめるように命じられた後も,「たゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明し続け(まし)た」。(使徒 5:40-42)この流刑についてコラーズが述べるとおりです。「これはロシアの『証人たち』の息の根を止めたわけではなく,むしろ彼らの改宗活動の新しい章の始まりとなったにすぎない。彼らは流刑地に向かう途中で駅に止まると,自分たちの信仰を広めようとさえしたのである」。

      証人たちは,それぞれの移送先に到着して降ろされると,従順でよく働く人として良い評判を得ました。しかし同時に,キリストの使徒たちに倣い,圧迫する人たちに向かって事実上,『わたしたちは自分たちの神について話すのをやめるわけにはいきません』と言いました。(使徒 4:20)教えに耳を傾け,証人たちに加わって神に仕えるようになった人たちは少なくありません。

      結果は,コラーズが説明しているとおりです。「彼らを追放したソビエト政府は,彼らの布教にこの上なくプラスになることをしてしまった。『証人たち』は[ソ連西部の共和国の]村の中の孤立状態から,もっと広い世界に連れ出されたのである。たとえそれが強制収容所や強制労働収容所の恐ろしい世界にすぎなかったにしても,そのことに変わりはなかった」。

      増加を食い止めようとする企て

      やがて,ソビエト当局は,エホバの証人に歯止めをかけるために,別の手段を試みました。厳しい迫害では望む成果が得られなかったため,念入りに仕組まれた虚偽の宣伝を用いたのです。書籍,映画,ラジオを利用することはもちろん,訓練されたKGBの手先を会衆内に潜入させることなど,あらゆる手が試みられました。

      誤った情報が広められたため,多くの人が証人たちのことを誤解し,恐れと不信の目で見るようになりました。そのことは,カナダ版のリーダーズ・ダイジェスト誌,1982年8月号の記事にも表われています。それを書いたのは,1976年に英国への移住を許可されたロシア人ウラジーミル・ブコフスキーでした。こう書いています。「ある晩のことロンドンで,一つの建物の壁に『エホバの証人……』と表示されているのに気づいた。そこから先を読むことができなかった。びっくりし,危うく混乱状態に陥るところだった」。

      ウラジーミルは,いわれのない恐れを感じた理由をこう説明しています。「我が国の当局者は,子どもを怖がらせる時,人をさらう悪魔としてこの宗派を引き合いに出す。……ソ連では,刑務所や強制収容所の中でしか,生きている“証人たち”に会うことはない。ところがわたしは,その建物の前,表示板の前にいた。実際に入って行き,親しく過ごそうとする人がいるだろうか」。ウラジーミルは,自分が抱いた警戒心の理由を強調して,こう結んでいます。「“証人たち”は我が国で,他国におけるマフィアと同じほど激しく追い回されており,なぞに包まれているという面でも同様である」。

      しかし,厳しい迫害や虚偽の宣伝に遭っても,証人たちはそれを耐え忍び,増加しました。ソ連では,エホバの証人に対する宣伝攻撃を強化すべきだとする本が出されました。1978年にロシア語で10万冊印刷された,「エホバの証人に関する真実」という本はその一例です。著者のV・V・コニックは,証人たちが厳しい制約を受けながらもどのように伝道を行なっているかを述べ,「ソビエトの宗教調査官は,エホバの証人の教えに打ち勝つもっと有効な方法を学ぶべきだ」と忠告しました。

      なぜ攻撃の的に?

      エホバの証人がソビエト当局の主な攻撃の的になったのは,端的に言って,イエスの初期の追随者たちに見倣っていたからです。1世紀の使徒たちは,「[イエス]の名によってもう教えてはならない」と命じられていました。それでも,後に迫害者たちから,「見よ,あなた方はエルサレムをあなた方の教えで満たしてしま(った)」と不満を述べられるほどでした。使徒たちは,禁じられても宣べ伝えたことは否定せず,むしろ敬意をこめてこう答えました。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。―使徒 5:27-29。

      現代のエホバの証人も,イエスが追随者たちに与えた,「民に宣べ伝え……徹底的に証しするように」という命令を真剣に受け止めています。(使徒 10:42)モーリス・ヒンダスは,自著「クレムリンの人間的なジレンマ」(The Kremlin's Human Dilemma)の中で,証人たちの「福音伝道に対する手におえない熱意」が,このグループを「モスクワにとってとりわけやっかい者」とし,「ソビエトの警察とたえず衝突[させ]ている」と述べ,さらにこう続けました。「彼らを阻止する方法はない。彼らは一箇所で弾圧されると別の場所に姿を現わす」。

      ロシアの歴史家セルゲイ・イワネンコはこう書いています。「わたしの知る限りでは,エホバの証人の組織は,ソ連内で禁令や迫害に面しながらも人数が増加した唯一の宗教組織であった」。もちろん,活動を続けた宗教はほかにもあります。その中で最も目立つものとしては,ロシア正教会が挙げられます。正教会とエホバの証人とが,ソビエトの攻撃の中で,それぞれどのようにして生き残ったかという点を興味深く思われることでしょう。

      [6ページの囲み記事]

      「最も厳しく迫害された」

      「ロシア小百科事典」(A Concise Encyclopaedia of Russia),1964年版は,エホバの証人について,「改宗活動の面で極めて活発であり……ソビエト連邦の宗教集団の中で最も厳しく迫害された」と述べています。

      [7ページの囲み記事/図版]

      幾千人もの人たちが…フョードル・カーリンが語る家族流刑の様子

      わたしたち家族は,ウクライナ西部のビルシャニーツァという村に住んでいました。1951年4月8日の夜明け前,数人の警官が犬を連れてやって来て,寝ていたわたしたちを起こし,モスクワ政府の命令により,お前たちはシベリアへ送られることになった,と言いました。でも,もはやエホバの証人ではないという書面に署名するなら,ここにとどまっていてよい,ということでした。両親や弟妹など,わたしたち家族7人は,証人としての立場を守る決意をしていました。当時わたしは19歳でした。

      警官の一人が言いました。「豆,トウモロコシ,小麦粉,ピクルス,キャベツなどは持って行くがよい。さもないと,子どもらに食わせるものはないぞ」。数羽のにわとりと1頭の豚を殺して肉を持って行くことも許されました。2台の馬車にすべてが積み込まれ,フリプリンの町まで連れて行かれました。そこで,わたしたち四,五十人が1台の貨車に押し込まれ,ドアが閉められました。

      貨車の中にあったのは,何枚かの厚板,そしてストーブが一つと,少しの炭やまきだけでした。厚板は寝床代わりでしたが,全員の分はありませんでした。持ってきた調理器具を使い,ストーブの上で食事を作りました。しかし,用を足す所はなく,バケツを使うしかありませんでした。後にわたしたちは,貨車の床に丸い穴を開けてバケツを固定し,周りに毛布をつるして,幾らかのプライバシーを保てるようにしました。

      こうして,すし詰めの貨車で過ごしながら,何千キロも先の未知の場所へと,ゆっくり移送されてゆきました。初めは幾らか落胆しました。しかし,一緒に王国の歌を歌いました。あまりにも力いっぱい歌ったので,後で声が出なくなるほどでした。でも,そうしているうちに,喜びがわいてきました。司令官がドアを開けては,やめろと言いましたが,歌い終わるまでやめませんでした。途中の駅で停車すると,多くの人はエホバの証人が流刑にされていることを知りました。17日か18日の間その貨車に乗せられた後,ついにシベリアのバイカル湖の近くで降ろされました。

      [図版]

      後列,右側に立っているのがわたし

      [8ページの囲み記事/図版]

      「ハルマゲドン」― ソビエトの宣伝映画

      ソビエト当局は,エホバの証人の評判を落とそうとする努力の一環として,「ハルマゲドン」という映画を制作しました。その映画はフィクションで,おもなストーリーは,ソ連軍の青年と,エホバの証人になるよう誘われていたある若い女性の恋愛物語でした。最後の場面では,その女性の幼い妹が,エホバの証人の監督が起こした事故で死んでしまいます。その証人は,アメリカの諜報機関のスパイとして描かれていました。

      観客の感情をかきたてるこの映画について,1963年5月14日付,ウクライナの新聞「赤旗」は,こう注解しました。「こうした方法による無神論の宣伝は効果的で,説得力がある。同様の映画が上映されている国内の他の村々でも,用いることができるだろう」。

      [6ページの図版]

      幾千もの人たちが貨車でシベリアへ送られた

  • 宗教はどのようにして生き残ったか
    目ざめよ! 2001 | 4月22日
    • 宗教はどのようにして生き残ったか

      ナチ・ドイツがロシアに侵攻した1941年6月までに,ソビエト政府はロシア正教会を事実上,壊滅させていました。しかし,ナチの侵攻が始まると,ソビエト政府は宗教に対する態度を変化させました。何がそうさせたのでしょうか。

      ロンドンにあるキングズカレッジの現代史の教授リチャード・オーバリーは,自著「ロシアの戦争 ― 雪上の血」(Russia's War—Blood Upon the Snow)の中で,こう説明しています。「教会の首長であったモスクワ府主教セルゲイは,ドイツが侵攻したその日,勝利を得るためにあらゆる手を尽くすよう信徒に訴えた。続く2年間に少なくとも23通の書簡を書き,自分たちが住んでいる神を認めない国家のために戦うよう群れに呼びかけた」。そのために,オーバリーが続けて述べているとおり,『スターリンは,宗教の再興を許しました』。

      1943年,ついにスターリンは正教会を認めることに同意し,セルゲイを新しい総主教に任命しました。オーバリーはこう述べています。「教会当局は,信徒から寄付を募り,ソビエトの機甲部隊に資金を提供することによって,これにこたえた。司祭や主教たちは,信仰を,つまり神への信仰とスターリンへの信仰を守るよう,自分たちの会衆に勧めた」。

      ロシアの宗教学者セルゲイ・イワネンコは,この時期のロシアの歴史について,こう書いています。『ロシア正教会の公式刊行物,「モスクワ主教管区ジャーナル」は,スターリンを称賛し,古今東西最大の指導者また教師,圧制と大地主と資本主義者から国民を救うべく神によって遣わされた使者とした。また信徒に対し,ソビエト連邦を敵から防護すべく血の最後の一滴までも戦い,共産主義社会を築くためにすべてをささげるようにと呼びかけた』。

      『KGBに重宝される』

      1945年に第二次世界大戦が終結した後にも,正教会は共産主義者にとって有用な存在でした。ハリソン・サリスバリーは,著書「ソビエト連邦の50年」(The Soviet Union: The Fifty Years)の中で,その状態がどのように保たれたのかを明らかにして,こう述べています。「戦争が終わると,教会の指導者たちは,冷戦下におけるスターリンの対外政策に基づく要求に同調した」。

      最近出された「剣と盾」という本は,教会の指導者たちがどのようにソビエト当局の関心事に奉仕したかを記しています。その本は,セルゲイの後継として1945年に総主教となっていたアレクシー1世が,「1949年に設立された,ソビエトの見かけ上の組織である世界平和評議会に加わった」ことを説明しています。また,アレクシー1世とモスクワ府主教ニコライとが,「影響力のある代理人として,KGB[ソビエトの国家保安委員会]に重宝されていた」とも述べています。

      注目すべきことに,1955年,総主教アレクシー1世はこう宣言しました。「ロシア正教会は,我が国の政府の全く平和的な対外政策を支持する。それは,唱えられているごとく当教会に自由がないからではなく,ソビエトの政策が正当で,当教会の説くキリスト教の理念にかなうからである」。

      2000年1月22日付,英国ロンドンのガーディアン紙には,反主流派の正教会司祭ゲオールギイ・エデルシュタインの言葉が載せられています。「主教はすべて,ソビエト政府と協力して働くように注意深く選ばれていた。全員がKGBの要員であった。総主教アレクシーが,ドロズドフという暗号名でKGBに徴用されていたことはよく知られている。今日でも,主教たちは,二,三十年前と同様の政略を温存している」。

      ソビエト国家の侍女

      正教会とソビエト当局との関係について,1959年9月14日付のライフ誌(英語)はこう述べていました。「スターリンは宗教に対して幾らか譲歩し,教会はスターリンをロシア皇帝のように扱った。正教会からの協力は特別な政府機関によって確実なものとされ,以来,共産党員は教会をソビエト国家の片腕として利用してきた」。

      ロシアの教会問題の権威であるマシュー・スピンカは,1956年に著わした「ソビエト・ロシアの教会」(The Church in Soviet Russia)の中で,教会と国家との間に緊密な関係が存在することを確認し,「現総主教アレクセイは,教会を,意図して政府の道具にした」と書きました。こうして確かに,正教会は事実上,国家の侍女となることによって生き残ってきました。『しかし,これは,それほど非難されるべきことだろうか』と言われるかもしれません。では,神とキリストがそれをどのようにご覧になるかを考えてください。

      イエス・キリストは真の弟子たちに,「あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出した」と語りました。また,神の言葉は適切にもこう問いかけています。「姦婦たちよ,あなた方は世との交友が神との敵対であることを知らないのですか」。(ヨハネ 15:19。ヤコブ 4:4)ですから,聖書が示しているように,教会は自らを宗教上の娼婦とし,「地の王たち……と淫行を犯し」てきたのです。そして,「大いなるバビロン,娼婦たちと地の嫌悪すべきものとの母」と聖書が呼ぶものの一部であることを示してきました。―啓示 17:1-6。

      証人たちはどのようにして生き残ったか

      一方イエス・キリストは,ご自身の真の追随者たちが何によって知られるかを明らかにして,こう言われました。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:35)この愛こそ,証人たちが旧ソビエト連邦で生き残ることを可能にした重要な要素でした。「剣と盾」に載せられている次の報告にも示されています。「エホバ信奉者は,[強制労働]収容所や国内の流刑地にいる仲間の信者をあらゆる面で助け,金銭や食物や衣服を供給した」。

      収容所にいる人たちに「食物」を供給することには,聖書や聖書文書といった霊的な食物を配ることも含まれていました。聖書には『神のことば』が収められています。イエスは,そのことばによって霊的な命を支えてゆく必要がある,と語りました。(マタイ 4:4)聖書の文書は,大いに身の危険を冒しつつ収容所内にひそかに運び込まれました。そうしているところが見つかれば,だれでも厳しく罰せられたからです。

      1962年から1966年までロシアのポトマ流刑収容所に投獄されていた,ラトビア人のヘレナ・ツェルミニャは,「ソ連の刑務所の中の女性たち」(Women in Soviet Prisons)という本を書き,その中でこう説明しています。「エホバの証人の中には,自分のアパートに数冊の『ものみの塔』誌があるというだけの理由で,10年間の重労働を科される人も少なくない。そうした書物を所持していると逮捕されるのだから,この文書が収容所内にあるとなれば,当局がやきもきし,いら立つのも理解できる」。

      自らの自由や安全をも危険にさらして霊的な援助を差し伸べるのは,確かにクリスチャン愛の証拠です。しかし,エホバの証人が生き残る上でこうした愛は重要な要素であったとはいえ,さらに重要な要素がもう一つありました。ヘレナ・ツェルミニャはこう述べています。「有刺鉄線が巡らされ,人との接触が限られているこの場所の中に,禁書がどのようにして入り込むのか,だれも理解できなかった」。それは起こり得ないことに思えました。刑務所に入る人はすべて徹底的に身体検査されたからです。「あたかもみ使いたちが夜間に飛んで来てそれを落として行ったかのようであった」とツェルミニャは書いています。

      実際,神はご自分の民を見放したり,見捨てたりはしないと約束しておられます。ですから,旧ソビエト連邦のエホバの証人は,「見よ,神はわたしを助けてくださる方」と述べた,聖書の詩編作者の言葉にためらうことなく同意します。(詩編 54:4。ヨシュア 1:5)神の助けこそ,旧ソ連にいたエホバの証人が生き残るための重要な要素だったのです。

      状況はどう変わったか

      1991年3月27日,エホバの証人はソビエト連邦で法的に認可された組織となりました。その際に署名された法的な定款には,次の宣言が含まれています。「当宗教団体の目的は,エホバ神の名と,イエス・キリストによる天の王国を通して人類に及ぶ神の愛ある備えとを知らせる,宗教活動を行なうことである」。

      その宗教活動を行なう方法としてその定款に掲げられているものの中には,公に宣べ伝えて人々の家を訪問すること,喜んで耳を傾ける人々に聖書の真理を教えること,聖書研究用の出版物を用いて無料の家庭聖書研究を司会すること,聖書を頒布することなどが含まれています。

      10年余り前にその書面に署名がなされて以来,ソビエト連邦は崩壊し,旧ソビエトの15の共和国での宗教事情も大きく変化してきました。それらの国々ではもちろん,世界の他の国々でも,宗教の将来はどうなるのでしょうか。

      [11ページの囲み記事]

      教会とソビエトの協力関係

      1945年出版の「なぞを解かれたロシア」(Russia Is No Riddle)という本の中で,エドマンド・スティーブンズはこう書いています。「正教会は,今えさを与えてくれている手にかみつくことがないようにと,細心の注意を払った。示された好意に対する返礼として,教会が国家の体制を固く支持し,一定の枠内で活動するようにと期待されていることを十分に承知していた」。

      スティーブンズはさらにこう説明しています。「正教会には,国教としての何世紀にも及ぶ伝統が深く根づいていた。そのため,ソビエト政府との緊密な協力関係という新たな役割に,ごく自然にすべり込むことができた」。

      ケストン研究所は,現ロシア正教会総主教アレクシー2世とソビエト当局との,過去の協力関係を徹底的に調査しました。その報告はこう結ばれています。「アレクシーの協力は,決して例外的なものではない。カトリック,バプテスト派,アドベンティスト派,イスラム教,仏教など,公式に認可されたすべての宗派の上級指導者は,ほぼ全員がKGB要員としてスカウトされた人たちだった。実際,アレクシーの採用に関する年次報告には,多数の他の要員についても記されており,中にはエストニアのルーテル教会の人たちもいる」。

      [12ページの囲み記事/図版]

      収容所内の人々に伝える

      ラトビアのジャーナリスト,ビクトールス・カルニンシュは,自分の受けた10年の刑期(1962-1972年)のほとんどを,モスクワの南東およそ400㌔にあった,モルドバの収容所施設で過ごしました。1979年3月に行なわれたインタビューの際,「目ざめよ!」執筆員は次のように尋ねました。「収容所内のエホバの証人は,証人たちの組織がここ米国や他の国々で行なっている事柄について知っていますか」。

      カルニンシュはこう答えました。「ええ,受け取る文書を通して知っています。……その雑誌を見せてくれることもありました。文書がどこに隠されていたかは分かりません。その場所はいつも変わっていましたから。でも,文書が収容所内にあることは皆が知っていました。……看守とエホバの証人は,まるでいたちごっこのようでした。一方は何とか文書を隠し,もう一方は何とか見つけようとしていました」。

      「エホバの証人は,自分たちの信条についてあなたに話そうとしましたか」という質問に対し,カルニンシュはこう答えました。「もちろんです。その信条はよく知られていました。わたしたちは皆,ハルマゲドンについて知っていました。……病気がなくなることについても,いろいろと話していました」。

      [図版]

      モルドバの収容所の証人たちは,恐れることなく聖書の真理を伝えた

      [8,9ページの図版]

      ボフチュク夫妻は,1951年にシベリアのイルクーツクへ送られたが,今なお忠実なクリスチャン

      [10ページの図版]

      第二次世界大戦中に教会はスターリンを支援し,スターリンは宗教の一時的な再興を許した

      [クレジット]

      U.S. Army photo

      [10ページの図版]

      総主教アレクシー1世(1945-1970年)は,『ソビエトの政策は,当教会の説くキリスト教の理念にかなう』と述べた

      [クレジット]

      Central State Archive regarding the film/photo/phono documents of Saint-Petersburg

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