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  • スイスとリヒテンシュタイン
    1987 エホバの証人の年鑑
    • そのころ,E・ツァオク兄弟は,フランス語の区域における業の責任者を務め,ベルンに自分の事務所を持っていました。ベルンではまた,兄弟たちが数人で印刷会社を作り,協会の出版物を生産しはじめていました。従業員が全員献身した人たちだったので,ちょうどよい値段で生産できたのです。

  • スイスとリヒテンシュタイン
    1987 エホバの証人の年鑑
    • ベルンに新しいベテル・ホームと工場が備えられ,1925年の滑り出しはたいへん好調でした。兄弟たちは幸福で,業をどんどん推し進めるよう励まされました。しかし中には,1925年に関して自分なりの確信を抱いている人たちがいました。その人たちは「ものみの塔」誌,1925年1月1日号の訓戒を受け入れるでしょうか。同誌はこう警告していました。

      「1925年になりました。クリスチャンは大きな期待を抱いてこの年を待ち望んできました。キリストの体の一部となっている人々は全員この年の間に天の栄光ある様に変えられるということを確信を持って期待してきた人は少なくありません。それは成就するかもしれませんし,成就しないかもしれません。時が来れば,神はご自分の民に関するお目的を成就されるでしょう。クリスチャンは,今年生じるかもしれない事柄に拘泥するあまり,主が自分たちに行なわせようとしておられることを喜んで行なうことができないようであってはなりません」。

      中でも,ベテルの奉仕担当係の責任者だったヤーコプ・ウェーバーは警告に感銘を受けなかったようです。油そそがれた人々は皆その年の終わりまでに天で栄光を授けられるとあまりにも強く確信していたため,“解散手続き”を取ろうとしました。注文を受けてもいないのに大量の文書を諸会衆に送り,1925年が終わるまでに区域でそれらを無料で配布するよう指示したのです。

      ベテルの兄弟たちはヤーコプ・ウェーバーを説得しようとあらゆる努力を払いましたが,無駄でした。その者はついにベテルを去ったばかりか,真理からも離れ,国中の兄弟たちに大きな悲嘆をもたらしました。自分と一緒に大勢の人を連れていってしまったからです。成員の数がそれまでの半分以下になってしまった会衆も幾つかありました。

      ベテル家族内の別の悲しむべき状態も明るみに出ました。不道徳な行為を犯した者たちがいたのです。会長事務所により直ちに処置が取られました。次いで,1926年2月にブルックリンからマーチン・ハーベック兄弟が到着し,ベルンの事務所の監督を引き継ぎました。

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