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スイスとリヒテンシュタイン1987 エホバの証人の年鑑
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イベルドンで運営されていた文書集配所は1912年にジュネーブに移され,それが支部事務所として機能することになりました。スイスのフランス語地域だけでなく,ヨーロッパ全域のフランス語の区域がその支部の監督下に置かれました。後に事務所は同じ通りに面した別の所に移転しました。その支部は23の会衆の世話をするようになっていました。1916年の記念式の報告によると,スイスのフランス語地域の出席者の合計は256人,フランスの出席者は108人でした。
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スイスとリヒテンシュタイン1987 エホバの証人の年鑑
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それよりもさらに深刻だったのは,ジュネーブの事務所の責任者だったL・A・フライタークが引き起こした問題です。この人物は,英語の「ものみの塔」誌と「聖書研究」の本をフランス語に翻訳して出版する権限を与えられていたのですが,その立場を乱用して自分の考えを広めました。協会のラザフォード会長にそのことが知れると,フライタークは直ちに解任され,ジュネーブの事務所は閉鎖されました。ところが,フライタークはジュネーブにある協会の資産を自分の管理下に置いておくことを望み,財務の決算報告をしようとしませんでした。おまけに,「ラ・トゥール・ド・ガルド(ものみの塔)」という名称を使って自分の雑誌を発行したいと考えました。そして,事実をはなはだしく歪曲し,協会はフライタークの所有物を要求していると主張したのです。フライタークに対して法的な措置を取ることが必要になりました。フライタークは三つの裁判すべてにおいて敗訴し,結局,協会の家具と文書および「創造の写真劇」を返却しなければなりませんでした。そして財務の計算書を提出させられました。その後は関係が絶たれ,フライタークは独自の運動を主宰しました。
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