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    1992 エホバの証人の年鑑
    • こうして1948年に北ローデシアの支部事務所は兄弟たちを援助するためにトムソン・カンガレを遣わしました。その年の3月にムベヤに到着した時,教えたり再調整を施したりする余地がたくさんありました。

      カンガレ兄弟は辛抱強い教え手でしたし,兄弟たちは必要な調整をすぐに行ないました。その一つとして自分たちのことを,もはやものみの塔の人とではなく,エホバの証人と名乗ることを学びました。彼らはエホバの証人という名前を以前から知っており受け入れていましたが,それを公に宣伝していませんでした。また,兄弟たちはペテロ第一 3章15節の助言にしたがって,王国の音信を提供する際にもっと巧みになることも学びました。それで単に偽りの宗教の教えを攻撃する代わりに,良いたよりを強調しました。さらに野外宣教に費やした時間を報告する正しい方法についての誤解は正されました。それに加えて兄弟たちは自分の家の外観をきれいにしましたし,自分の外見もきれいにしました。もじゃもじゃのあごひげを剃った人もいました。

      集会では,より秩序正しく,効果的なプログラムについて行くこと,宗教的な鐘の使用などバビロン的な宗教の名残を取り除くことを学びました。神権宣教学校では,筆記の復習で良い点を取った人の名前を発表しないことの価値を理解することができました。あるエホバの証人たちは死者を敬うことに関係のある特定の習慣を捨てる必要がありました。別の人にとってそれは喫煙の習慣をやめる時となりました。でも,多分最も大きな問題となったのは,結婚を法的に登録し,すべての人の前で誉れあるものとすることでした。―ヘブライ 13:4。

  • ケニアとその近隣諸国
    1992 エホバの証人の年鑑
    • 訓練する努力は続く

      1952年に,北ローデシアで地域監督として奉仕していたギレアデ卒業生のバスター・メイオ・ホルクムはタンガニーカに渡り,トゥクユの近くで巡回大会を開くことができました。ホルクムはこう語っています。「私たちが大会会場に近づいたのは午後遅くでした。できれば日が暮れるまでにそこに到着したいと思っていました。するとまさに天が落ちて来たかのような大雨が降りだしました。前進するのは不可能でした。激しい雨のために道が見えなかったからです。ワゴン車を止めて,できるだけ快適に夜を過ごせるよう準備しました。嵐は一向に弱まる気配を見せず,かえってひどくなっているように思えたからです。しかし翌朝,雨はぴたりとやみ,私たちは水の中をかなり歩いてやっと大会会場に着きました。数人の兄弟たちがいました。たいへん驚いたのは,大会が開催できないのではないかと私たちがちょっとほのめかした時,兄弟たちがびっくりしていたことです。他の兄弟たちも絶対に来ると言うのです。

      「そして,確かに兄弟たちはやって来ました。しかもある人たちはあの天気の中を二,三日歩かなければならなかったのです。日曜日の午後の出席者は419人でした。そしてその日の午前中61人が献身の象徴として水のバプテスマを受けました」。

      兄弟たちは助言によくこたえ応じ,関心を持った人々の生き方は劇的な変化を遂げました。例えば,聖書は複数の妻を持つことを許していません。男はおのおの「自分の妻を持ち,女はおのおの自分の夫を持ち」,クリスチャンの監督は「一人の妻の夫」でなければならないと述べています。(コリント第一 7:2。テモテ第一 3:2)それで,多くの妻を持っていたある部族の酋長は最年長の配偶者以外のすべての妻を家に返し,それからバプテスマを受けました。後に,その人は会衆の長老になりました。別の男性には二人の妻がいましたが,若いほうの妻を自分の弟に与え,自分の利己心のせいで家族3人が死ぬのはいやだと言いました。この人も資格を得てバプテスマを受けました。

      娘を嫁がせるときの花嫁料を請求するという伝統的な権利を放棄することによって無私の愛を示したエホバの証人もいます。そうした花嫁料は若いエホバの証人,特に開拓者にとっては目の玉が飛び出るほど高いことがあります。しかし,多くの父親は娘が「主にある者と」結婚するのを見て喜びました。(コリント第一 7:39)それによって新婚の夫婦は花嫁料という重荷から解放され,結婚生活を始めるのがたいへん容易になりました。最初はみんな驚いていましたが,時とともに,この愛ある関心の表われを認め,尊重する人はますます増えてゆきました。

      タンガニーカにおいても僧職者たちは問題を引き起こそうとしましたが,うまくゆきませんでした。ムベヤでカンガレ兄弟が警察に逮捕されたとき,兄弟は自分の霊的兄弟たちのところに行こうとしているだけだと説明することができました。すると警察は協力的になり,会衆を訪問する予定表を置いてゆくよう頼みました。そうすれば兄弟が到着することを他の警察署に連絡でき,そこの警察が兄弟を怪しむことがなくなるからです。こうしてカンガレ兄弟は何年もの間タンガニーカ周辺を自由に旅行することができました。北ローデシアやニアサランドの特別開拓者や旅行する監督もカンガレ兄弟と共に羊を築き上げる業に加わりました。少し名前を挙げると,フランク・カニアンガ,ジェームズ・ムワンゴ,ワシントン・ムウェニア,バーナード・ムシンガ,ウィリアム・ランプ・チセンガなどです。興味深いことにチセンガ兄弟は1957年にムベヤ市でノーバート・カワラに会いました。真理を渇望していたカワラは週2回聖書を研究し,資格を得てバプテスマを受けました。後に彼はケニアのナイロビの支部事務所で翻訳者として奉仕しました。

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