ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • あなたはそれを信ずるべきですか
    あなたは三位一体を信ずるべきですか
    • 「カトリック教信仰」と題する本は,「この信条をそのまま,純粋な形で守らない限り,[そのような人々は]疑いなく永遠に滅びうせるであろう。そのカトリックの信条とは,我々は三位一体におけるただひとりの神を崇拝するということである」と指摘していますが,もし三位一体が偽りであれば,そのように言う人は,神を辱めることになります。

  • 三位一体はどのように説明されていますか
    あなたは三位一体を信ずるべきですか
    • モンシニョール・ユージーン・クラークはこう言いました。「神は一つであり,神は三つである。このようなことは創造物のうちには一つもないゆえに,我々は理解できないが,ただそれを受け入れるのである」。ジョン・オコナー枢機卿はこう述べました。「我々は,それが人間にはとても理解できそうにもない,非常に深遠な奥義であることを知っている」。また,法王ヨハネ・パウロ2世は,「三位一体なる神の測り知れない奥義」についてうんぬんしています。

      したがって,「宗教知識辞典」はこう述べています。「厳密に言って,それがどのような教理か,いや,むしろ厳密に言って,それをどのように説明すべきかに関し,三位一体論者自身意見の一致を見ていない」。

      ですから,新カトリック百科事典が次のように述べているのも当然なことです。「ローマ・カトリックの神学校で三位一体の神学を教える人たちのうち,何かの折に,『しかし,どのように三位一体を教えるのか』という質問に悩まされなかった人はほとんどいない。この質問が学生の側の混乱を表わしているとしたら,この質問は彼らの教授たちの側の同様な混乱を表わしているとも言えるだろう」。

      図書館へ行って,三位一体を支持する書物を調べれば,そのような意見が真実かどうかを確かめることができます。三位一体を説明しようとして無数の紙面が費やされてきました。にもかかわらず,人を当惑させるような神学用語を用いた,たいへん複雑な説明を苦労して読んで調べたところで,結局,依然として納得できずに終わってしまいます。

      この点で,イエズス会士ジョセフ・ブラケンは自著,「彼らは三位一体について何と語っているか」の中で次のように評しています。「神学校で……相当の努力を払って……何年間も三位一体について学んだ司祭たちは当然のことながら,三位一体主日でさえ,この教えについて説教壇から人々に語るのをためらった。結局,人がどうしても理解できないような事柄を話して,どうして人をうんざりさせるべきだろうか」。この著者はまた,「三位一体は形式的な信仰の問題であって,クリスチャンの日常生活や崇拝にはほとんど,あるいは全く[影響]がない」とも述べています。しかし,その教えが諸教会の「中心的な教理」なのです!

      カトリックの神学者ハンス・キュングは自著,「キリスト教と世界宗教」の中で,諸教会がクリスチャンではない諸民族の間で何ら際立った進展を遂げなかった理由の一つは三位一体にあると評して,次のように述べています。「ユダヤ人がこれまで三位一体の考え方をつかめなかったように,事情によく通じたイスラム教徒でさえ,その考え方にはどうしてもついていけない。……三位一体の教理によって示された,ただひとりの神と三つの位格との間の相違点は,イスラム教徒を納得させるものではない。彼らはシリア語,ギリシャ語,およびラテン語に由来する神学用語で啓発されるどころか,当惑させられてきた。それはことば遊び以外の何ものでもないとイスラム教徒は感じている。……だれであれ,神の単一性や特異性という概念に,その単一性や特異性という考えを弱めたり,あるいは無にしたりすることしかできないような事柄をどうして付け加えたいなどと考えるべきであろうか」。

      『混乱の神ではない』

      人を混乱させる,このような教理が,一体どのようにして生じ得たのでしょうか。カトリック百科事典は,「極めて神秘的な教義は神からの啓示を前提としている」と主張しています。カトリックの学者カール・ラーナーとヘルベルト・フォルグリムラーは共同で編集した「神学辞典」の中で,こう述べています。「三位一体は……厳密な意味で……奥義であり……啓示なくしては知り得なかった事柄である。また,啓示を受けても,その全体は分からないのである」。

  • それは明らかに聖書の教えですか
    あなたは三位一体を信ずるべきですか
    • また,三位一体は,「直接,またじかに示された神の言葉……ではない」と,カトリックの一権威者は述べました。―新カトリック百科事典。

      カトリック百科事典もまた,次のように注解しています。「神の三つの位格を一緒に示す単一の用語は,今までのところ聖書には一つもない。τρίας[トリアス,「三位性」の意](そのラテン語訳がトリニタス[「三一性」の意])という言葉は,最初,西暦180年ごろのアンティオキアのテオフィロスの著書に出ている。……その後,ほどなくして,そのラテン語形であるトリニタスという語が,テルトゥリアヌスの著書に出て来る」。

      しかし,このことはそれだけでは,テルトゥリアヌスが三位一体を唱道したという証拠にはなりません。例えば,「三一性<トリニタス> ― 聖三位一体に関する神学百科事典」と題するカトリックの著作は,テルトゥリアヌスの言葉の幾つかが後に他の人々により三位一体を説明するのに用いられたと指摘し,次いで,こう警告しています。「しかし,言葉の用法から早急に結論を出すことはできない。なぜなら,テルトゥリアヌスはそれらの言葉を三位一体の神学に適用していないからである」。

  • 三位一体の教理はどのように発展しましたか
    あなたは三位一体を信ずるべきですか
    • 三位一体の教理はどのように発展しましたか

      ここで,読者は,「もし三位一体の教理が聖書の教えではないとしたら,それはどのようにしてキリスト教世界の教理となったのだろうか」とお尋ねになるかもしれません。それは西暦325年にニケア(ニカイア)公会議で定式化されたと思っている人が少なくありません。

      しかし,それが全く正しいというわけではありません。確かに,キリストは神と同じ実体を有する者であることがニケア公会議で主張され,後代の三位一体論の神学の基礎が据えられました。しかし,その公会議で三位一体が確立されたわけではありません。なぜなら,同公会議では三者一体の神の第三の位格である聖霊について何も述べられなかったからです。

      ニケアにおけるコンスタンティヌスの役割

      発展途上にあった,イエスが神であるという概念は多年,聖書的な根拠に基づく相当の反対に遭遇していました。ローマ皇帝コンスタンティヌスはその論争を解決しようとして,すべての司教をニケアに召集することにしました。実際に出席したのは,全体から見ればわずかで,300人ほどでした。

      コンスタンティヌスはクリスチャンではありませんでした。恐らく,彼は後に改宗したものと思われますが,バプテスマは臨終に至るまで受けませんでした。同皇帝に関して,ヘンリー・チャドウィックは「初期教会」と題する本の中で次のように述べています。「コンスタンティヌスはその父と同様,“征服されることのない太陽”を崇拝した。……その改宗は恩寵の内的経験として説明されるべきものではない。……それは軍事的な事柄であった。キリスト教の教理に関する彼の理解は非常に明確なものとは決して言えなかったが,戦いにおける勝利を授ける権利はクリスチャンの神にあることを彼は確信していた」。

      バプテスマを受けていなかったこの皇帝は,ニケア公会議でどんな役割を演じましたか。ブリタニカ百科事典はこう述べています。「コンスタンティヌスが自ら主宰し,積極的に討議を指導し……同公会議により発布された,『父と同一の実体に関する』信経の中で神とキリストとの関係を表わした決定的な定式を……個人的に提唱した。……同皇帝に威圧された司教たちは,わずか二人の例外を除き,多くは不本意ながらも,その信経に署名した」。

      したがって,コンスタンティヌスの役割は極めて重大なものでした。宗教上の激烈な論争が2か月間行なわれた後,この異教の政治家が介入して,イエスは神であると論じた人々に有利な決定を下したのです。しかし,なぜでしょうか。確かに,それは聖書に基づく何らかの確信のためではありませんでした。「キリスト教教理に関する小史」という本は, 「コンスタンティヌスはギリシャ神学で問われていた疑問について,基本的には全く理解していなかった」と述べています。同皇帝が確かに理解していたのは,宗教上の分裂が同帝国にとって脅威となっていたことで,彼は自分の権力を確固たるものにしておきたいと考えていました。

      ところが,ニケアの司教はだれ一人三位一体を推奨しませんでした。彼らは聖霊ではなく,イエスの性質を定めただけでした。もし三位一体が聖書の明白な真理であったなら,彼らは当時,その教えを提唱したはずではなかったでしょうか。

      その後の発展

      ニケア以後も,この問題に関する論争は何十年も続きました。イエスは神と同等ではないと信じていた人々が一時,再び認められるようにさえなりました。しかし,後にテオドシウス皇帝は彼らに不利な決定を下しました。同皇帝はニケア公会議の信経を同帝国の領域のための規準として制定し,その定式を明確にするため,西暦381年にコンスタンティノープル公会議を召集しました。

      その公会議は聖霊を神およびキリストと同列に置くことで同意しました。こうして初めて,キリスト教世界の三位一体が明らかになりました。

      ところが,コンスタンティノープル公会議の後でさえ,三位一体は広く受け入れられた信経とはなりませんでした。多くの人々は同信経に反対し,激しい迫害を被りました。三位一体はそれから何世紀も後にやっと,正規の信経として定式化されました。アメリカーナ百科事典はこう指摘しています。「三位一体説は哲学や心理学の見地から説明をする試みがなされた西洋の中世のスコラ哲学の中で十分に発展した」。

      アタナシウス信経

      三位一体はアタナシウス信経(信条)の中で一層十分に定義されました。アタナシウスはニケアでコンスタンティヌスを支持した僧職者でした。その名を付された同信経はこう宣言しています。「我らは三位一体のただひとりの神を崇拝する。……父は神であり,子は神であり,聖霊も神である。しかし,それは三つの神ではなく,ただひとりの神である」。

      しかし,アタナシウスがこの信経を作成したのではないという点で,事情によく通じた学者の意見は一致しています。新ブリタニカ百科事典はこう注解しています。「この信経は12世紀まで東方教会には知られていなかった。アタナシウス信経はアタナシウス(373年没)が書いたのではなく,多分,5世紀に南フランスで作成されたという点で,17世紀以来,大抵の学者の意見は一致している。……その信経の影響はおもに6,7世紀に南フランスとスペインに及んだようである。同信経は9世紀にドイツで,また少し後になってローマで教会の典礼に使われた」。

      ですから,三位一体がキリスト教世界で広く受け入れられるようになるまでには何世紀もかかりました。しかも,そのすべてにおいて,何に導かれて決定がなされましたか。神のみ言葉でしたか。それとも僧職者や政治家の考えに導かれましたか。E・W・ホプキンズは「宗教の起源と進展」と題する本の中で,「三位一体に関する最終的な正統的定義は,大方,教会の政策上の事柄であった」と答えています。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする