ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • ウクライナ
    2002 エホバの証人の年鑑
    • 翻訳の進展

      19世紀末から20世紀初頭にかけて,多くの家族がウクライナから米国やカナダへ移住しました。その新天地で真理を受け入れた人たちもいて,ウクライナ語を話す人々のグループがたくさん作られました。すでに1918年には,「世々に渉る神の経綸」がウクライナ語で出版されていました。しかし,ウクライナ内外に住む,ウクライナ語を話す人々に霊的な食物を供給するためには,もっと多くのことを行なう必要がありました。1920年代に入ると,資格ある兄弟が定期的に聖書関係の出版物を翻訳する必要のあることが明白になりました。1923年,カナダ在住のエミール・ザリツキーは,全時間奉仕の招待を受け入れました。兄弟にとって,これはおもに聖書関係の出版物をウクライナ語に翻訳することが関係していました。兄弟はまた,カナダと米国にある,ウクライナ語,ポーランド語,スロバキア語のグループを訪問しました。

      エミール・ザリツキーはウクライナ西部のソカリという町の近くで生まれ,後に両親とカナダに移住しました。兄弟はそこでウクライナ出身のマリヤという女性と結婚し,二人は5人の子どもを育てました。家族に対する重い責任があったにもかかわらず,エミールとマリヤは神権的な割り当てを果たすことができました。1928年,ものみの塔協会はカナダのウィニペグに家を購入し,そこがウクライナ語への翻訳作業の拠点となりました。

      当時,兄弟たちは家から家の宣教で,携帯用蓄音機と聖書講演のレコードを用いていました。ザリツキー兄弟はブルックリンに招かれ,そのような講演のウクライナ語版の吹き込みを行ないました。1930年代には,ウィニペグのラジオ局で,ウクライナ語による30分の番組が幾つか作成されました。そのようなラジオ放送で,エミール・ザリツキーや他の経験ある兄弟たちが,意味深い公開講演を行ないました。講演と共に,1928年に出版された歌の本に基づく四部合唱も放送されました。それを聞いた人たちから,何百という感謝の手紙や電話が寄せられました。

      エミール・ザリツキーと妻のマリヤは,40年にわたって翻訳者としての割り当てを忠実に果たしました。その期間中,毎号の「ものみの塔」誌がウクライナ語に翻訳されました。1964年には,モーリス・サランチュクが翻訳の仕事を監督するよう任命されました。兄弟は長年,妻のアンと共にザリツキー兄弟を援助していました。

  • ウクライナ
    2002 エホバの証人の年鑑
    • [132ページの図版]

      マリヤ・ザリツキーとエミール・ザリツキーは,40年にわたって翻訳者としての割り当てを忠実に果たした

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする