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その1 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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チャールズ・テイズ・ラッセルは聖書に関する十分宣伝された講演で広く知られるようになったとはいえ,単に大勢の聴衆にではなく,人々に関心を抱いていました。それでラッセルは,1879年に「ものみの塔」誌を創刊してから間もなく,同誌の読者の小さなグループを訪問して共に聖書の討議を行なうため,広範な旅行を始めました。
C・T・ラッセルは,神の言葉の貴重な約束を信じている人々に対して,その約束を他の人に知らせる業に加わるよう勧めました。学んでいる事柄に深く心を動かされた人々は真の熱意を示してまさに勧められたことを行ないました。その業の助けとして印刷物が用意されました。1881年の初めに,幾つかのパンフレットが登場しました。そして,そうしたパンフレットの資料に他の情報を追加して,より包括的な「考えるクリスチャンのための糧」が作られ,配布用に120万部準備されました。しかし,その120万部すべてを小人数の聖書研究者たち(当時100人ほど)がどのようにして配布できたのでしょうか。
教会に通う人々に音信を伝える
そのうちの幾らかは親族や友人に配布されました。また,何社かの新聞社が購読者に1部ずつ届けてくれることになりました。(田舎に住む大勢の人たちに「考えるクリスチャンのための糧」が届くよう,週刊や月刊の新聞が特に重視されました。)しかし大部分は,数週間連続で日曜日に米国と英国の教会の前で配布されました。聖書研究者だけでそれを成し遂げるには人数が足りなかったので,他の人を手伝いに雇いました。
英国で30万部配布する業を監督するため,ラッセル兄弟はJ・C・サンダーリンとJ・J・ベンダーという二人の仲間をそこに遣わしました。サンダーリン兄弟はロンドンへ赴き,ベンダー兄弟のほうはまず北方のスコットランドに行ってから,南へ下りながら奉仕しました。おもに大都市に注意が向けられました。手慣れた人たちを新聞広告で探して契約し,その人たちが自分の割り当て分を配布できるよう十分な数の助手を手配しました。ロンドンだけで配布のために500人近くの人が集められました。業は速やかに,日曜日に2週連続で行なわれました。
その同じ年,自分の時間の半分以上を専ら主の業に費やすことのできる聖書研究者が,聖書研究用の文書を配布する聖書文書頒布者<コルポーター>となる取り決めが設けられました。今では開拓者と呼ばれている人たちの先駆者となったこれらの人々により,まさに驚異的な規模で良いたよりが広められました。
その後の10年間にラッセル兄弟は,それまでに学んだ聖書の際立った真理の幾つかを広めるために簡単に使える様々なパンフレットを準備しました。さらに彼は「千年期黎明」(後に「聖書研究」と呼ばれた)を数巻執筆し,その後,自ら他の国への福音宣明旅行に出かけるようになりました。
ラッセルの外国旅行
1891年,ラッセル兄弟はカナダを訪問しました。カナダでは1880年からかなりの関心が呼び起こされていたので,この時にはトロントで出席者数700人の大会を開くことができました。彼は1891年にはヨーロッパにも旅行し,その地で真理を広める業を推し進めるために何ができるか調査しました。その旅行で彼は,アイルランドとスコットランドとイングランド,ヨーロッパ大陸の多くの国々,ロシア(現在モルドバと呼ばれる地域),中東を訪れました。
その旅行で人々と接したことに基づき,ラッセル兄弟はどんな結論を下したでしょうか。彼はこう報告しました。「ロシアには真理を受け入れるための機会や備えがまだできていなかった。……イタリアやトルコ,またオーストリアやドイツでも,いくばくかの収穫を期待させるようなものは何もなかった。しかし,ノルウェー,スウェーデン,デンマーク,スイス,そして特にイングランドやアイルランドやスコットランドは,収穫を待つばかりの畑である。それらの畑は,やって来てわたしたちを助けてください,と叫んでいるかのようである」。当時,カトリック教会は依然として聖書を読むことを禁じており,多くのプロテスタント信者が教会を去り,少なからぬ人々が教会に幻滅を感じて聖書を全く退けていました。
霊的に飢えているそうした人々を援助するため,1891年のラッセル兄弟の旅行の後,出版物をヨーロッパの言語に翻訳することに集中的に力が注がれました。また,英国での需要にもっと速やかに応じられるよう,文書をロンドンで印刷し保管する取り決めが設けられました。英国の畑は確かに収穫を待っていました。1900年には既に九つの会衆があり,熱心な聖書文書頒布者<コルポーター>を含む合計138人の聖書研究者がいました。1903年にラッセル兄弟が英国を再び訪れた際,「千年期の希望と見込み」という彼の話を聞くためにグラスゴーでは1,000人が集まり,ロンドンでは800人,他の都市では500ないし600人が出席しました。
しかしラッセル兄弟の観察どおり,イタリアで聖書研究者の最初の会衆がピネロロに設立されたのは,彼の訪問から17年後のことでした。では,トルコはどうだったでしょうか。1880年代の終わりにバジル・ステファノフが,当時ヨーロッパトルコと呼ばれた地方のマケドニアで伝道しました。関心を示すかに見えた人もいましたが,兄弟であると自称する者たちが偽りの通報をしたため,ステファノフは投獄されました。1909年になって初めて,トルコのスミルナ(現在のイズミル)の一人のギリシャ人から,その町で一つのグループが感謝しつつ,ものみの塔の出版物を研究している,という手紙が届きました。オーストリアの場合,ラッセル兄弟はウィーンで話をするため1911年に再び自らオーストリアを訪れましたが,集会は暴徒によって中断させられてしまいました。ドイツでも,感謝のこもった反応はなかなか生まれませんでした。しかし,スカンディナビアの人々は,自分たちの霊的な必要をもっと強く意識していることを示しました。
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その1 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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[405ページの地図/図版]
C・T・ラッセルは,北米やカリブ海地域の300以上(点で示された場所)の都市において自ら聖書講演を行なった。各都市で10ないし15回講演することも少なくなかった
[地図]
(出版物を参照)
[407ページの地図]
(出版物を参照)
ラッセルのヨーロッパ伝道旅行。たいてい英国経由で行なわれた
1891
1903
1908
1909
1910(2回)
1911(2回)
1912(2回)
1913
1914
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