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ウルグアイ1999 エホバの証人の年鑑
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そこに,もう一人のウルグアイの初期の良いたよりの奉仕者が現われました。その名はニキフォル・トカチェンコです。
ニキフォルは,郷里のベッサラビアでは筋金入りの共産党員でした。しかし,ブラジルに移住した後,ものみの塔協会が発行した「死者はどこにいるか」という題の小冊子を受け取りました。すぐに真理の響きを認め,熱心に聖書を研究するようになりました。間もなくブラジルのサンパウロ地区に住むロシア語を話す人々の中で宣べ伝え始めました。また,ウルグアイに住む同国人に母国語で宣べ伝えたいという願いに駆り立てられて,2,000㌔余り旅行しました。こうして1938年,トカチェンコ兄弟はウルグアイ北部のコロニア・パルマと呼ばれるロシア人居住地に到着し,たいへん熱心に奉仕して,持っていたロシア語の聖書文書をすぐに配布し尽くしました。
そこの農民は熱心な態度でこたえ応じました。家族全員で研究を始め,真理を喜んで受け入れました。エホバの家に招き入れられる「望ましいもの」の一人であることを示したのです。トカチェンコ,スタンコ,コトレリャンコ,ゴルデンコ,セクレノフ,シカーロなどはそのうちの幾人かにすぎません。その孫やひ孫たちは北部のベリャ・ウニオン,サルト,パイサンドゥといった会衆の基礎になっています。それらの家族の中には,特別開拓者,長老,巡回監督,さらには宣教者として奉仕してきた人たちもいます。トカチェンコ兄弟について言えば,1974年に亡くなるまで忠実な奉仕を続けました。
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ウルグアイ1999 エホバの証人の年鑑
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オットー・ヘレとクルト・ニケルは,トカチェンコ兄弟を助けるためにコロニア・パルマに行こうとして,615㌔の距離を数日間かけて自転車で走りました。トカチェンコ兄弟がスペイン語もドイツ語も話せないことが分かった時の驚きを想像してみてください。おまけに二人は,ロシア語が全く分かりませんでした。バベルの塔で生じた出来事の影響を感じながら,二人は限られたスペイン語を使って近くのサルトという町で伝道することにしました。その間,トカチェンコ兄弟はロシア人のところで業を続けました。―創 11:1-9。
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