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サモア2009 エホバの証人の年鑑
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アピアにおける進展
1954年5月,23歳のリチャード・ジェンキンズがアピアにやって来ました。オーストラリア人で,バプテスマを受けて間もないとはいえ,熱心な兄弟です。リチャードはこう語ります。「オーストラリアを出る前,まず仕事が安定するまでは地元の兄弟たちと交わらないよう勧められました。しかし,数か月もすると,とても寂しく思うようになり,自分が霊的に弱くなっているのを感じました。それで人目を引かないようにしながらペレ・フアイウポルと会うことにしました」。二人は気づかれないよう,夜遅くに会いました。
リチャードは言います。「ペレは,会衆との結びつきを当局に知られて国外に退去させられないよう,私を実名では呼ばないことにする,と言いました。そのようなわけで,生まれたばかりのペレの息子と同じ,ウイティネセという名を私につけてくれました。“証人”を意味する英語のウィットネスをサモア語で発音した名です。今でも,サモアの兄弟姉妹は私をその名で呼んでいます」。
この新しい名前を用いながら,リチャードは慎重に兄弟たちと接触を保ちました。非公式の証言も行ない,聖書研究も何件か取り決めました。研究生の一人に,保健所の検査官として働いていたムファウル・ガルバオという若い男性がいます。この男性は後にサモアの支部委員会の成員になりました。やがて別の聖書研究生ファレマア・トゥイポロアと家族数人もエホバの証人になりました。
リチャードの別の聖書研究生であるシエム・タアセという若者は,以前は窃盗団のリーダーでした。そのグループは,公共事業局の物品を盗んでいました。シエムは霊的な進歩を遂げないうちに,以前に働いた盗みのために刑務所に入れられました。それでもあきらめなかったリチャードは,所長の許可を得て刑務所の外で,塀から100㍍ほど離れたところにあるマンゴーの木陰で研究を続けました。そのうち他の受刑者も一緒に研究するようになりました。
リチャードは振り返ってこう語ります。「看守はいませんでしたが,受刑者の中で逃げようとした人はだれもおらず,その幾人かは真理を受け入れました」。シエムは釈放され,やがて長老として奉仕するまでになりました。
1955年,リチャードはオーストラリアの開拓者グロリア・グリーンと結婚しました。二人はサモアで共に15年奉仕し,オーストラリアに戻るまでに35人の人が真理を学ぶように助けました。現在はオーストラリアのブリズベーンに住み,リチャードはその土地のサモア語会衆で長老として奉仕しています。
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サモア2009 エホバの証人の年鑑
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[84ページの図版]
リチャード・ジェンキンズとグロリア・ジェンキンズの結婚式の日,1955年1月
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