-
神道 ― 日本における神の探求神を探求する人類の歩み
-
-
天皇崇拝と国家神道
19 (イ)復古神道の信奉者の目標は何でしたか。(ロ)本居宣長の教えはどんな考え方をもたらしましたか。(ハ)神は何をすることをわたしたちに勧めておられますか。
19 多年にわたる妥協の末,自分たちの宗教が中国の宗教思想により汚されてきたと神道の国学者は考えました。そこで,彼らは古代の日本人の道に戻ることを主張しました。そして,18世紀の学者で,第一級の国学者の一人であった本居宣長が復古神道を興しました。日本文化の起源を探求した宣長は,古典,それも特に「古事記」と呼ばれる神道の書物を研究しました。そして,太陽の女神,天照大神の優越性を説きましたが,自然現象の起こる理由は神々にあることを漠然と示すにとどまりました。さらに,宣長の教えによれば,神慮は不加測のものであるだけでなく,人間がそれを知ろうとするのは不敬なこととされました。何も尋ねずに,神慮に服従せよ,というのが宣長の考え方でした。―イザヤ 1:18。
20,21 (イ)神道の一国学者はどのようにして“中国”の影響を神道から一掃しようとしましたか。(ロ)平田哲学からどんな運動が確立されるようになりましたか。
20 その追随者の一人,平田篤胤は宣長の考えを拡張し,神道を清めて,“中国”の影響を一掃しようとしました。篤胤は何をしましたか。何と,神道と背教した“キリスト教”神学とを融合させたのです。篤胤は「古事記」で言及されている天御中主神を“キリスト教”の神になぞらえ,宇宙をつかさどるこの神を男性的素因と女性的素因を表わすと考えられる高御産巣日神(「高くて,産み出す神」の意)と神産巣日神(「神聖で,産み出す神」の意)という二柱の下位の神々を有する神として描写しました。(「日本の宗教」)そうです,篤胤はローマ・カトリック教会の三者一体の神に関する教えを取り入れたのです。もっとも,その教えは決して神道の教えの主流とはなりませんでした。しかし,篤胤がいわゆるキリスト教を神道と混ぜ合わせたため,ついにキリスト教世界の一神教が神道の思想に接ぎ木されました。―イザヤ 40:25,26。
21 平田理論は“尊皇”運動の基盤となり,その結果,封建的軍事独裁者,つまり将軍が倒され,1868年に王政復古が行なわれました。王政が確立されると共に,篤胤の弟子たちは神祇官に任じられ,神道を国教にする運動を推し進めました。そして,当時の新憲法のもとで,太陽の女神である天照大神の直系の子孫とみなされた天皇は,「神聖で侵すべからざる」方であると考えられました。こうして,天皇は国家神道の最高神になりました。―詩編 146:3-5。
-
-
神道 ― 日本における神の探求神を探求する人類の歩み
-
-
日本の宗教的な使命 ― 世界制覇
25 日本の天皇は人々からどのようにみなされましたか。
25 国家神道には偶像も用意されました。正人さんという,あるお年寄りは,当時のことを回想してこう言いました。「毎朝,太陽に向かって拍手を打ち,次に宮城のある東のほうを向いて,天皇を拝みました」。天皇は臣民から神として崇拝されました。天皇は太陽の女神の直系の子孫であるという理由で,政治的,また宗教的に最高の存在とみなされました。日本人の一教授は,「天皇は現人神で,この世に現われた神です」と述べました。
-
-
神道 ― 日本における神の探求神を探求する人類の歩み
-
-
[198ページの図版]
かつて天皇(壇上)は太陽の女神の子孫として崇拝されました
-