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    2006 エホバの証人の年鑑
    • [173-175ページの囲み記事/図版]

      17か月の刑と24回のむち打ちを言い渡されました

      コサム・ムワンザ

      生まれた年: 1886年

      バプテスマ: 1918年

      プロフィール: 迫害や偽兄弟たちを耐え忍んだ。1989年に地上の歩みを終えるまで,開拓者また長老として忠実に奉仕した。

      わたしは軍に入隊し,第一次世界大戦の初めごろ,北ローデシア連隊の衛生兵として働きました。1917年12月の休暇中,聖書研究者と交わっていた南ローデシア出身の二人の男性と出会いました。わたしは6巻から成る「聖書研究」をもらい,それらを3日間むさぼるように読みました。戦場には戻りませんでした。

      エホバの証人の支部事務所と連絡を取ることは困難でした。それで何の指示も受けられないまま,共にいる兄弟たちと奉仕しました。村から村へ行き,人々を集めて説教をし,聴衆からの質問を考慮しました。やがて,国の北部に活動の拠点を置き,そこをガリラヤと呼びました。わたしたちは,聖書の説明を聞きに来るよう関心を持つ人々を招きました。わたしは物事を監督する務めを与えられました。残念なことに,多くの偽兄弟が現われ,混乱を広めました。

      わたしたちは意欲的に伝道しましたが,その地域のカトリックとプロテスタントの宣教師たちの“牧草地”を荒らしてしまったようです。わたしたちは大規模な集会を開き続けました。1919年1月,イソカに近い丘陵地に600人ほどが集まった時のことをよく覚えています。わたしたちの意図を疑った警察官や兵士がやって来て,聖書や文書を破棄しました。わたしたちの多くは逮捕されました。カサマ近くで投獄された人もいれば,ムバラや,はるか南のリビングストンに連れて行かれて収容される人もいました。ある人たちは3年の刑を宣告され,わたしは17か月の拘禁刑と臀部への24回のむち打ちを言い渡されました。

      釈放されると,故郷の村に戻り,伝道を再開しました。その後,再び逮捕され,むち打たれてから投獄されました。反対はなおも続きました。地元の首長は,村から兄弟たちを追放することにしました。そこで別の村へみんなで引っ越し,その村の首長からは歓迎されました。わたしたちはそこに落ち着くことにし,首長の許可を得て自分たちの村を建て,ナザレと名づけました。平和を乱さないという条件でとどまることが許されました。首長は,わたしたちの行状に満足していました。

      1924年の末ごろイソカへ戻ったわたしは,ある好意的な地方行政長官の助けを得て,英語をさらによく理解できるようになりました。そのころ,指導者を自任する者たちが現われ,曲がった事柄を教えて多くの人を惑わしました。しかし,わたしたちは引き続き個人の家で人目につかないように集まり合いました。数年後,ルサカでレウェリン・フィリップスと会うよう招かれ,ザンビアとタンザニアとの国境沿いに点在する諸会衆を訪問する割り当てを受けました。遠くは,タンザニアのムベヤまで行き,兄弟たちを強めました。諸会衆を一巡すると,自分が所属する地元の会衆に戻ったものです。巡回監督が任命される1940年代まで,こうした奉仕を行ないました。

  • ザンビア
    2006 エホバの証人の年鑑
    • 1919年: コサム・ムワンザおよび150人ほどがむち打たれ,投獄される。

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