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    ものみの塔 2003 | 7月1日
    • 「見よ,これがわたしたちの神である」

      これら二つの研究記事で取り上げられている情報は,2002年から2003年にかけて全世界で開かれた地域大会で発表された「エホバに近づきなさい」という本に基づいています。―20ページの,「この本は,心に空いた穴を埋めてくれました」という記事をご覧ください。

      「見よ,これがわたしたちの神である。わたしたちは神を待ち望んだので,神はわたしたちを救ってくださる。これがエホバである」。―イザヤ 25:9。

      1,2 (イ)エホバは族長アブラハムをどのように呼ばれましたか。そのことから,どんな問いが生じるかもしれませんか。(ロ)神との近しい関係に入るのは可能であることを,聖書はどのように保証していますか。

      「わたしの友」。天地の創造者であるエホバが,族長アブラハムをそう呼ばれました。(イザヤ 41:8)考えてもみてください。単なる人間が,宇宙の主権者なる主との友情関係を持てるのです。あなたは,『わたしがそこまで神に近づけるのだろうか』と思われるかもしれません。

      2 神との近しい関係に入るのは可能であると,聖書は保証しています。アブラハムは『エホバに信仰を置いた』ゆえに,そのような近しい関係に恵まれました。(ヤコブ 2:23)今日でも,エホバの「親密さは廉直な者たちと共に」あります。(箴言 3:32)聖書はヤコブ 4章8節で,「神に近づきなさい。そうすれば,神はあなた方に近づいてくださいます」と述べています。ですから,わたしたちの側がエホバに近づこうとして足を踏み出すなら,エホバもそれに応じてくださいます。そうです,ご自分も近づいてくださるのです。とはいえ,霊感によるこの言葉は,罪ある不完全な人間であるわたしたちのほうが最初の一歩を踏み出す,ということを意味しているのでしょうか。決してそうではありません。エホバとの親密な関係を持てるのは,愛ある神が二つの重要な手段を講じてくださったからにほかなりません。―詩編 25:14。

      3 わたしたちが神との友情関係を持つために,エホバはどんな二つの手段を講じられましたか。

      3 第一に,エホバは,イエスが「自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与える」ように取り計らわれました。(マタイ 20:28)その贖いの犠牲により,わたしたちは神と近しい関係に入ることができます。聖書は,「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」と述べています。(ヨハネ第一 4:19)そうです,神は,『まずわたしたちを愛してくださり』,そのゆえにこそ,わたしたちが神との友情関係に入るための基礎を据えてくださったのです。第二に,エホバはご自身をわたしたちに啓示してこられました。どんな友情を築く場合でも,きずなの土台となるのは,相手をよく知り,その人特有の性質を尊敬して高く評価することです。それが何を意味するかを考えてみましょう。もしエホバが秘められた知りがたい神であったなら,その方と近しくなることなど決してできないでしょう。しかしエホバは,ご自身を隠すどころか,わたしたちがご自分のことを知るようにと望んでおられます。(イザヤ 45:19)神はみ言葉 聖書の中で,わたしたちの会得できる用語でご自身を啓示しておられます。それは,神がわたしたちを愛するだけでなく,天の父である神をわたしたちが知って愛するようにと望んでもおられる,ということを裏付けています。

      4 エホバの特質を知れば知るほど,その方についてどのように感じますか。

      4 小さな子どもが友達の前で自分のお父さんを指さし,うれしさと誇らしさの混じった無邪気な口調で,「あれがぼくのパパだよ」と言うのをお聞きになったことがありますか。神の崇拝者にも,エホバについて同様の感情を抱く理由がそろっています。聖書は,忠実な人々が「見よ,これがわたしたちの神である」と叫ぶ時代のことを予告しています。(イザヤ 25:8,9)わたしたちも,エホバの特質についての洞察を深めれば深めるほど,最高の父,最も近しい友を持っているという実感が強まることでしょう。そうです,エホバの特質をしっかり理解するなら,その方にいっそう近づく多くの理由を持つことになります。では,エホバの主要な属性である力,公正,知恵,愛を聖書がどのように明らかにしているか,調べてみましょう。この記事ではまず,そのうちの三つの特質を取り上げます。

      「力において高められている」

      5 エホバだけが「全能者」と呼ばれているのはなぜもっともなことですか。エホバはその畏怖すべき力をどのようにお用いになりますか。

      5 エホバは「力において高められて」います。(ヨブ 37:23)エレミヤ 10章6節には,「エホバよ,あなたのような方は決していません。あなたは大いなる方,あなたのみ名は力強さにおいて大いなるものです」とあります。いかなる被造物とも異なり,エホバは無限の力を持っておられます。その理由で,エホバだけが「全能者」と呼ばれています。(啓示 15:3)エホバはその畏怖すべき力を用いて,創造し,破壊し,保護し,回復されます。では,そのうちの二つの面,創造する力と保護する力を考察してみましょう。

      6,7 太陽はどれほど強力ですか。どんな重要な真理の証拠となっていますか。

      6 晴れた夏の日中に戸外に立つと,肌に何を感じますか。太陽の熱です。その時あなたは,まさにエホバの創造する力の結果を感じているのです。太陽はどれほど強力なのでしょうか。太陽の中心核の温度は摂氏1,500万度ぐらいあります。太陽の中心核から針の頭ほどの小片を取り出して地上に置いたとすると,その小さな熱源から140㌔以内に近づくのは危険なほどです。太陽は,何億個もの核爆弾の爆発に相当するエネルギーを毎秒放射しています。一方,地球は,この巨大な熱核反応炉からちょうどよい距離の軌道上を回っています。近づきすぎると地球上の水は蒸発してしまい,離れすぎるとすべて凍結してしまうでしょう。いずれの場合も,この地球は生命の存在しない場所となってしまいます。

      7 多くの人は,自分の命が太陽に依存しているにもかかわらず,太陽を当然のもののように考えています。そのために,太陽から大切な点を学び損なってもいます。詩編 74編16節はエホバについて,「あなたは光体を,太陽を備えられました」と述べています。そうです,太陽は,『天と地の造り主』であるエホバの栄光となっているのです。(詩編 146:6)それでも太陽は,エホバのきわめて大きな力について教える無数の創造物の一つにすぎません。エホバの創造する力について学べば学ぶほど,畏敬の念はいよいよ深まります。

      8,9 (イ)エホバがご自分の崇拝者たちを進んで保護し,世話されることは,どんな心温まる絵画的表現によって示されていますか。(ロ)聖書時代の羊飼いは,自分の羊をどのように世話しましたか。そのことから,偉大な牧者に関してどんなことが分かりますか。

      8 またエホバは,ご自分の莫大な力を用いて僕たちを保護し,世話されます。聖書は,心に訴える生き生きとした絵画的表現を用いて,保護と世話を与えるというエホバの約束を描写しています。一例として,イザヤ 40章11節に注目しましょう。そこでエホバはご自身を羊飼いに,ご自分の民を羊に例えておられます。こう書かれています。「神は羊飼いのようにご自分の群れを牧される。そのみ腕で子羊を集め,それをその懐に抱いて携えて行かれる。乳を飲ませるものたちを注意深く導かれる」。この聖句が描写している情景を思い描けますか。

      9 飼いならされた羊は,きわめて無力な動物です。聖書時代の羊飼いは自分の羊を,おおかみ,熊,ライオンなどから保護するため,勇敢でなければなりませんでした。(サムエル第一 17:34-36。ヨハネ 10:10-13)しかし,羊を保護し,世話する際に優しさが求められる場合もありました。例えば,羊が囲いから遠く離れた場所で出産した場合,身を守るすべを持たない生まれたばかりの子羊を安全に守るため,羊飼いはどうするでしょうか。「懐に」,つまり上着のゆったりしたひだに子羊を入れて運びます。時には何日もの間そうします。しかし,小さな子羊はどのようにして羊飼いの懐に入るのでしょうか。自分から羊飼いに近づく,あるいはその足にすり寄ることさえするのかもしれません。しかし,いずれにせよ,羊飼いが身をかがめ,手を伸ばして子羊を抱き上げ,安全な懐の中に入れてやらなければなりません。偉大な牧者が進んで僕たちを保護し,世話してくださることを示す,何と心温まる情景なのでしょう。

      10 今日,エホバはどんな保護をお与えになりますか。そのような保護がとりわけ重要なのはなぜですか。

      10 エホバは保護を約束しておられるだけではありません。聖書時代に,『敬虔な専心を保つ人々を試練から救い出せる』ことを奇跡的な方法で実証されました。(ペテロ第二 2:9)今日ではどうでしょうか。わたしたちが知っているとおり,神はご自分の力を用いて現在のすべての災いからわたしたちを保護されるわけではありません。しかし神は,もっと重要なものを備えてくださいます。霊的な保護です。愛ある神は,試練に耐え,神との関係を守るのに必要な備えをさせることにより,わたしたちを霊的な害から保護してくださいます。そのことを,ルカ 11章13節はこう述べています。「あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供に良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天の父は,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださるのです」。聖霊という強い力により,わたしたちはどんな試練や問題に直面しようとも,乗り切ることができます。(コリント第二 4:7)そのようにしてエホバは,わたしたちがわずかな年月だけでなく,とこしえにわたって命を保つことができるようにしてくださるのです。その見込みを思いに留めるなら,この体制におけるいかなる苦しみも,まさに「つかの間で軽いもの」とみなすことができるでしょう。(コリント第二 4:17)わたしたちのためにそのように愛のある仕方でご自分の力を用いてくださる神に,わたしたちも引き付けられるのではないでしょうか。

      「エホバは公正を愛される方」

      11,12 (イ)わたしたちがエホバの公正のゆえにその方に引き付けられるのはなぜですか。(ロ)ダビデはエホバの公正に関してどんな結論に達しましたか。霊感によるその言葉はどんな点で心強いものですか。

      11 エホバは正しくて公平な事柄を行ない,しかも偏りなく常にそうされます。神の公正は,人をはねつけるような冷たくて厳しい特質ではなく,エホバに引き付けるような親しみ深い特質です。聖書は,この属性の心温まる性質を明りょうに描写しています。では,エホバが公正を働かせておられる三つの分野を調べてみましょう。

      12 第一に,エホバは公正に動かされて,僕たちに対する忠実と忠節を示されます。詩編作者ダビデは直接の体験に基づいて,エホバの公正のその面を高く評価するようになりました。自分自身の経験により,また神の道に関する研究により,どんな結論に達したでしょうか。こう断言しています。「エホバは公正を愛される方であり,その忠節な者たちを捨てられない……。彼らは定めのない時に至るまで必ず守られる」。(詩編 37:28)何と心強い保証の言葉でしょう。わたしたちの神は,ご自分に忠節な者を決して見捨てたりはされません。ですからわたしたちは,神との近しさとその愛ある世話を期待できます。神の公正がそれを保証しているのです。―箴言 2:7,8。

      13 恵まれない人に対するエホバの気遣いは,イスラエルに与えられた律法の中でどのように明示されていますか。

      13 第二に,神の公正は,苦しむ人々の必要に敏感です。恵まれない人に対するエホバの気遣いは,イスラエルに与えられた律法の中に明示されています。例えば,孤児ややもめが確実に配慮を受けられるよう,律法は取り決めを設けていました。(申命記 24:17-21)そのような家族の生活がいかに大変かをご存じのエホバは,自ら,その人たちの父のような裁き主また保護者となられました。(申命記 10:17,18)エホバはイスラエル人に対して,身を守るすべのない女性や子どもを食い物にするようなことがあれば,自分はそうした人たちの叫びを聞くと警告し,出エジプト記 22章22-24節に記録されているとおり,『わたしの怒りはまさに燃えるであろう』とも言われました。怒りはエホバの支配的な特質の一つではありませんが,意図的な不公正の行為は神の義憤を引き起こします。被害者が傷つきやすい人である場合はなおさらです。―詩編 103:6。

      14 エホバの公平さを示す,実に驚くべきどんな証拠がありますか。

      14 第三に,聖書が申命記 10章17節で保証しているとおり,エホバは『だれに対しても不公平な扱いをせず,まいないを受け取ることもされません』。権力や影響力を持つ多くの人間とは異なり,エホバは物質的な富や外見に左右されることはありません。偏見やえこひいきとは無縁です。エホバの公平さを示す実に驚くべき証拠となっているのは次の点です。神の真の崇拝者になり,終わりのない命の望みを持つ機会は,選ばれた少数の人々だけに限られているのではありません。むしろ,使徒 10章34,35節が述べるように,『神は不公平な方ではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられる』のです。この見込みは,社会的地位,肌の色,住んでいる国などにかかわりなく,すべての人に開かれています。まさに最高度の公正ではないでしょうか。確かに,エホバの公正に関する理解を深めると,エホバに引き寄せられます。

      『ああ,神の知恵の深さよ』

      15 知恵とは何ですか。エホバはどのようにそれを発揮されますか。

      15 ローマ 11章33節で使徒パウロは,「ああ,神の……知恵と知識の深さよ」と感嘆の声を上げています。そうです,わたしたちも,エホバの膨大な知恵の様々な面を熟考するとき,畏敬の念に満たされずにはいられません。ところで,この特質をどのように定義できるでしょうか。知恵は,知識,識別力,理解を一つに結び合わせ,働かせます。エホバは常に,幅広い知識と深い理解を用いて最善の決定を下し,考え得る最善の方法でそれを実行されます。

      16,17 エホバの創造物は,神の膨大な知恵をどのように裏付けていますか。例を挙げてください。

      16 エホバの膨大な知恵を示す,どんな具体的な証拠があるでしょうか。詩編 104編24節は,「エホバよ,あなたのみ業は何と多いのでしょう。あなたはそのすべてを知恵をもって造られました。地はあなたの産物で満ちています」と述べています。確かに,エホバが造られたものについて知れば知るほど,神の知恵に対する畏敬の念が深まります。例えば科学者も,エホバの創造物を研究して多くのことを学んできました。自然界に見られる設計を模倣しようとする,生体模倣技術<バイオミメティックス>と呼ばれる技術分野さえあります。

      17 一例として,あなたも,クモの巣の美しさに見とれたことがおありでしょう。それはまさに,設計上の驚異です。クモの糸はか細く見えますが,同じ太さの鋼鉄より強く,防弾チョッキの繊維より丈夫なものもあります。分かりやすく言うと,どれほどの強さなのでしょうか。漁船で使う網のサイズにまで拡大したクモの巣を考えてみてください。そのクモの巣は,飛行中の旅客機を停止させることができるほど強いのです。確かに,エホバはこうしたものすべてを「知恵をもって」造られました。

      18 み言葉 聖書を記録するために人間を用いたことに,エホバの知恵がどのように示されていますか。

      18 エホバの知恵に関する最大の証拠は,み言葉 聖書の中に見いだせます。聖書に収められている知恵のある助言は,まさに最善の生き方を教えています。(イザヤ 48:17)また,エホバの比類のない知恵は,聖書が書かれた方法にも示されています。どのようにでしょうか。エホバは知恵を働かせ,人間を用いてみ言葉を記録させることにされました。もしエホバが霊感による言葉を書くためにみ使いをお用いになったなら,その聖書には同じほどの訴える力があるでしょうか。確かにみ使いは,自分たちの高い観点からエホバを描写し,エホバに対する自分たちの専心の思いを言い表わすことができたでしょう。しかし,わたしたちは完全な霊の被造物の見方に果たして共感することができたでしょうか。み使いたちは,知識,経験,強さの点でわたしたちをはるかにしのいでいるのです。―ヘブライ 2:6,7。

      19 人間の筆記者を用いたことにより,聖書がとても温かく,読む人に訴える力のあるものとなったことを,どんな例が示していますか。

      19 人間の筆記者を用いたことにより,聖書はとても温かく,読む人に訴える力のあるものとなっています。聖書の筆者たちは,わたしたちと同じ感情を持つ人々でした。不完全な人間であり,わたしたちと同様の試練や圧力に直面しました。一人称の言い回しを用いて自分の感情や苦闘について書いている箇所もあります。(コリント第二 12:7-10)み使いであったなら決して用いなかったような表現を用いて筆記したのです。一例として,詩編 51編に記録されているダビデの言葉を考えてみましょう。その表題によると,ダビデは重大な罪を犯した後に,この詩を作りました。自分の心を注ぎ出し,深い悲しみを言い表わしつつ神の許しを請い求めています。2,3節にはこうあります。「わたしのとがからわたしを完全に洗い,わたしの罪からわたしを清めてください。わたしの違犯はわたし自身が知っており,わたしの罪は絶えずわたしの前にあるからです」。5節にも注目してください。「ご覧ください,わたしはとがと共に,産みの苦しみをもって産み出され,わたしの母は罪のうちにわたしを宿しました」。そして17節で,「神への犠牲は砕かれた霊なのです。砕かれ,打ちひしがれた心を,神よ,あなたはさげすまれません」と述べています。筆者の苦悩が感じられるのではないでしょうか。不完全な人間だからこそ,このような気持ちを表現することができたのではないでしょうか。

      20,21 (イ)人間の筆者が用いられたにもかかわらず,聖書にはエホバの知恵が収められていると言えるのはなぜですか。(ロ)次の記事では何を取り上げますか。

      20 エホバはそのような不完全な人間を用いることにより,わたしたちがまさに必要としているもの,つまり「神の霊感を受け」ていながら人間的な要素も保った記録を与えてくださいました。(テモテ第二 3:16)そうです,それらの筆者は聖霊に導かれたのです。そのようにして,自分の知恵ではなくエホバの知恵を記録しました。その知恵は全く信頼できます。神の知恵がわたしたちの知恵よりはるかに優れているので,神は愛をもってこう勧めておられます。「心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神を認めよ。そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。(箴言 3:5,6)わたしたちは,その賢明な忠告に留意することにより,全知の神にいっそう近づくことができます。

      21 とはいえ,エホバのすべての特質のうちで最も慕わしく,美しいのは愛です。次の記事では,エホバがどのように愛を示してこられたかを取り上げます。

  • 「神は愛」
    ものみの塔 2003 | 7月1日
    • 「神は愛」

      「愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです」。―ヨハネ第一 4:8。

      1-3 (イ)愛というエホバの属性について,聖書にはどんな陳述がありますか。その陳述はどんな点で特異なものですか。(ロ)聖書が『神は愛である』と述べているのはなぜですか。

      エホバの属性はどれも真正,完璧,魅力的です。とはいえ,エホバのすべての特質の中で最も慕わしいのは愛です。わたしたちをエホバに引き寄せる点で,神の愛以上に強力なものはありません。喜ばしいことに,愛は神の支配的な特質でもあります。どうしてそう言えるでしょうか。

      2 聖書が愛について述べているある事柄は,エホバの他の主要な属性については一度も述べられていません。聖書には,神は力であるとか,神は公正である,あるいは知恵であるなどとは書かれていません。神はそれらの特質を有しておられ,それら三つの特質すべての究極の源です。しかし,愛については,さらに意味深いことがヨハネ第一 4章8節で述べられています。そこには,『神は愛である』と書かれています。そうです,愛はエホバに深く根ざしています。まさしく神の真髄あるいは本質なのです。大まかに言って,愛について次のように考えることができるでしょう。エホバの力は,エホバが行動することを可能にします。公正と知恵は,エホバの行動の仕方を導きます。それに対し,エホバの愛は,エホバが行動する動機となります。そして神の愛は,他の属性の用い方に常に反映されています。

      3 エホバはまさに愛を具現した方である,とよく言われます。ですから,愛について学びたい人は,エホバについて学ばなければなりません。では,エホバの比類ない愛の幾つかの面を調べてみましょう。

      最大の愛の行為

      4,5 (イ)史上最大の愛の行為は何ですか。(ロ)エホバとみ子が,他のすべてに勝る最も強い愛のきずなで結ばれている,と言えるのはなぜですか。

      4 エホバは様々な仕方で愛を示してこられました。しかし,その中でも特に際立ったものが一つあります。それは何でしょうか。み子を遣わして,わたしたちのために苦しみと死を経験させた,ということです。それは史上最大の愛の行為であると言えるでしょう。なぜそう言えますか。

      5 聖書はイエスを「全創造物の初子」と呼んでいます。(コロサイ 1:15)考えてもみてください。エホバのみ子は,物質宇宙が生まれるより前から存在していたのです。では,み父とみ子はどれほど長いあいだ共におられたのでしょうか。宇宙の年齢を130億年と推定する科学者たちがいます。この推定が正確であるとして,その年数をもってしても,エホバの初子の命の長さを表わすには足りません。それほどの年月の間,み子は何を行なっておられたのでしょうか。み子は,み父の用いる「優れた働き手」として喜んで仕えていました。(箴言 8:30。ヨハネ 1:3)み子はエホバと共に働いて,他のすべてのものを生み出したのです。お二方は,何と胸の躍る幸福な時を過ごされたのでしょう。先に述べたような果てしなく長い期間にわたって存在しているきずなの持つ力は,わたしたちには見当もつかないのではないでしょうか。エホバ神とみ子が,他のすべてに勝る最も強い愛のきずなで結ばれていることに,疑問の余地はありません。

      6 イエスがバプテスマを受けた時,エホバはみ子に対する気持ちをどのように表明されましたか。

      6 それにもかかわらず,み父はみ子を地球に遣わし,人間の赤子として生まれるようにされました。そうすることは,エホバにとって,愛するみ子と幾十年かのあいだ天で親しく交われないことを意味しました。イエスが成長して完全な大人になるのを,エホバは天から,強い関心をもってご覧になりました。イエスは,およそ30歳の時にバプテスマを受けました。その時,み父ご自身が,天からこう言われました。「これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した」。(マタイ 3:17)イエスが,預言されていた事柄すべてと求められている事柄すべてを忠実に行なうのを見て,み父は大いに喜ばれたに違いありません。―ヨハネ 5:36; 17:4。

      7,8 (イ)西暦33年ニサン14日,イエスはどんな扱いを受けましたか。天の父はどんな気持ちになられたでしょうか。(ロ)み子が苦しみと死を経験するのをエホバがお許しになったのはなぜですか。

      7 しかし,西暦33年ニサン14日,イエスが裏切られ,次いでいきり立つ暴徒に捕縛された時,エホバはどうお感じになったでしょうか。イエスがあざけられ,つばを吐きかけられ,こぶしで殴られた時は,また,むち打たれ,背中の皮膚がひも状に裂けた時はどうでしょう。手足をくぎづけにされて木の柱に掛けられ,人々からののしられるままにされた時はどうでしょう。愛するみ子が激痛にもだえながらみ父に向かって呼ばわった時,どうお感じになったでしょうか。イエスが息を引き取り,すべての創造の業の開始以来初めて,愛するみ子が存在しなくなった時,エホバはどうお感じになったでしょうか。―マタイ 26:14-16,46,47,56,59,67; 27:26,38-44,46。ヨハネ 19:1。

      8 エホバは感情を持つ方です。そのエホバがみ子の死に関して味わわれたであろう苦痛を言葉で表現することなど,わたしたちにはできません。表現できるのは,み子の死をお許しになったエホバの動機に関してです。み父はなぜ,そのような苦痛をあえて忍ばれたのでしょうか。エホバはヨハネ 3章16節で,素晴らしい事柄を明らかにしておられます。その聖句は非常に重要なので,縮小版福音書とも呼ばれています。そこにはこうあります。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされた」。したがって,エホバの動機はこの愛だったのです。これより大きな愛が示されたことは,いまだかつてありません。

      エホバはご自分の愛をどのように保証しておられるか

      9 サタンはわたしたちに,エホバからどう見られていると思い込ませようとしていますか。しかしエホバは何を保証しておられますか。

      9 しかしここで,神は個々の人間としてのわたしたちを愛しておられるか,という重要な質問が生じます。ある人たちは,ヨハネ 3章16節が述べるとおり,神が人類一般を愛しておられることは認めます。それでも,『神は一個人としてのわたしを愛したりはされない』というような考えを抱いています。実のところ,悪魔サタンは人間に,エホバは決してわたしを愛したり高く評価したりはされない,と思い込ませようと躍起になっています。とはいえ,わたしたちが自分のことをいかに価値がなく,愛される資格がないと考えているとしても,エホバは,忠実な僕一人一人を貴重なものとみなすと保証しておられます。

      10,11 すずめに関するイエスの例えは,わたしたちがエホバの目に高く評価されていることをどのように示していますか。

      10 例えば,マタイ 10章29-31節のイエスの言葉を考えてみてください。弟子たちの価値を例えで示し,イエスはこう言われました。「すずめ二羽はわずかな価の硬貨ひとつで売っているではありませんか。それでも,あなた方の父の知ることなくしては,その一羽も地面に落ちません。ところが,あなた方の頭の毛までがすべて数えられているのです。それゆえ,恐れることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです」。イエスの話を聴いていた1世紀の人々にとって,この言葉にはどんな意味があったのでしょうか。考えてみましょう。

      11 イエスの時代,すずめは食用に売られる鳥の中で最も安いものでした。わずかな価の硬貨一つで2羽のすずめを買えました。ルカ 12章6,7節によると,後にイエスは,硬貨を2枚支払うなら,4羽ではなく5羽のすずめを買える,とも述べています。余分の1羽は,まるで全く値打ちがないかのように添えられました。このような鳥は,人間の目には価値のないものとみなされることもあったのでしょう。しかし,創造者はすずめをどのようにみなしておられたでしょうか。「その一羽といえども[おまけの鳥でさえ]神のみ前で忘れられることはありません」,とイエスは言いました。これでイエスの言いたいことが分かってくるでしょう。エホバは1羽のすずめをもそのように高く評価しておられるのですから,人間にははるかに価値があるはずなのです。イエスが述べたとおり,エホバはわたしたちを細部に至るまですべてご存じです。何と,頭の毛まで数えられているのです。

      12 わたしたちの頭の毛が数えられているというイエスの言葉は現実的である,と確信できるのはなぜですか。

      12 イエスは誇張した言い方をしている,と考える人がいるかもしれません。しかし,復活について考えてみてください。人を再創造するために,エホバはその人のことを極めて精細に知っておられるに違いありません。わたしたちを非常に高く評価しておられるので,わたしたちの複雑な遺伝情報や一生の間の記憶と経験など,あらゆる事柄を細部に至るまで覚えておられます。それに比べれば,一人平均10万本ほどの髪の毛を数えるのはごくたやすいことでしょう。イエスの言葉は,一個人としてのわたしたちをエホバが顧みてくださっていることの,何と見事な保証なのでしょう。

      13 エホシャファト王に関する事柄は,わたしたちが不完全であるにもかかわらずエホバが良い点を探してくださることを,どのように示していますか。

      13 聖書は,エホバの愛を保証する別の事も明らかにしています。エホバはわたしたちの良い点を探して,それを高く評価されるのです。善良な王エホシャファトの例を考えてみましょう。この王が愚かな行ないをした時,エホバの預言者はこう告げました。「このために,あなたに対してエホバのみ前からの憤りがあります」。まさに穏やかならぬ状況です。しかし,エホバからのメッセージはそれで終わりではありませんでした。こう続いています。「それでも,あなたのもとに見いだされる幾つかの善い事があります」。(歴代第二 19:1-3)ですからエホバは,義にかなった怒りのためにエホシャファトに関する「善い事」が見えなくなったりはしませんでした。わたしたちが不完全であるにもかかわらず神は良い点を探してくださる,ということを知ると,心が安らぐのではないでしょうか。

      「進んで許してくださる」神

      14 罪をおかした時には,どんな気持ちに押しつぶされそうになることがありますか。しかし,どうすればエホバの許しの恩恵にあずかれますか。

      14 罪をおかした時には,落胆,恥ずかしさ,罪の意識などを感じるあまり,もう自分にはエホバに仕える価値がないと考えてしまうことがあります。しかし,エホバが「進んで許してくださる」ことを忘れないでください。(詩編 86:5)そうです,罪を悔い改め,それを繰り返さないよう懸命に努力するなら,エホバの許しの恩恵にあずかれるのです。では,エホバの愛のこの驚くべき面を聖書がどのように描写しているか,考えてみましょう。

      15 エホバは,わたしたちからどれほど遠くに罪を追いやってくださいますか。

      15 詩編作者ダビデは,エホバの許しを描写するために生き生きとした表現を用い,こう述べています。「東が西から遠くにあるのと同じく,神はわたしたちの違犯をわたしたちから遠くに移してくださった」。(斜体は本誌; 詩編 103:12,アンプリファイド・バイブル[英語])東と西はどれほど遠く離れているでしょうか。ある意味で,東は常に,西から見て最も遠いところにあります。その二点が重なることは決してありません。ある学者によれば,この表現は「可能な限り遠く,我々が考え得る一番遠く」を意味しています。霊感によるダビデの言葉が示すとおり,エホバは許しを与えるとき,わたしたちの考え得る一番遠くに罪を追いやってくださいます。

      16 エホバが罪を許してくださるとき,その後わたしたちを清いものとみなしてくださる,と確信できるのはなぜですか。

      16 あなたは,薄い色の服から染みを抜こうとしたことがありますか。いくらやっても染みが完全には消えなかったのではないでしょうか。では,エホバがご自分の許す能力をどのように描写しておられるかに注目してください。こうあります。「たとえあなた方の罪が緋のようであっても,それはまさに雪のように白くされ,たとえ紅の布のように赤くても,まさに羊毛のようになる」。(イザヤ 1:18)「緋」という語は,明るい赤を表わします。a 「紅」は,染色された素材の濃い色の一つでした。わたしたちは,自らの努力によって罪の染みを抜くことは決してできません。しかしエホバは,緋や紅のような罪を取り上げて,それを雪のように,あるいは染めていない羊毛のように白くすることができます。ですから,エホバが罪を許してくださるとき,わたしたちは,そのような罪の染みを一生背負わなければならないと感じる必要はないのです。

      17 どのような意味で,エホバはわたしたちの罪をご自分の背後に投げ捨てられますか。

      17 ヒゼキヤは,致命的な病気から救われた後に作った心を打つ感謝の歌の中で,エホバに向かって,「あなたは私のすべての罪をご自分の背後に投げ捨てられた」と述べています。(イザヤ 38:17)ここでエホバは,悔い改めた悪行者の罪を取り上げて自分の後ろに投げ捨て,もはやそれを見ることも,それに注意を向けることもしない方,として描かれています。ある参考文献によると,ここで表現されている考えは,「あなたは[わたしの罪を]まるで生じなかったかのようにされた」と言い換えることができます。そのことを考えると,慰められるのではないでしょうか。

      18 預言者ミカは,エホバは許すときに罪を永久に取り除いてくださる,ということをどのように示していますか。

      18 回復に関する約束の中で預言者ミカは,悔い改めた民をエホバが許してくださるという確信を表明し,こう述べています。「だれかあなたのような神がいるでしょうか。ご自分の相続財産である民の残りの者の……違犯を見過ごしておられるのです。……またあなたは彼らのすべての罪を海の深みに投げ込まれます」。(ミカ 7:18,19)この言葉から聖書時代の人々が何を思い浮かべたかを想像してみてください。当時,「海の深みに」投じられた物を回収することができたでしょうか。ですからミカの言葉は,エホバは許すときに罪を永久に取り除いてくださる,ということを示しているのです。

      「わたしたちの神の優しい同情」

      19,20 (イ)「憐れむ」あるいは「哀れみを示す」と訳されているヘブライ語動詞には,どんな意味がありますか。(ロ)聖書は,母親が赤ちゃんに対して抱く感情をどのように用いて,エホバの同情について教えていますか。

      19 同情は,エホバの愛の別の一面です。同情とは何でしょうか。聖書の中で,同情と憐れみには密接な関係があります。同情を意味するヘブライ語とギリシャ語の単語は幾つもあります。一例として,ラーハムというヘブライ語動詞はしばしば,「憐れむ」あるいは「哀れみを示す」と訳されています。エホバがご自分に関しても用いておられるこのヘブライ語は,「胎」に相当する語と関連があり,「母親のような同情」と表現することもできます。

      20 聖書は,母親が自分の赤ちゃんに対して抱く感情を用いて,エホバの同情について教えています。イザヤ 49章15節にはこうあります。「女が自分の乳飲み子を忘れて,自分の胎の子に同情し[ラーハム]ないことがあろうか。そうだ,女たちは忘れるかもしれない。しかし,わたしはあなたを忘れない」。(アンプリファイド・バイブル)母親が自分の乳飲み子の養育や世話を忘れるというのは,考えにくいことです。そもそも,幼児は無力であり,赤子は昼も夜も母親の注意を必要としているのです。ところが悲しいことに,母親の怠慢の例は皆無ではありません。とりわけ,この「危機の時代」においてはそうです。(テモテ第二 3:1,3)「しかし,わたしはあなたを忘れない」とエホバは断言しておられます。エホバがご自分の僕たちに対して抱く優しい同情は,わたしたちの想像できる最も優しい自然な感情,つまりたいていの母親が幼い我が子に対して感じる同情とも比べようがないほど強いものです。

      21,22 古代エジプトでイスラエル人はどんな経験をしましたか。エホバは,イスラエル人の叫びにどのように反応されましたか。

      21 愛ある親のようなエホバは,どのように同情を示しておられるでしょうか。この特質は,昔のイスラエルに対する神の態度にはっきり表われています。西暦前16世紀の終わりごろ,何百万かのイスラエル人はエジプトで奴隷状態にあり,ひどく圧迫されていました。(出エジプト記 1:11,14)苦しむイスラエル人は,エホバに向かって叫びました。同情の神はどのように反応されたでしょうか。

      22 エホバは心を動かされ,こう言われました。『わたしは,エジプトにいるわたしの民の苦悩を見た。その叫びを聞いた。わたしは彼らの忍ぶ苦痛をよく知っている』。(出エジプト記 3:7)エホバは,ご自分の民の苦しみを見,その叫びを聞いて,それを自分のことのように感じずにはいられなかったのです。エホバは感情移入をする神です。そして,感情移入,つまり他の人の苦痛を共に感じる能力は,同情と近い関係にあります。とはいえエホバは,民のことを自分のことのようにお感じになっただけではありません。民のために行動したいと思われたのです。イザヤ 63章9節には,『神はその愛と同情をもって自ら彼らを買い戻してくださった』とあります。エホバは「強い手」をもって,イスラエル人をエジプトから救い出されました。(申命記 4:34)そして,奇跡によって食物を備え,民を実り豊かな土地へ,自分たちのものである土地へと携え入れられました。

      23 (イ)詩編作者の言葉は,エホバが個人としてのわたしたちを深く気遣っておられることを,どのように保証していますか。(ロ)エホバは,わたしたちをどのように助けてくださいますか。

      23 エホバは,集団としてのご自分の民に同情を示されるだけではありません。愛ある神は,個人としてのわたしたちをも深く気遣っておられます。わたしたちがどんな苦しみに遭おうとも,エホバはそれに鋭い関心を払ってくださるのです。詩編作者はこう言いました。「エホバの目は義なる者たちに向けられ,その耳は助けを求める彼らの叫びに向けられる。エホバは心の打ち砕かれた者たちの近くにおられ,霊の打ちひしがれた者たちを救ってくださる」。(詩編 34:15,18)エホバは,個人としてのわたしたちをどのように助けてくださるのでしょうか。いつでも苦しみの原因を取り除いてくださるわけではありません。しかし,助けを叫び求める人々のために豊かな備えを設けておられます。み言葉は実際的な助言を与えており,その助言は益になります。エホバは会衆内に,霊的に資格ある監督たちを備えておられ,それら監督たちは,他の人たちを援助する面でエホバの同情を反映するように努めています。(ヤコブ 5:14,15)「祈りを聞かれる方」であるエホバは,「ご自分に求めている者に聖霊を」与えてくださいます。(詩編 65:2。ルカ 11:13)そうした備えすべては,「わたしたちの神の優しい同情」の表明なのです。―ルカ 1:78。

      24 あなたはエホバの愛にどのようにこたえますか。

      24 天の父の愛について熟考すると胸が躍るのではないでしょうか。前の記事で取り上げたとおり,エホバはご自分の力,公正,知恵を,わたしたちの益のために愛ある仕方で働かせてこられました。また,この記事で考えたように,エホバは人類に対する愛 ― そして,わたしたち各人に対する愛 ― を,驚嘆すべき仕方で率直に表明してこられました。それで今,わたしたち一人一人は,『自分はエホバの愛にどのようにこたえようか』と自問すべきです。心と思いと魂と力をこめてエホバを愛することによってこたえてください。(マルコ 12:29,30)エホバにいっそう近づきたいという心からの願いを毎日の生き方に反映させてください。とこしえにわたって,愛である神エホバもあなたにいっそう近づいてくださいますように。―ヤコブ 4:8。

      [脚注]

      a 緋は「あせない,あるいは落ちない色であった。露や雨にさらされても,洗濯しても,長く使っても,色が抜けることはなかった」と,ある学者は述べています。

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