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  • 結婚
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 一夫多妻婚は離婚の場合と同様,神の最初の取り決めではありませんでしたが,クリスチャン会衆の時代まで許容されていました。一夫多妻婚はアダムが逸脱行為に走った後,ほどなくして始まりました。聖書で最初に言及されている一夫多妻婚は,カインの子孫であるレメクに関するもので,彼は「自分のために二人の妻をめとった」と記されています。(創 4:19)聖書は一部のみ使いに関して,大洪水以前に「まことの神の子らは……自分たちのために妻[英語,複数]を,すべて自分の選ぶところの者をめとっていった」と述べています。―創 6:2。

  • ネフィリム
    聖書に対する洞察,第2巻
    • したがって,創世記 6章2節に出て来る神の子らとはみ使い,つまり霊なる「神の子ら」であったに違いありません。この表現は,ヨブ 1章6節および38章7節でみ使いを指して用いられています。この見方を裏付けているのはペテロで,彼は『獄にある霊たち,それは,かつてノアの日に神が辛抱して待っておられた時に不従順であった者たちである』と述べています。(ペテ一 3:19,20)さらにユダは,「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居所を捨てたみ使いたち」について書いています。(ユダ 6)み使いは人間の物質の体を着けて現われることができ,あるみ使いたちは神からの音信を伝えるためにそうしました。(創 18:1,2,8,20-22; 19:1-11; ヨシュ 5:13-15)しかし,霊者たちの本来の住みかは天であり,そこにいるみ使いたちはエホバのもとで様々な奉仕の立場を有しています。(ダニ 7:9,10)この住みかを離れて地上に住み,肉的な関係を持つためにその割り当てられた奉仕を捨て去ることは神の法に対する反逆であり倒錯行為となりました。

      聖書は,その不従順なみ使いたちが今や「獄にある霊たち」となり,『タルタロスに投げ込まれて』,『大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密な闇のもとに留め置かれて』いると述べています。これは,彼らが大幅な制限を受け,大洪水以前のように物質の体をもはや着けられないことを示唆しているようです。―ペテ一 3:19; ペテ二 2:4; ユダ 6。

      邪悪さを増し加える 前述の結婚によって生み出された「昔の力ある者たち,名ある人々」は,神のみ前に名声を得ていた人々ではありません。ノアとその家族のように大洪水を生き残ったわけではないからです。彼らは「ネフィリム」,暴漢,虐待者であり,状況の悪化に拍車をかけたに違いありません。その父となったみ使いたちは人体の造りを知り,物質の体を着けて現われることができましたが,生命を創造したのではなく,それらの人体の中で生きて,女たちと同棲し,子供を生み出したのです。したがって,その子供たち,すなわち,「力ある者たち」は不当な混血児でした。このネフィリムは子供がなかったようです。

  • 神の子(たち)
    聖書に対する洞察,第1巻
    • 「まことの神の子ら」 「まことの神の子ら」のことが初めて出て来るのは創世記 6章2-4節です。その中で,それら神の子らは,「人の娘たちを見,その器量の良いことに気づくようになった。そして彼らは自分たちのために妻を,すべて自分の選ぶところの者をめとっていった」と言われています。それは世界的な規模の大洪水の前の出来事でした。

      これらの「神の子ら」自身は人間であって,実際にはセツの家系の男たちであったと考える注解者は少なくありません。それらの注解者はその主張の根拠として,セツの家系は敬虔なノアの出た家系であるのに対し,アダムの他の家系,つまりカインの家系も,アダムに生まれたほかのどの息子の家系も(創 5:3,4),大洪水の際に滅ぼされたという点を指摘しています。それで,「まことの神の子ら」が「人の娘たち」を妻としてめとったことは,セツ人が邪悪なカインの家系に姻戚を持つようになったことを意味している,と彼らは言います。

      しかし,この時点で神がそれらの家系の間に何らかの区別を設けたことを示すものは何もありません。セツの家系とカインの家系との間で異民族間の結婚が行なわれたというのがここの趣旨であるとか,そのような結婚が行なわれたために,4節で言及されている「力ある者たち」が生まれたのだという見方を支持する聖書の補強証拠はありません。確かに,「人[もしくは,「人間」]の子ら」という表現(前述の見方を好む人たちがよく『神の子たち』という表現と対照させる表現)は,しばしば好ましくない意味で使われてはいますが,一貫してそのように使われているわけではありません。―詩 4:2; 57:4; 箴 8:22,30,31; エレ 32:18,19; ダニ 10:16と比較。

      み使いである神の子たち 一方,聖書中の補強証拠で示すことができる説明があります。「まことの神の子ら」という表現が次に出て来るのはヨブ 1章6節で,この句は明らかに,神のみ前に集まった,神の霊の子たちに言及しており,『地を行き巡って』いたサタンもその集いに姿を見せました。(ヨブ 1:7。ヨブ 2:1,2も参照。)また,ヨブ 38章4-7節の,神が地の「隅石を据えた」時に『称賛の叫びを上げた』「神の子たち」は,明らかにみ使いである子たちであって,アダムの子孫の人間でなかったことは明らかです。(アダムはまだ創造されてさえいませんでした。)それに,詩編 89編6節の「神の子たち」も,確かに天的な被造物であって,地に住む者ではありません。―「神」(ヘブライ語の用語)を参照。

      前述の見方をする人たちは,創世記 6章2-4節の「まことの神の子ら」の実体がみ使いである被造物だとする見解に異議を唱えており,その理由は文脈が専ら人間の邪悪さに関係しているからだとしています。しかし,この反論は妥当ではありません。というのは,人間の邪悪さの増大は霊の被造物が人間社会の営みに不当に介入することによって助長,もしくは加速される場合が確かにあるからです。イエスが地上におられたころ,邪悪な霊の被造物は肉体を備えて目に見える姿でこそ現われなかったものの,その影響で人間としての極端な狂った行動をする者が出ました。(「悪霊」; 「悪霊に取りつかれること」を参照。)み使いである,神の子たちが,人間社会の営みに掛かり合ったことに言及する記述が創世記にあるのは,もっともなことと言えるでしょう。なぜなら,その記述はまさしく大洪水前に地上で進展した事態のゆゆしさをかなりの程度説明するものだからです。

      この点を裏付けているのは,「獄にある霊たち……ノアの日に神が辛抱して待っておられた時に不従順であった者たち」(ペテ一 3:19,20)や,ノアの時代の「古代の世」に関連して,「罪をおかしたみ使いたち」(ペテ二 2:4,5)に言及した使徒ペテロの言葉と共に,「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居所を捨てたみ使いたち」について述べたユダの言葉です。(ユダ 6)もし,創世記 6章2-4節の「まことの神の子ら」が霊の被造物ではないとしたなら,これらクリスチャンの筆者の述べたことは,なぞのような事柄となり,み使いたちがそのように不従順になったいきさつや,ノアの時代とのその実際の関係を何ら説明するものとはならなかったでしょう。

      確かに,み使いたちは時々人間の肉体を備えて現われ,人々と一緒に飲んだり食べたりさえしました。(創 18:1-22; 19:1-3)復活させられる男女はめとったり嫁いだりせず,「天にいるみ使いたち」のようになることについて述べたイエスの言葉は,そのような天的な被造物の間には結婚関係が存在しないことを示しており,男女の性別がないことを示唆しています。(マタ 22:30)とはいえ,み使いであるそれら被造物が肉体を備えた人間の姿で現われて,人間の女と結婚関係を持つことができなかったわけではありません。注目すべきことに,ユダが,自分たちの本来の立場を保たなかったみ使いたち,「あるべき居所」を捨てたみ使いたちに言及した(確かにここで,霊の領域を見捨てたことに言及した)すぐ後で,こう述べています。「同様に,ソドムとゴモラおよびその周りの都市も,ここに述べた者たちと同じように甚だしい淫行を犯し,不自然な用のために飽くことなく肉を追い求めたのち……警告の例としてわたしたちの前に置かれています」。(ユダ 6,7)したがって,聖書中の証拠を総合すると,み使いたちの逸脱行為があったこと,つまりノアの時代にみ使いたちが霊者としての性質にもとる行動を取ったことが分かります。ですから,創世記 6章2-4節の「神の子ら」がみ使いである子たちだったことを疑うべき正当な理由は一つもないようです。―「ネフィリム」を参照。

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