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  • 妊娠中絶 ― そして「命の源」
  • 目ざめよ! 1987
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目ざめよ! 1987
目87 4/8 14–15ページ

妊娠中絶 ― そして「命の源」

科学技術の進んだ今日では,医師たちは胎児の性別を容易に見分けることができます。しかし,だれが胎児の気質を見分けることができるでしょうか。生きた人間の魂としての胎児が秘めている可能性を見ることができるのはだれでしょうか。(創世記 2:7)それができるのはエホバ神だけです。エホバは「命の源」だからです。(詩編 36:9)次に挙げる聖書的な例を考えてみてください。

族長時代の相続に関する慣例は,長子の首位と関連がありました。ところが,イサクの妻リベカが双子を身ごもった時,神はリベカに,「年上の者が年下の者に仕えるであろう」とお告げになりました。イサクとリベカの息子たち,ヤコブとエサウの人生は,二人が誕生する時点よりもかなり前からエホバがそれぞれの人格をはっきり知っておられたことを証明するものとなりました。―創世記 25:22,23。

それから何世紀も後に,ひとりのみ使いは祭司ゼカリヤに,ゼカリヤの妻エリサベツが男の子を産むので,その子の名をヨハネと呼ぶようにと告げました。この息子は後にバプテスマを施す人ヨハネという呼び名で知られるようになり,メシアなるイエスのために道を備えるのはこの息子の特権となりました。ヨハネは思いが謙遜であり,その資質は使命を果たすのに是非とも必要でしたが,神はそのことをよく知っておられたのです。―ルカ 1:8-17。

人間の胎児 ― どれほど大事なものか

ダビデ王は自ら認めてこう述べました。「あなたはわたしをわたしの母の腹の中に,仕切られた状態にして保たれました。……あなたの目は胎児のときのわたしをもご覧になりました。あなたの書にそのすべての部分が書き記されていました」。これはだれについても言えることです。―詩編 139:13-16。

人間の妊娠はすべて,「命の源」エホバ神にとって大事なことです。それがいかに大事なことであるかは,モーセの律法が出エジプト記 21章22節から25節で明らかにしてこう述べています。「人と人とがつかみ合いをして,妊娠している女を傷つけ,……もしも致命的な事故に至ったならば,魂には魂……を与えなければならない」。

聖書翻訳によっては,この律法で問題にされているのは母親の身に生じた事柄であって胎児にかかわる事柄ではないように思わせる訳もあります。しかし,元のヘブライ語本文で言われている致命的事故のことは,母子いずれにも当てはまります。

初期クリスチャンの考え方

1世紀のイエス・キリストの使徒たちが死んでから,多くの人が使徒たちの教えを解説しました。それらの筆者たちは聖書筆者たちとは違って,霊感を受けてはいませんでしたが,その述べるところは,目下論争となっている問題に関する当時の宗教上の考え方を反映していて興味深いものがあります。次に紹介するのはそれらの解説の抜粋です。

バルナバの手紙,19章5節(西暦100-132年ごろ)

「流産を生じさせて子供を殺害することがあってはならない。また,誕生後もこれを殺すことをしてはならない」。

ディダケー,すなわち,十二使徒の教訓(西暦150年ごろ)

「これが生きる道である。……あなたは胎内の子供を殺してはならず,新生児を殺害してもならない」。

テルツリアヌス: 弁明,9章8節(西暦197年ごろ)

「我々に関しては,殺人はきっぱりと禁じられている。我々は胎児をさえ,それが形作られて一人の人間となるために血が通っている限り,殺すことは許されていない。子供の誕生を阻止することは,事前の殺人である。既に誕生した命を殺すことであろうと,生まれて来ようとするのを妨げることであろうと,少しも違いはない。人となる者は既に人なのである」。

バシリウス: アムピロキウスへの手紙(西暦347年)

「故意に胎児を殺した女は,殺人の刑罰を受けなければならない。わたしたちとしては,胎児が形成されたかされなかったかに関する細かい区別立ては容認できない」。

クリスチャンの見方

自然流産は,人間の不完全さや事故の結果としていつでも起きます。しかし,単に望まない子供の誕生を阻むために故意に流産を引き起こすことはまた別の問題です。既に見たように,聖書によると,それは人間の命を故意に奪うことです。

「地とその産物を張り広げる方,地上の民に息を,地を歩む者たちに霊を与える方」はだれでしょうか。それは人間ではなく,すべての命の源なる方,エホバ神です。(イザヤ 42:5)わたしたちは命を子孫に伝えるという能力を神から与えられていますが,これは貴重な特権であり,あらゆる事柄について言えるように,このことに対しても「わたしたちは各々,神に対して自分の言い開きをすることになるのです」。―ローマ 14:12。

[14ページの囲み記事]

うれしい懐妊

1973年に,「目ざめよ!」の姉妹誌である「ものみの塔」は,中絶についての聖書の見方を論じた短い記事を載せました。二人の若い学生がその記事を読みました。女子学生は妊娠していましたが,その女子学生も父親になるはずの男性も中絶に同意していました。しかし,その記事を読んで考えさせられました。結果として,二人は子供を持つことを決心しました。

最近,その男性はエホバの証人と再び会った折にこう語りました。「みなさんの聖書文書は最高です。心を動かすあの記事のおかげで,私たち夫婦は,現在13歳になる愛すべき娘がいることを誇りにしています」。

二人にとって聖書の教えに従ったことは確かに報いのあることでした。

[15ページの図版のクレジット]

H. Armstrong Roberts

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