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  • こじき,物ごい
    聖書に対する洞察,第1巻
    • モーセの律法には貧しい人々のための強力な法令が含まれており,それが守られるなら,物ごいをすべき理由はすべて除き去られました。(レビ 19:9,10; 申 15:7-10; 24:19-21。「憐れみの施し」を参照。)ヘブライ語聖書は,義を固く守る人たちに関する神の摂理への信頼を熱烈に表現しています。老齢にあったダビデが,『わたしは義なる者が完全に捨てられるのを見たことも,その子孫がパンを捜し求める[「乞い求める」,欽定; ヘ語,ビッケーシュの変化形]のを見たこともない』と主張したとおりです。しかも,そのような義なる者たち自身は寛大さにおいて惜しみない者であることが示されています。(詩 37:25,26。哀 1:11; 4:4にある背教したエルサレムの経験と対比。)他方,箴言 20章4節は「刈り取りの時に物ごいをする」怠惰な男の様子を描いており,また詩編 109編10節は邪悪な者に執行される処罰について描写し,『その子らは必ずさまようことになり,彼らは物ごいをし,その荒廃させられた場所から食物を捜し求めなければならない』とあります。これら後者の二つの聖句にある「物ごい」という語はヘブライ語のシャーアルを訳したもので,その語には「求める」あるいは「願い求める」という基本的な意味があります。(出 3:22; 王一 3:11)しかし,これら二つの事例においては,求めることが物ごいの特徴である積極的な方法で,しかも恐らくは公に行なわれたという含みがあります。

  • 落ち穂拾い,採り残しを集める
    聖書に対する洞察,第1巻
    • その土地の貧しい人たちのためのこの優れた取り決めが,寛大さや利他的な精神,またエホバの祝福に頼ることを促しはしても,決して怠惰な精神を助長するものでなかったことは明らかです。それはダビデの述べた,『わたしは義なる者が完全に捨てられるのを見たことも,その子孫がパンを捜し求めるのを見たこともない』という言葉を理解するのに役立ちます。(詩 37:25)貧しい人たちでさえ,律法によって自分たちのために設けられているその備えを活用し,勤勉に働くならば,飢えることはなく,自分も子供も,パンを請い求めたりする必要はなかったのです。

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