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アラム聖書に対する洞察,第1巻
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アラム・ナハライム(詩 60:表題)は一般に,「川の間の地」を指していると解されるギリシャ語の「メソポタミア」という語を使って訳されています。その二つの川とはユーフラテス川とチグリス川のことでした。ステファノは,まだカルデア人のウルにいた時のアブラハムについて,彼がメソポタミアに住んでいたと述べています。(使徒 7:2)それよりも何年も後,アブラハムがイサクのために妻を探させるため僕を遣わした時,(上)メソポタミア(アラム・ナハライム)のナホルの都市に行くよう,その僕に命じました。(創 24:2-4,10)また,ペトルのバラムもメソポタミア北部の山地の出身でした。―申 23:4。民 23:7と比較。「メソポタミア」を参照。
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エドム聖書に対する洞察,第1巻
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王となったダビデは“塩の谷”でエドム人に対して大勝利を収めました。(サム二 8:13。「塩の谷」を参照。)戦いの発端となった行動については述べられていませんが,疑いなくエドム人の侵略が原因だったのでしょう。恐らくエドム人は,ダビデはシリアへ戦いに出掛けているので,王国の南部は侵入に対して手薄であると考えたのかもしれません。歴代第一 18章12節と詩編 60編の表題は,エドム人の征服を遂げたのがそれぞれアビシャイとヨアブであったと説明しています。ダビデは最高司令官,ヨアブは主立った将軍であり,一方アビシャイはヨアブ配下の1部隊の指揮官でしたから,現代においてもそうであるように,観点の違いにより,勝利の功績をだれに帰するかについて記述に違いの生じ得ることを理解できます。同様に,これらの聖句の中で異なった数字が挙げられているのは,その戦いの特定の局面もしくは軍事行動に対する語り手特有の見方によるものと思われます。(王一 11:15,16と比較。)ともかく,ダビデはエドム全土にイスラエル人の守備隊を置き,残っていたエドム人はイスラエルに服するようになりました。(サム二 8:14; 代一 18:13)ヤコブの「くびき」は今やエドム(エサウ)の首にずっしりと置かれることになりました。―創 27:40。民 24:18と比較。
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