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終わりの日聖書に対する洞察,第1巻
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「事物の体制の終結」 しかし,イエス・キリストが予告しておられたように,背教はクリスチャンの集団全体を巻き込んだわけではありませんでした。忠節な真のクリスチャンは「雑草」と交じり合った「小麦」のようになることになっていました。キリストの臨在が見えない様で霊において始まった後に,またその時存在している「事物の体制の終結」の期間中に,明確な分離と区分が明らかにされることになっていました。「雑草」,すなわち「邪悪な者の子たち」は『人の子の王国から集め出される』ことになっていました。真のクリスチャン会衆はこうしてきれいにされて,清い小麦の畑になり,見せかけだけの偽のクリスチャンは,真のクリスチャン会衆から除外されるのです。雑草のような者たちは最終的に「火の燃える炉」に投げ込まれますが,小麦のような者たちは「その父の王国で太陽のように明るく輝く」ことになります。(マタ 13:24-30,37-43)このことはサタンの邪悪な支配下にある事物の体制の,滅びに先立つ終結の部分を明確に指し示すものでした。
さらに,この例えは,サタンの配下にある「事物の体制の終結」の期間中に,背教が邪悪さというその実を十分に実らせることを示唆していました。したがって,クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちが「終わりの日」を印づけるものとして描写した状態が,その時,自称クリスチャンの間で大規模に現われるのももっともなことです。不法や親に対する不従順が増大することになります。人々は「神を愛するより快楽を愛する者,敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者」となるでしょう。(テモ二 3:2-5)また,「あざける者たちがあざけりを抱いて……自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日から,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言うでしょう」。―ペテ二 3:3,4。
イエスが話された預言的な例えは,雑草のような者たちが完全に明らかにされて最終的に滅ぼされるまでに,時が経過しなければならないことをも示していました。使徒たちはそのことを知っていましたから,彼らが背教に関連して「終わりの日」や同様の表現を用いたとは言っても,イエスの臨在とそれに続く不敬虔な者たちの滅びがすぐに始まることを予期していたというわけではありません。パウロがテサロニケ人に次のように指摘したとおりです。「しかし,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの臨在,またわたしたちがそのもとに集められることに関して,あなた方にお願いします。エホバの日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信によって,またわたしたちから出たかのような手紙によって,すぐに動揺して理性を失ったり,興奮したりすることのないようにしてください。だれにも,またどんな方法によってもたぶらかされないようにしなさい。なぜなら,まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わし示されてからでなければ,それは来ないからです」― テサ二 2:1-3。
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倉,倉庫聖書に対する洞察,第1巻
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比喩的な用法 バプテスマを施す人ヨハネは,真に悔い改める人々を,集められた小麦に見立てる一方,パリサイ人やサドカイ人をもみがらになぞらえて,それら指導者たちの危険な状況について警告しました。ヨハネは彼らにこう語りました。「わたしの後に来る方は……自分の小麦を倉の中に集め,もみがらのほうは,消すことのできない火で焼き払うのです」。(マタ 3:7-12; ルカ 3:16,17)イエスは「収穫」を予告し,それが「事物の体制の終結」に相当すると言われました。その時,「刈り取る者」であるみ使いたちは象徴的な「雑草」を焼いてしまうために集めますが,「小麦」のほうは神の「倉」,すなわち回復されるクリスチャン会衆に集め入れられ,そこで彼らは神の恵みと保護を受けます。―マタ 13:24-30,36-43。
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雑草聖書に対する洞察,第1巻
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マタイ 13章24-30,36-43節にあるイエスの例えの中の雑草(ギ語,ジザニア)はドクムギ(Lolium temulentum)であると一般に考えられています。この植物は完全に生長するまでは小麦に大変よく似ており,完全に生長した時になって初めて,種子が小さめで黒いことから容易に小麦と区別することができます。この理由で,またこれらの雑草の根は小麦に絡み付くため,初期の段階で雑草を引き抜くことは賢明とはとても言えません。収穫後に毒麦の種子が小麦の穀粒と混ざってしまうと,それを食べる人に重大な影響を及ぼしかねません。毒麦の粉を多く含むパンを食べたために,めまいや致命的な中毒さえ生じてきました。毒麦の種子の毒性は,それに発生するカビから生じると一般に考えられています。
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