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  • 目ざめよ! 1992
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目ざめよ! 1992
目92 8/8 12–13ページ

聖書の見方

クリスチャンは宗教的な称号を用いるべきですか

現在,キリスト教世界の僧職者の不足については多くのことが語られていますが,僧職者の宗教的な称号の不足について耳にすることはめったにありません。簡単な称号もありますが,中にはもったいぶった称号もあります。幾つかの例を挙げてみましょう。

僧職者: 「師」

聖公会の主教: 「尊師また主なる主教」

ローマ・カトリックの司教(イタリアでは): 「閣下,最も尊く傑出した我が主」

枢機卿: 「猊下」

教皇: 「最も聖なる父」

「師」とか「司教」とか「主教」といった称号は,とても長い間使われてきたため,教会のほとんどの成員にとって耳障りには聞こえません。しかし,そうした称号は聖書に基づくものなのでしょうか。

「師」,「司教」,「主教」,「枢機卿」

ジェームズ王欽定訳には,「師(崇めるべき,尊い)」という言葉が1度だけ,詩編 111編9節に出てきます。その節はこう述べています。「そのみ名は聖にして崇むべきなり」。だれの名前でしょうか。次の節は,「主を畏るるは知恵の初めなり」と述べています。(詩編 111:10)あるカトリックの翻訳では,この二つの節はこのようになっています。「そのみ名は聖にしておそるべきもの。知恵の根本はヤーウェ[エホバ]を恐れること」。(新エルサレム聖書)それで,神の言葉によると,敬虔な恐れ,あるいは崇敬の念は全能者であられるエホバにのみ属しています。では,それを人間に与えるのは正しいことでしょうか。

パウロはテモテにあてて,「人もし司教の職を願わば,これ良き業を願うなり」と書きました。(テモテ第一 3:1,ジェームズ王欽定訳)しかし,新エルサレム聖書によると,その節はこうなっています。「主宰する長老になりたいと願うのは,高貴な仕事を望むことです」。責任の重い仕事を担っていた初期クリスチャンは,「長老」とか,「監督」と呼ばれました。これらの言葉は称号として用いられたのでしょうか。そうではありません。そうした人たちが“ペテロ司教”とか,“ヤコブ長老”などと呼ばれたことは一度もありません。エホバの証人の間で長老として会衆に仕える円熟したクリスチャンの男性が,決して「長老」という言葉を称号として用いないのはこのためです。「長老」や「監督」(司教あるいは主教)という言葉は,権威と責任の伴う立場に就いている人に当てはまります。またその言葉は,任命された人の資格や彼らが行なう業を描写しています。

では「枢機卿」という称号についてはどうですか。その言葉は聖書に出てくるでしょうか。どの翻訳にもその言葉は出てきません。実際,ローマ・カトリック教会もその称号が聖書に基づいていないことを認めています。新カトリック百科事典はこう説明しています。「この言葉の由来は,ラテン語の『蝶つがい』を意味するカルドという言葉であり,教皇エウゲニウス4世の語った,『家の扉が蝶つがいによって回転するように,教皇座,つまり全教会の扉は枢機卿職の上に据えられ,支持されている』という言葉の中に見いだされる」。この参考文献はさらに,「枢機卿は,『猊下』と直接呼ばれる特権を享受している」と述べています。その地位のゆえに,彼らは赤い法服と赤い帽子を身に着けることも許されています。使徒たちはそのような“特権”を得ていたでしょうか。そうではないことを聖書は教えています。

「主」,「モンシニョール」,「父」,「神父」

僧職者は主と呼ばれるべきでしょうか。聖公会の主教は「主」と呼ばれます。カトリックの高位僧職者はしばしば,「我が主」を意味する「モンシニョール」と呼ばれています。一部の国々のオランダ改革派教会の牧師は,ラテン語の「主」を意味する言葉ドミヌスから派生した「ドミニー」という称号で呼ばれています。しかし,イエスは弟子たちに次のように教え諭されました。「あなた方が知るとおり,この世において支配者たちは臣民に対して威張り……ます。しかし,あなた方はそうであってはなりません」。(マタイ 20:25,26,新エルサレム聖書)さらに,使徒パウロはこう書きました。「自分にゆだねられている人々に対して威張ってはなりません。むしろ,群れの模範となりなさい」。(ペテロ第一 5:3,新エルサレム聖書)イエスは謙遜に弟子たちの足をお洗いになったとき,こう言われました。「あなた方はわたしを師また主と呼んでいますが,それは正しいことです。わたしはその通りです」。(ヨハネ 13:13,新エルサレム聖書)神とみ子のものである宗教的な称号を人間に対して使うのは正しいことでしょうか。

「神父」という宗教的な称号は正しいのでしょうか。この言葉はローマ・カトリックと聖公会では広く用いられています。「父」を意味する「パドレ」という言葉も広く用いられています。しかし,イエスは弟子たちにこう教えられました。「地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただおひとりだからです。その方は天におられます」。(マタイ 23:9,新エルサレム聖書)新英訳聖書は同じように,「地上のどんな人をも『父』と呼んではなりません」と述べています。僧職者たちやその追随者たちが主イエス・キリストのこの命令に従わないのはなぜでしょうか。

ローマ法王は普通,「聖なる父」と呼ばれます。しかし,イタリア人の従者たちはしばしば法王を,「最も聖なる父」という意味の「サンティッシモ・パドレ」と呼びます。「聖なる父」という称号は聖書の中に1回だけ出てきます。(ヨハネ 17:11)これは至高者以外には決して用いるべきではない称号です。地上の不完全な被造物がそうした称号で呼ばれるのは正しいことでしょうか。

宗教の罪過

どうぞ,マタイ 23章1節から12節を読んで,その文脈に注目してください。イエスは,ユダヤ教の主要な派であったパリサイ人について話し始めます。パリサイ人たちは法律家であり,モーセの律法を細かい点まですべてきちょうめんに守っていました。また,自分に注意を引くような身繕いや行動を好みました。彼らの宗教は,服装,食事の時の目立つ席,会堂の中の正面の座席,名誉ある称号などから成る虚飾の宗教でした。彼らは,親が受ける敬意よりも大きな敬意をさえ要求しました。そして,父と呼ばれることを望みました。しかしイエスは,追随者たち全員が神の子供として,平等であることを示されました。どんな称号であれ,この平等の原則に逆らった考えを連想させるようなものを用いるなら,神に属するものをごう慢にも侵害することになります。このように,イエスは「父」という言葉を宗教的な意味で名誉ある称号として用いることを禁止なさいました。イエスは,追随者たちの信仰の父はエホバただおひとりであると言われました。

多くの僧職者たちが神とみ子にのみ属する『聖なる場所』に立っており,崇敬の念が神とみ子からかなりそらされて不完全な人間に向けられているのは明らかではないでしょうか。今日のまことのクリスチャンは,こびへつらうような宗教的称号を用いることや,人間を聖職者として高める慣行を避けます。エホバの証人の間では,奉仕者に呼びかける際,「兄弟」という言葉しか用いません。(ペテロ第二 3:15)これはイエスが,「あなた方はみな兄弟です」と言われたことと調和しています。―マタイ 23:8,新エルサレム聖書。

[12ページの図版]

[12ページの図版のクレジット]

The Three Bishops,1507年ごろ,アルブレヒト・デューラー画

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