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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
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エホバへの信頼は,献身とバプテスマに至る

「エホバに依り頼み,善を行なえ。地に住み,忠実さをもって行動せよ」― 詩編 37:3。

1 人間の指導者に信頼を置くのは愚かであることを,世の賢人によるどんな証言が示していますか。

わたしたちはだれを信頼できるでしょうか。人間の指導者ですか。それら指導者に関する記録は,不完全な人間に信頼を置くのは愚かであることを示しています。この世の賢人でさえその事実を認めています。例えば,かつてヨーロッパの経済誌「ビジョン」は,「現在の状況において最悪の事柄は,この現状から脱出する道をだれも知らないということである」と述べました。また,経済史家のロバート・ハイルブローナーは次の点を認めました。「我々を絶えず苦しめている事柄がほかにもある。それは,責任を担える人はいないのではないか,我々のほうに押し寄せてくる幾多の問題に対処する備えのある人はいないのではないかという疑いである」。

2 現代科学のもたらした益については何と言えますか。

2 確かに,人間は科学の様々な分野で多大の進歩を遂げてきました。しかし,そのすべてが有益なものだったでしょうか。いいえ,そうではありませんでした。作家のルイス・マムフォードが指摘しているとおり,「機械と科学の進歩によって,人間にもそれに対応する益が確実に及ぶようになったという考えは……全く支持できなくなった」のです。問題となっている一つの例は,湖と川を汚染し,幾百万本という樹木を枯らす原因になっている酸性雨です。さらに,犯罪,暴力,テロ,麻薬中毒,アルコール中毒,性行為感染症などが増加し,経済情勢が不安定になっているといった悲しむべき世界情勢はみな,人間の指導者に信頼を置いても無駄であることを証明しています。

3 神の言葉は,わたしたちがだれに信頼を置くべきかについて,どんな諭しを与えていますか。

3 神の言葉が次のような諭しを与えているのは極めてふさわしいことです。「高貴な者にも,地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない。その霊は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」。(詩編 146:3,4)もし人間に信頼を置くことができないとしたら,だれに信頼を置けるのでしょうか。わたしたちは天地の創造者に信頼を置くことができます。こう記されています。「エホバに依り頼み,エホバがその確信のよりどころとなってくださった強健な者は祝福される」― エレミヤ 17:7。

なぜエホバを信頼するのか

4 エホバの基本的な属性とは何ですか。それはどのように,わたしたちがエホバを信頼する確かな理由となっていますか。

4 わたしたちには,エホバを信頼できる確かな理由があります。まず第一に,エホバの基本的な属性である愛,知恵,公正,力のゆえに,またその他のすばらしい特質ゆえにエホバに信頼を置くことができます。そのみ言葉は,エホバが全能であられ,その称号の一つが「全能の神」であることを保証しています。(創世記 28:3)何とすばらしい信頼の根拠でしょう。エホバに逆らって成功できる人は一人もおらず,エホバの目的を阻止できる人は一人もいません。エホバは全知でもあられます。終わりのことを初めから知っておられ,この方にとって将来は明白であるというだけではありません。すばらしい創造のみ業に見られるように,すべての知識と知恵もこの方のもとにあるのです。この方が物事の扱い方において誤りを犯したことは,ただの一度もありません。(イザヤ 46:10。ローマ 11:33-35)それ以上に,エホバは完全に信頼に値する方,義と忠実の神であられます。神は偽ることができません。(申命記 32:4。テトス 1:2。ヘブライ 6:18)中でも,神の最も顕著な特質は無私の愛なので,「神は愛」と言うのはふさわしいことです。―ヨハネ第一 4:8,16。

5 神の言葉には,神が信頼に値することを証明するどんな記録が収められていますか。

5 エホバがどのように人類を扱われたかということは,エホバが全能性,知恵,公正,愛を持たれる信頼に値する神であることのさらに別の証拠となります。エホバはご自分を愛してご自分のおきてを守る人々との契約を守り,そのような人々に対する愛ある親切を保たれる,とモーセはイスラエル人に保証しました。(申命記 7:9)それよりも前,エホバは神を恐れるノアとその家族が大洪水を生き残るよう保護されました。神は義人ロトと二人の娘を,ソドムとゴモラの,火による滅びから救出されました。後に神は,イスラエル人をエジプトから連れ出し,アブラハムに対する約束通り,カナンの地を彼らに与えました。(創世記 7:23; 17:8; 19:15-26)さらにエホバは,火の燃える炉に投げ込まれた3人のヘブライ人を,また,ライオンの坑からダニエルを救出されたのではないでしょうか。―ダニエル 3:27; 6:23。

6 エホバを信頼することが誤ってはいないことを示す,どんな現代の証拠がありますか。

6 エホバはわたしたちが信頼を置くことのできる方であるということは,現代のエホバの証人たちの経験によっても証明されてきました。例えば,アドルフ・ヒトラーは,ドイツのエホバの証人という「やから」を根絶する,と豪語しましたが,逆にヒトラーとそのナチ党のほうが根絶させられました。今日この国のエホバの証人の隊伍は当時の何倍にも膨れ上がり,11万9,000人を上回るまでになっています。さらに,「ものみの塔」誌と姉妹誌の「目ざめよ!」に掲載される文字通り幾百ものエホバの証人の経験談は,実際にエホバがわたしたちの信頼できる神であるという事実を雄弁に証ししています。

エホバを信頼しない人がいる理由

7 ある人が,自分は「エホバの傍観者」である,と言ったのはなぜですか。

7 しかし,今日エホバに信頼を置く人は何と少ないのでしょう。エホバの特質と偉業について学んできた多くの人でさえ,エホバに信頼を置いていません。US・カトリック誌(1979年1月号)に掲載された記事は,そのような一人の人についてこう述べています。「調査員から自分の宗教的な好みについて尋ねられたその男の人は,『私はエホバの証人ならぬエホバの傍観者だと思います』と答えた。さらに詳しく述べるように言われてその人は,『エホバの証人の信じていることを私もほとんど信じていますが,かかわりになりたくはありません』と説明した」。同誌は,「献身したエホバの証人には,深くかかわるようになる以外に,選択の道は残されていない」と注解しました。

8 どんな基本的な特性があれば,エホバに仕えることにかかわりたいと思うようになりますか。

8 かかわりになりたくない人がいるのはなぜでしょうか。それは,心の状態が正しくないからです。人は「永遠の命のために正しく整えられ」なければなりません。(使徒 13:48)イエスが種まき人のたとえ話の中で言及されたように,実を生み出す人たちは,「りっぱな良い心」に真理の言葉を受け入れているのです。(ルカ 8:15)そうです,真理は不誠実な人たちにとっては魅力のあるものではありません。基本的に求められているのは正直な心です。神の言葉の真理は,誇り高い人にとっても魅力のあるものではありません。謙遜な態度が必要なのです。(ヤコブ 4:6)さらに真理は,自己満足にひたっている独善的な人々にとっても魅力のあるものではありません。しかし,自分の霊的な必要を自覚し,義に飢え渇き,今日の世界で行なわれているすべての忌むべき事柄について嘆き悲しんでいる人たちにとって,真理は確かに魅力のあるものです。―マタイ 5:3,6。エゼキエル 9:4。

エホバへの信頼は献身に至る

9,10 (イ)エホバに信頼を置くことができるようになるには,何が必要ですか。心の状態の正しい人々はどのようにこたえ応じますか。(ロ)そのような人たちはだれに信仰を働かせますか。

9 エホバに信頼を置くことができるようになるには,エホバについて聞かなければなりません。しかし,「人は,自分が信仰を持っていない者をどうして呼び求めるでしょうか。また,自分が聞いたこともない者にどうして信仰を持つでしょうか。また,宣べ伝える者がいなければ,どうして聞くでしょうか」。(ローマ 10:14)エホバの僕たちが宣べ伝える時,心の状態の正しい人々は,古代テサロニケの大勢の人々のようにこたえ応じます。そこの人たちについてパウロはこう書きました。「わたしたちから聞いて神の言葉を受けた時,あなた方はそれを,人間の言葉としてではなく,事実どおり神の言葉として受け入れたからです。それはまたあなた方信じる者の中で働いています」― テサロニケ第一 2:13。

10 そのような良い心を持った人々は,エホバについて学ぶと,エホバに信仰を働かせます。それは肝要なことです。というのは,「信仰がなければ,神を十分に喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分を切に求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」。(ヘブライ 11:6)神のみ子に信仰を働かせるのも肝要なことです。「ほかのだれにも救いはありません。人々の間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」。そうです,イエス・キリストの名以外にはないのです。―使徒 4:12。

11 エホバを信頼する人は,使徒ペテロから与えられたどんな諭しに従うようになりますか。

11 神の言葉,エホバ,み子イエス・キリストを信頼する人は,使徒ペテロが当時のユダヤ人に与えた諭しに注意を払うように動かされます。ペテロはこう述べました。『ですから,悔い改めて身を転じなさい。さわやかにする時期がエホバのみもとから到来するようにするためです』。(使徒 3:19)人はエホバとそのご要求に関する知識を取り入れることによって,イエス・キリストの追随者になることが自分に対する神のご意志であることを知るのです。ペテロが述べているとおりです。「あなた方はこうした道に召されたのです。キリストでさえあなた方のために苦しみを受け,あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残されたからです」。(ペテロ第一 2:21)イエスは,「だれでもわたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい」と言われた時,関係する事柄を明らかにされました。(マタイ 16:24)それは,神のご意志を行なうために,またイエス・キリストの足跡に従うために,エホバ神に献身することを意味するのです。

献身は単なるコミットメントのようなものではない

12 キリスト教世界で「コミットメント」という語はどのように,頻繁に用いられていますか。

12 キリスト教世界では,クリスチャンになることに関して「commitment」(定義は次の節をご覧ください。)という語が頻繁に用いられます。例えばわたしたちは,米国の福音主義者たちが「イエスに対する個人的なコミットメントを強調する」という話を聞きます。ローマ・カトリックの僧職者は,「カトリックの宗教的なコミットメント」について語りました。かつてカトリックの一司祭は,自分の政治参加を弁護しようとして,「政治に傾くことは,自分の(司祭としての)コミットメントを拡大することだった」と述べました。また,企業は,「顧客に対する我々のコミットメント」を宣伝しています。ですから実際のところ,人は仕事上のコミットメント,社会的なコミットメント,政治上のコミットメント,宗教上のコミットメントなど,一度に数多くのコミットメントを持つことがあります。

13 エホバへの献身には何が関係していますか。

13 しかし,エホバ神への献身は,単なるコミットメントのようなものではありません。コミットメントとは,「将来に何かを行なうという確約,もしくは堅い約束」にすぎません。しかし,献身するとは,「神たる者への奉仕や崇拝,あるいは神聖な用途のために全く専心すること」を意味します。大半の人々は,献身するよりも,コミットメントを行なうことに満足しています。そのような人たちの宗教がバックグラウンド・ミュージックのようなものにすぎない理由は,そこにあるに違いありません。それは聴いていて心地よいものですが,人が本当に行ないたいと思う事柄を阻むことはありません。

14 単なるコミットメントがエホバ神に受け入れられないのはなぜですか。

14 神に献身しているなら,神のご意志を行なうことが生活の中で最重要な事柄になります。イエスが「あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」と述べた時に引き合いに出された,第一で最大のおきてを守ることが個々の人に求められるのです。イエスは次のように述べた時,神に仕えることの排他的な性質を強調されました。「だれも二人の主人に奴隷として仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,一方に堅く付いて他方を侮るかのどちらかだからです。あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません」。(マルコ 12:30。マタイ 6:24)ですから,単なるコミットメントがエホバに受け入れられないことは明らかです。

なぜ水の浸礼を受けるのか

15 イエスは神への信仰を公に表明することに関して,どんな模範を残されましたか。

15 神への献身の象徴としてバプテスマを受けるのはなぜでしょうか。エホバの証人になりたいと思う時,バプテスマの代わりとなる方法はありません。クリスチャン,つまりイエス・キリストの追随者として知られることを願う場合にも,同じことが言えます。エホバの「忠実な証人」であるイエスは,この点に関する模範を残されました。イエスはヨルダン川でバプテスマをお受けになったからです。ヨハネは悔い改めた罪人たちにバプテスマを施していたので,なぜイエスがバプテスマを受けることを望まれたのか,理解できませんでした。しかしイエスはヨハネにこう言われました。「この度はそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなったことをすべて果たすのはふさわしいことなのです」。(啓示 1:5。マタイ 3:13-17)そのようにして神のみ子は,エホバにご自分を差し出すことにより信仰を公に表明され,神のご意志を行ないたいと思うすべての人のために模範を残されました。

16 イエスはバプテスマに関して,追随者たちにどんな命令をお与えになりましたか。また,弟子たちがその命令に従ったことを,何が示していますか。

16 それだけではなく,イエスは天のみ父のもとに戻る少し前に,追随者たちにこのような命令をお与えになりました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」。(マタイ 28:19,20)「使徒たちの活動」の書にある記録は,イエスの弟子たちがその命令に熱心に従ったことを示しています。―使徒 2:40,41; 8:12; 9:17,18; 19:5。

17 単に水を振り掛けるのは有効なバプテスマではない,となぜ言えますか。

17 それらの人たちはどのようにバプテスマを施されましたか。キリスト教世界のほとんどの教会で習慣とされているように,ただ水を振り掛けたのですか。決してそうではありませんでした。イエスはバプテスマをお受けになった後,「水から上がられ」ました。これは,イエスが水の中に浸されたことを明示しています。(マルコ 1:9,10)実際,バプテスマにそれ以外の意味はありません。「バプテスマを施す」と訳されているギリシャ語は,「浸す,沈める」を意味しているからです。―使徒 8:36-39。

18 人が神に献身したことの象徴として浸礼が非常にふさわしいのはなぜですか。

18 そのようなバプテスマこそ,献身の象徴として極めてふさわしいものです。水の下にもぐることは,人が自分の以前の行動の仕方に関しては死ぬことをよく表わしています。水から引き上げられることは,当人が新しい生き方へとよみがえらされたことを表わします。結婚式が,新郎新婦に結婚した状態を印象づける助けになるように,証人たちの前で行なわれる水の浸礼は,バプテスマ希望者に永続的な印象を与えると言えるでしょう。次の点に疑問の余地はありません。つまり,エホバへの献身は,バプテスマを受けるという行為により,人生の最も重要な出来事として人の思いと記憶の中に永久に残るはずです。バプテスマは,自分に仕えることからエホバ神に仕えることへの転換点となるのです。

19 バプテスマを受けるべき,さらにどんな理由がありますか。

19 水のバプテスマが,エホバのみ前にあって正しい良心を得るための必要条件であるという事実を見過ごさないようにしましょう。その点はペテロ第一 3章21節で明らかにされています。こう記されています。「これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなた方を救っているのです」。

何歳でバプテスマを受けるか

20 幼児にバプテスマの資格がないと言えるのはなぜですか。

20 マタイ 28章19節と20節にあるイエスの言葉は,イエスの弟子とされた人々がバプテスマを受けるべきであることを示しています。したがって,幼児や小さな子供たちは,バプテスマに関する聖書的な要求にかなっていないことになります。幼児は神の言葉や創造者なる神,またみ子イエス・キリストに対する信仰を働かせることができません。幼児は聖霊が神の活動力であることを理解できませんし,過去の罪を悔い改め,神のご意志を行なうという厳粛な誓約をすることもできません。

21 若い人たちがバプテスマを受けるのはふさわしいことですか。

21 しかし,エホバの民の中には,他の極端に走ってしまった人がいるようです。クリスチャンである多くの親は,自分の子供が十代の後半になるまで待たせ,それからバプテスマの件を持ち出します。わたしたちは,全く自分から率先して有効な献身をした若者たちのことを何度も耳にします。例えば,一人の長老の10歳前後の息子は,バプテスマを受けることを誠実に願っていました。それで父親は,他の3人の長老たちが,バプテスマについて真剣に考えている人たちのために設けられた質問を息子と討議するようにしました。a 長老たちは,この若者は非常に若いが,エホバ神の,叙任された奉仕者としてバプテスマを受ける資格があるという結論を下しました。何と,最近バハマの開拓奉仕学校には,全時間奉仕者の両親を持つ,バプテスマを受けた10歳の少女が出席しました。

22 親が子供たちのうちにクリスチャンの人格を築き上げるとき,若い人たちはどうなると期待できますか。

22 この問題に関して,ある親たちには不十分な点があるようです。彼らは子供たちのうちにクリスチャンの人格を築き上げるため,『火に耐える材料』をどの程度用いているでしょうか。(コリント第一 3:10-15)まず最初に,そのようにするには,親の生活の中でエホバの清い崇拝が最重要な事柄となっていなければなりません。それに加え,親は申命記 6章6節と7節,エフェソス 6章4節で与えられている優れた諭しに注意を払わなければなりません。そのようにすれば,親が子供たちを後で指導しなければならないというより,親として子供があまりにも早くバプテスマを受けることがないよう抑えなければならないという結果が生じるかもしれません。

23 いったん献身とバプテスマという段階に達したなら,ほかに何が求められますか。

23 いったん献身と水のバプテスマによってエホバへの信頼を実証したなら,その信頼を実証し続けなければなりません。「エホバを信頼しエホバと共に働く者として,奉仕する」と題する次の記事は,その点に関係した事柄を認識するようわたしたちを助けてくれます。

[脚注]

a 「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」という本には,エホバの証人としてバプテスマを受けることを願うすべての人が答えるようになっている一連の質問が示されています。バプテスマの準備をしている人はこの本を入手できます。

どのように答えますか

□ 人間に信頼を置くのが愚かであることを,どんな事実が強調していますか

□ エホバの属性と,エホバの物事の扱い方が,エホバを信頼するための確かな理由となるのはなぜですか

□ エホバに信頼を置くために,単なるコミットメントでなく,献身が必要なのはなぜですか

□ 親はどのように,年若い時にエホバに献身したいという願いを子供たちに教え込むことができますか

[10ページの図版]

わたしたちは偉大な救出者としてのエホバに信頼を置くことができる

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