聖書の見方
地獄は熱い所ですか
「人は焼かれ,焼かれ,また焼かれる」。暗くした部屋の中で,シャツを燃え上がらせた話し手は腕を伸ばし,驚いている聴き手のほうに数歩近づきます。有り難いことに,実演はほんの数秒で終わります。しかし,引火性の粉末を使って地獄の火をもっともらしく再現した説教師は,聴衆に強い印象を与えることができました。
この説教師のように,神が悪人のためにこうしたとこしえの運命を定めておられると述べる宗教の教師はほかにも多く,特にキリスト教世界には大勢います。しかしこれは,本当に聖書が述べていることなのでしょうか。
善人と悪人が同じ場所へ
「悪しき者は地獄に入れられん。神を忘るるもろもろの国民もまたしかり」。(詩編 9:17,ジェームズ王欽定訳)ここの「地獄」という語に代えて,ラムサ訳やエルサレム聖書などのさらに新しい訳では,ヘブライ語本文にある「シェオル」という語をそのまま用いています。しかし,「地獄」また「シェオル」とは,正確には何を指しているのでしょうか。
聖書の伝道の書から,シェオルについてさらに知ることができます。そこにはこう述べられています。「あなたの手のなし得るすべてのことを力の限りを尽くして行なえ。シェオル,すなわちあなたの行こうとしている場所には,業も企ても知識も知恵もないからである」。(伝道の書 9:10)地獄,すなわちシェオルにいる人たちが,考えることや理解することや行動することができないのであれば,確かにそれらの人たちは苦しんでいるはずはありません。
それで,神の忠実な僕たちでさえシェオルに行ったとしても,驚くには及びません。ヤコブは自分が死んだらそこへ行くものと思っていました。ヨブは神が自分をそこに隠し,そのようにして苦しみが終わることを望んでいました。(創世記 42:38。ヨブ 14:13)これら二人の忠実な僕たちが,悪人と共に火の燃える地獄に行くことを望んだり,さらにそれを求めたりすることがあるでしょうか。決してそのようなことはありません。
「火」とは何か
しかし,神のご意志を行なわない者たちは「消すことのできない火」の中に,また『泣き悲しんだり歯ぎしりしたりする場となる,火の燃える炉』の中に行くというイエスの言葉をどのように理解したらよいでしょうか。―マルコ 9:43-48。マタイ 13:42。
この場所について論じられた時,イエスはヘブライ語の「シェオル」に相当するギリシャ語a である「ハデス」という語を用いられませんでした。むしろ「ゲヘナ」という語を用いられました。この言葉はヒンノムの谷と呼ばれた,エルサレムに近いごみ捨て場を指していました。そこでは,いつもごみを処理するための火が燃やされていました。それは,イエスの話を聴いていた人たちに,とこしえの苦しみではなく火による完全な滅び,つまり絶滅を思い起こさせる打って付けの言葉でした。
使徒ヨハネに与えられた啓示の中では,悪事を行なうすべての者たちが投げ込まれる「火と硫黄で燃える湖」のことが述べられています。(啓示 21:8)もし地獄が存在するなら,悪人が行くというのですから,ここが地獄であるに違いありません。しかし,聖書のこの同じ書は,アダムから受け継いだ死とハデスもこの同じ火の湖に投げ込まれると述べています。これら二つの抽象的なものは苦しむと言えるでしょうか。そうは言えません。しかし,この火がそれらのもののなくなることを表わすとは言えます。また実際にそのことを表わしています。それは,死とハデスが『その中の死者を出した』なら,つまり死人の復活の後に起こることになっています。―啓示 20:13,14。
この最後の例は,火が絶滅,つまりとこしえの滅びの象徴にすぎないことを示しています。ですから,火の湖またゲヘナには何の苦しみもありません。それは,悪人だけでなく神の忠実な僕たちも行くハデス(つまりシェオル)に苦しみがないのと同じです。しかし,このことについてもう少し詳しく調べるなら,聖書と,地獄の火の存在を同時に信じることができない理由を一層よく理解できるでしょう。
神の性格と相いれない
子供を来る日も来る日も監禁し,また拷問にかけることまでした親をどう思いますか。そうした行為を嫌悪するのであれば,自分の子供たちを永久に火による責め苦に遭わせる神をも嫌悪するはずではありませんか。
まことの神がそのような方ではないことは,『自分たちの息子や娘を火で焼いていた』イスラエル人にエホバがお与えになった戒めから分かります。エホバは,「それはわたしが命じたこともなければ,わたしの心に上りもしなかったことである」と断言されました。(エレミヤ 7:31)神はこうした事柄を考えられたこともないのですから,神がご自分の被造物のために地獄の火を創造されるなどとどうして考えられるでしょうか。b そうです,残酷な行為や拷問がわたしたちに嫌悪感を覚えさせるのであれば,神にははるかに強い嫌悪感を覚えさせることでしょう。神は愛であられるからです。―ヨハネ第一 4:8。
地獄の火の教理は公正さにも反します。ローマ人に宛てた手紙の中で,使徒パウロは「罪の報いは死です」と説明しています。(ローマ 6:23)さらにパウロは,「死んだ者は自分の罪から放免されているのです」とも述べています。死によって人の負債が完全に取り除かれるのであれば,生きている間の罪だけのためにとこしえに苦しまなければならないのはなぜでしょうか。―ローマ 6:7。
このように聖書は,一般に考えられているような地獄の火が存在しないことを示しています。また,このことを知ると,恐怖ではなく,愛に基づく神との関係を培うことができます。これからも聖書をお調べになって,神を喜ばせるふさわしい方法を学び,人類共通の墓であるハデスつまりシェオルが永久になくなる驚くべき日を目撃する一人になられるようお勧めします。―ヨハネ第一 4:16-18。
[脚注]
b 中には,地獄の火の裏づけとして,イエスが富んだ人とラザロについて話されたルカ 16章19節から31節の記述を指摘する人がいるかもしれません。しかし,これらのイエスの言葉はたとえ話であり,したがって文字通りに理解すべきではありません。詳しくは,ニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会発行の「今ある命がすべてですか」という本をご覧ください。
[18ページの拡大文]
子供を拷問にかけた親をどう思いますか
[19ページの図版]
これが聖書の地獄ですか