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    聖書に対する洞察,第1巻
    • 書き記された記録は明らかに簡潔なものですが(ヨハ 21:25),そこから得られる神のみ子の人物像はすばらしいものですから,実物はそれよりもはるかにすばらしかったに違いありません。義や公正を擁護する強さと結び付いている謙遜さや親切に関するイエスの心温まる模範は,その王国政府が何世紀にもわたって信仰の人々が待望してきたとおりのものになること,実際,それらの人々の最大の期待をも凌駕するほどのものになることを保証しています。(ロマ 8:18-22)イエスはあらゆる面でご自分の弟子たちのための完全な規準,世の支配者たちのそれとは大いに異なる規準を例証されました。(マタ 20:25-28; コリ一 11:1; ペテ一 2:21)弟子たちの主であられるイエスが彼らの足を洗われたのです。このようにしてイエスは,油そそがれた追随者たちの会衆を地上だけでなく天においても特徴づける深い思いやり,配慮,謙遜の型を残されました。(ヨハ 13:3-15)それら追随者たちは高い天の王座に就けられ,キリストの千年統治の期間中,「天と地におけるすべての権威」をイエスと共にしますが,イエスの地上の臣民の必要を謙遜に顧み,その必要を満たすために愛を込めて仕えるに違いありません。―マタ 28:18; ロマ 8:17; ペテ一 2:9; 啓 1:5,6; 20:6; 21:2-4。

  • 足を洗う
    聖書に対する洞察,第1巻
    • イエス・キリストは西暦33年のニサン14日,地上における生涯の最後の夜,ご自分の使徒たちの足を洗われましたが,そうされたのは儀式を制定するためではなく,弟子たちに教訓を与え,『模範を示す』ためでした。(ヨハ 13:1-16)使徒たちの間ではだれが一番偉いかについてすでに議論が行なわれていました。この晩遅く,イエスが使徒たちの足を洗われた後であったのに,彼らはだれが一番偉いのだろうかということについてもう一度激しい論争をしました。(ルカ 22:24-27)しかし,イエスが行なわれたことは容易に忘れられてしまうようなことではありませんでした。その夜,イエスと使徒たちは単に一つの部屋を使用していただけで,だれかの客ではありませんでした。それで,もし彼らが客であったなら彼らの足を洗う僕がいたに違いありませんが,そのような僕はそこにいませんでした。使徒たちの中で他の人のために率先してこの卑しい奉仕を行なう人はだれもいませんでした。しかし,食事の最中,ふさわしい時にイエスは立ち上がり,自分の外衣をわきに置いてふき布を身に帯び,たらいに水を入れて,弟子たちの足を洗われました。こうしてイエスは,各人が謙遜に他の人の僕となり,他の人が心地よく過ごせるように行動して,実際的な方法で愛を示すべきであることを示されました。使徒パウロが,クリスチャンのやもめたちの行なうりっぱな業の中に足を洗う親切な行為を挙げていることからも明らかなように,クリスチャンの女主人たちはこれを行ないました。(テモ一 5:9,10)クリスチャン・ギリシャ語聖書は,公式に足を洗う行為をキリスト教の要求された儀式として挙げてはいません。それでも,その行為によってイエスが残した模範は,地味な仕方で目立たない仕事を果たして兄弟たちに愛をもって仕えるべきことをクリスチャンに絶えず思い出させるものとなっています。―ヨハ 13:34,35。「水を浴びる」を参照。

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