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裁きの日聖書に対する洞察,第1巻
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有罪宣告とは限らない クリスチャン・ギリシャ語聖書に出て来る「裁き」という語(ギ語,クリシスとクリマ)のほとんどは明らかに,有罪の,あるいは非とする裁きという意味を伝えています。ヨハネ 5章24,29節で,「裁き」という語は「命」また「永遠の命」と対照を成し,それが,命の完全な喪失すなわち死を意味する有罪の裁きであることを明白に示しています。(ペテ二 2:10; 3:7; ヨハ 3:18,19)しかし,非とする裁きすべてが必然的に滅びに至るわけではありません。この点を例示しているのは,パウロが,主の晩さんを行なうことに関してコリント第一 11章27-32節で述べている言葉です。もし人が自分のしている事柄を正しくわきまえないなら,「自分に対する裁き」を食べたり飲んだりすることになりかねません。さらにパウロはこう付け加えました。「裁きを受けるとき,わたしたちはエホバから懲らしめを受けているのであり,それは,わたしたちが世と共に罪に定められることのないためです」。ですから人は,非とする裁きを受けるかもしれませんが,悔い改めることにより永久の滅びを免れるかもしれません。
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復活聖書に対する洞察,第2巻
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命への復活と裁きへの復活 イエスは人間に次のような慰めとなる保証をお与えになりました。「死んだ人々が神の子の声を聞き,それに注意を向けた者たちが生きる時が来ようとしています。それは今なのです。……このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」― ヨハ 5:25-29。
有罪宣告の裁き イエスのこの言葉にある「裁き」という語は,ギリシャ語のクリシスを訳したものです。パークハーストによると,クリスチャン・ギリシャ語聖書におけるこの語の意味は次のとおりです。「I. 裁き……II. 裁き,公正。マタイ 23章23節。12章20節と比較。……III. 有罪宣告の裁き,有罪宣告,永遠の断罪。マルコ 3章29節。ヨハネ 5章24,29節……IV. 有罪宣告もしくは処罰の理由や原因。ヨハネ 3章19節。V. ユダヤ人の間の特定の法廷……マタイ 5章21,22節」 ―「新約聖書希英辞典」,ロンドン,1845年,342ページ。
もしイエスが,裁きについて語った際,結果として命を生み出すような裁判のことを意味しておられたなら,そのことと「命の復活」は対照的なものではなくなります。ですから,文脈に示唆されているとおり,「裁き」という語を用いたイエスは,有罪宣告の裁きを意味しておられたのです。
イエスが地上で話されるのを聞いた「死んだ人々」 イエスの言葉を考慮する際,イエスが話された時に,「死んだ人々」がイエスの声を聞いていたことに注目できます。ペテロも同様な言葉を用い,こう述べました。「事実,このために良いたよりは死んだ者たちにも宣明されたのです。すなわち,彼らが,肉に関しては人間の観点から裁かれた者となっても,霊に関しては神の観点から生きた者となるためでした」。(ペテ一 4:6)このようにペテロが述べたのは,キリストの話を聞いた人々は聞く前に『罪過と罪にあって死んでいた』ものの,良いたよりに対する信仰により,霊的に『生き』始めたからでした。―エフェ 2:1。マタ 8:22; テモ一 5:6と比較。
ヨハネ 5章29節は,裁きの期間の終わりに言及している しかし,注目すべき非常に重要な事柄があります。それは,『命の復活と裁きの復活』について述べたイエスの言葉に含まれる時間的要素を見極めるための助けとなります。それは,イエスが同じ文脈の少し前のところで,当時生きてはいたものの霊的には死んでいる人々について話した時に述べた事柄です(この点に関しては,『死から命へ移る』という副見出しのもとで説明されています)。イエスはこう言われました。「死んだ人々が神の子の声を聞き,それに注意を向けた者たち[字義的に一語一語対応させると,「(者たち)すでに 聞いてきた」]が生きる時が来ようとしています。それは今なのです」。(ヨハ 5:25,行間)この言葉は,イエスが単にご自分の声をその時に耳で聞いていた人たちのことではなく,むしろ「すでに聞いてきた」人たち,つまり自分たちの聞いた事柄を,聞いた後に真実として受け入れた人たちのことを述べておられたことを示唆しています。聖書の中で「聞く」および「聴く」という語は,「注意を向ける」もしくは「従う」という意味で,非常に頻繁に用いられています。(「従順」を参照。)従順であることを証明する人は生きます。(ヨハ 6:60; 8:43,47; 10:3,27で用いられている,「聞く」または「聴く」という意味の同じギリシャ語[アクーオー]の用法と比較。)彼らは自分たちがイエスの声を聞く前に行なっていた事柄ではなく,声を聞いた後に行なう事柄に基づいて裁かれるのです。
ですからイエスは,「良いことを行なった者」と「いとうべきことを習わしにした者」について述べた際にも,時に関して同様の立場を取っておられたようです。つまり,「それらの巻き物に書かれている事柄」に従う,ないしは逆らう機会が,復活させられた人々に与えられた後,裁きの期間の終わりに彼らの行動を振り返り,その行動を回顧もしくは再検討するという立場です。その裁きの期間が終わって初めて,だれが良いことを行なったか,だれが悪いことを行なったかが明らかになるのです。「良いことを行なった者」(「それらの巻き物に書かれている事柄」にしたがって)に臨む結末は命という報いであり,「いとうべきことを習わしにした者」に臨む結末は有罪宣告の裁きです。復活は結局,命もしくは有罪宣告に至ったのです。
ある物事を回顧し,それを結末の観点から見て記述する,あるいはすでに完了したこととして述べる習わしは,聖書中によく見られます。神は「終わりのことを初めから,また,まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者」であられるからです。(イザ 46:10)ユダはこの同じ見方を取り入れ,会衆内に忍び込んだ腐敗した者たちについて,こう述べました。「惨めなことです! 彼らはカインの道に入り,報いを求めてバラムの誤った歩みに陥り,コラの反逆のことばによって滅びてしまった[字義,彼らは自分自身を滅ぼした]からです」。(ユダ 11)預言の中にも,これと同様の言葉遣いを用いているものがあります。―イザ 40:1,2; 46:1; エレ 48:1-4と比較。
ですから,ヨハネ 5章29節に取り入れられている見方は,パウロが「義者と不義者」の復活について語っている使徒 24章15節にある見方と同じではありません。パウロが言及しているのは明らかに,単に今ある命において神のみ前における義にかなった立場か不義な立場を占めていて,将来復活させられる人々のことです。彼らは「記念の墓の中にいる者」です。(ヨハ 5:28。「記念の墓」を参照。)イエスはヨハネ 5章29節で,そのような人たちが記念の墓から出て来た後の姿と,彼らがイエス・キリストおよび王また祭司である仲間たちによる統治期間中の歩み方によって,とこしえの「命」の報いを得る従順さか,神からの相応な「裁き[有罪宣告]」を受ける不従順さを示した後の姿を見ておられるのです。
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