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盲目聖書に対する洞察,第2巻
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地上におられたとき,イエス・キリストは奇跡によって多くの盲人に視力を回復させました。(マタ 11:5; 15:30,31; 21:14; ルカ 7:21,22)エリコの近くにいたときには,盲目のバルテマイとその仲間をいやしておられます。(マタ 20:29-34; マル 10:46-52; ルカ 18:35-43)別の時には,同時に二人の盲人をいやされました。(マタ 9:27-31)悪霊に取りつかれた,盲目で口のきけない人をいやされたこともあります。(マタ 12:22。ルカ 11:14と比較。)ある人の視力は徐々に回復しました。それによって,長いあいだ闇の中にいることに慣れていたその人は,陽光の輝きに少しずつ目を順応させることができたのかもしれません。(マル 8:22-26)生まれながらの盲人であった別の人は,視力を回復させてもらうとすぐにイエスを信じる者となりました。(ヨハ 9:1,35-38)後の二つの例の場合,イエスはつば,またつばと粘土を混ぜたものを使用されました。この方法は民間療法に似ているとされていますが,それによってこのいやしの奇跡的な面が薄れるわけではありません。生まれつき盲目であった人の場合,その人はシロアムの池に行って洗うように命じられ,そのようにした後に視力は回復しました。(ヨハ 9:7)ナアマンがらい病から解放される前にヨルダン川で水浴することを求められたのと同じように,これもきっとその人の信仰を試みるためだったに違いありません。―王二 5:10-14。
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仮小屋の祭り聖書に対する洞察,第1巻
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後代に加えられた特色 後代に行なわれるようになったもので,ヘブライ語聖書中にはなく,クリスチャン・ギリシャ語聖書中に言及されているように思われる一つの習わしは(ヨハ 7:37,38),シロアムの池から水をくみ上げ,朝の犠牲の時間にそれをぶどう酒と共に祭壇の上に注ぐことでした。ほとんどの学者たちによれば,このことは祭りの七日間行なわれ,八日目には行なわれませんでした。祭司は金の水差しを持ってシロアムの池に行くのが習わしでした。(安息日であった祭りの初日は例外で,その日は神殿の中の金の器から水が取られました。その水は,前日にシロアムからそこへ運ばれたものでした。)その祭司は時を見計らい,神殿にいる祭司たちが祭壇の上に犠牲の断片を並べようとするちょうどその時にシロアムから水を携えて戻りました。その祭司が神殿の“水の門”を通って祭司の中庭に入ると,祭司たちのラッパが3度吹き鳴らされてその到着を告げました。次いで,水は祭壇の基部に通じている受け皿に注がれ,同時にもう一つの受け皿にぶどう酒が注がれました。それから,神殿の音楽に合わせてハレル(詩 113-118編)が歌われ,その間,崇拝者たちは祭壇に向かってやしの枝を振りました。この儀式は歓びに満ちて祝いを行なう人々に,「あなた方は歓喜して,必ず救いの泉から水をくむであろう」というイザヤの預言的な言葉を思い起こさせたかもしれません。―イザ 12:3。
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仮小屋の祭り聖書に対する洞察,第1巻
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『最後の日,祭りの大いなる日に,立っておられた』イエスが,「だれでも渇いている人がいるなら,わたしのところに来て飲みなさい。わたしに信仰を持つ者は,まさに聖書が言ったとおり,『その内奥のところから生きた水の流れが流れ出る』のです」と叫んで言われたとき,多分イエスは仮小屋の祭りの霊的な意義とシロアムの水を用いた儀式のことを暗に述べておられたのでしょう。(ヨハ 7:37,38)また,その少し後,ユダヤ人に対して,「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなく,命の光を持つようになります」と言われたとき,イエスは祭りの際にエルサレムが神殿域のともしびとたいまつで照らされることにそれとなく言及しておられたのかもしれません。(ヨハ 8:12)それらのユダヤ人と論じたすぐ後に生まれつき盲目の人と会われた際,イエスはシロアムをこの祭りとその灯火に結び付けておられたのかもしれません。「わたしは世の光なのです」と弟子たちに言われてから,イエスは地面につばを吐いてだ液で粘土を作り,その人の両目にその粘土を当て,「行って,シロアムの池で洗いなさい」と言われました。―ヨハ 9:1-7。
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