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アクラ聖書に対する洞察,第1巻
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アクラ
(Aquila)[「鷲」を意味するラテン語に由来]
生来のユダヤ人で,小アジア北部のポントス生まれの人。いつもこの人の名は,妻であり忠節な伴侶であったプリスキラの名と一緒に挙げられています。二人は,西暦49年中か50年の初めに発せられた,ユダヤ人に対する皇帝クラウディウスの布告によってローマから追放されたため,コリントに住むようになりました。(使徒 18:1,2)西暦50年の秋,パウロがそこに到着した時,アクラとプリスキラは親切にもパウロを自分たちの家に迎え入れました。彼らは同じ職である天幕作りをして一緒に働くうちに,また恐らくパウロがそこに新しい会衆を設立するのをアクラとプリスキラが援助するうちに,彼らの間には非常に親密な友情が育ちました。―使徒 18:3。
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年代計算,年代学,年代記述聖書に対する洞察,第2巻
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パウロが初めてコリントを訪れた年代は,執政官代理<プロコンスル>としてのガリオの任期に基づいて算定できます。(使徒 18:1,11-18)「ガリオ」の項で説明されているように,執政官代理<プロコンスル>としてのその任期は西暦51年の夏から西暦52年の夏まで続いたようです。もっとも一部の学者は後者の年代として西暦52/53年のほうを好んでいます。したがって,パウロがコリントで活動した18か月の期間は西暦50年の秋に始まって,西暦52年の春に終わったものと思われます。このことはさらに,ユダヤ人全員にローマからの退去を要求したクラウディウス帝の勅令のために,コリントにいたパウロの仲間の二人,アクラとプリスキラがイタリアから到着して間もないころだったという事実からも確証されています。(使徒 18:2)5世紀の歴史家パウルス・オロシウスは,その命令が出されたのはクラウディウスの第9年,すなわち西暦49年,もしくは50年の初めごろであったと述べています。
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クラウディウス聖書に対する洞察,第1巻
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『クラウディウスはユダヤ人すべてにローマ退去を命じ』,西暦49年か50年の初め,つまり治世の第9年にその勅令を発布しました。ローマの伝記作家で歴史家のスエトニウスは,クラウディウスがユダヤ人をローマから追放したことを確証しています。(「皇帝列伝」,『クラウディウス』,XXV,4)この退去命令の結果として,クリスチャンである二人のユダヤ人,アクラとプリスキラはローマを去ってコリントに行きました。そこに到着して間もない西暦50年の秋のことと思われますが,二人はやはりそこに着いた使徒パウロに会いました。(使徒 18:1-3)その治世の初めのころ,クラウディウスはユダヤ人に対して好意的で,彼らのために寛容な態度を命じたり,帝国全域にわたって彼らに種々の自由を与えたりしていました。しかし,ローマにいた非常に多くのユダヤ人は暴動を起こす傾向があったために,クラウディウスは彼らを同市から追放することになったようです。
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流刑聖書に対する洞察,第2巻
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西暦1世紀において 西暦1世紀には,テサロニケ,アテネ,コリント,エフェソス,ローマ,バビロンその他の都市にユダヤ人の集落がありました。(使徒 17:1,16,17; 18:1,4,19)バビロンにはユダヤ人が大勢住んでいたので,ペテロはそこで音信を宣べ伝えました。(ペテ一 5:13)ヨセフスの記録によれば,西暦前1世紀には「多数の」ユダヤ人がバビロニアにいました。(ユダヤ古代誌,XV,14 [ii,2])西暦49年か50年の初めにローマ皇帝クラウディウスはローマからすべてのユダヤ人を追放しました。このことはクリスチャンになっていたユダヤ人にも影響を及ぼしました。そのような人々の中には,クラウディウスの勅令が出されたすぐ後の西暦50年ごろにパウロがコリントで出会ったアクラとプリスキラ(プリスカ)も含まれていました。(使徒 18:2)二人はパウロに同行してエフェソスに行きました。そして,パウロがコリントからローマにいる仲間のクリスチャンに手紙を書いた時(西暦56年ごろ)には,二人はローマに戻っていたものと思われます。というのは,クラウディウスはすでに死んでおり,当時ネロが支配していたからです。他の多くのユダヤ人もローマに戻っていました。―使徒 18:18,19; ロマ 16:3,7,11。
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イタリア聖書に対する洞察,第1巻
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キリスト教はごく早い時期にイタリアにもたらされました。というのは,西暦33年のペンテコステの日に,イタリア人の改宗者やローマから来たユダヤ人が聖霊の注がれるのを目撃し,ペテロの説明を聴いたからです。それらの人々の一部は,その時バプテスマを受けた「およそ三千人」の中に含まれていたに違いありません。(使徒 2:1,10,41)何年か後,パウロは自分の手紙の一つをローマのクリスチャン会衆に送っていますが,その会衆の中核はそれらの人々がイタリアに帰って形成した可能性があります。(ロマ 1:1-7)西暦49年中か50年の初めに皇帝クラウディウスが国外退去令を出した時,アクラとプリスキラはイタリアのその会衆に所属していたのかもしれません。二人がコリントに着いたのは,パウロが第2回宣教旅行の途中で初めて同市を訪ねる少し前のことでした。―使徒 18:1,2。
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