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アカイア聖書に対する洞察,第1巻
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西暦15年,ティベリウスは厳しい徴税をめぐる苦情に答えて,アカイアとマケドニアを皇帝の直轄下に置き,これをモエシア州から統治しました。この状態は,西暦44年,皇帝クラウディウスがこれらの州を元老院の管轄下に戻して,再び執政官代理<プロコンスル>がコリントから統治権を行使するようになるまで続きました。こうした事実に対する無知のために,過去の批評家の中には,パウロがその前に連れて来られたガリオを,聖書が「アカイアの執政官代理」と呼んでいることに異議を唱えた人々もいました。(使徒 18:12)ところが,デルフォイで一つの碑文が発見されたことにより,「使徒たちの活動」の書の筆者である歴史家ルカが叙述している時代に,アカイアにガリオという名の執政官代理<プロコンスル>が実際にいたことが明らかになりました。―「ガリオ」を参照。
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使徒たちの活動聖書に対する洞察,第1巻
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信ぴょう性 「使徒たちの活動」の書の正確さは,幾年にもわたり数々の考古学上の発見により立証されてきました。例えば,使徒 13章7節は,セルギオ・パウロがキプロスの執政官代理<プロコンスル>であったと述べています。キプロス島はパウロが訪れる少し前までは前法務官<プロプラエトル>もしくは地方総督によって支配されていましたが,キプロスで発見された碑文によると,その島は執政官代理<プロコンスル>と呼ばれる属州総督が立てられてローマ元老院の直接の支配下に実際に置かれるようになっていたことが今では知られています。同様にギリシャでも,アウグスツス・カエサルの支配期間中アカイアはローマ元老院直轄の属州でしたが,ティベリウスが皇帝だった時は同皇帝が直接支配しました。タキツスによれば,後日,皇帝クラウディウスの下でアカイアは再び元老院の属州となりました。クラウディウスからギリシャのデルフォイ人にあてられた皇帝勅裁書の断片が発見されましたが,それにはガリオが執政官代理<プロコンスル>であったことが述べられています。したがって,使徒 18章12節は,パウロがアカイアの首都コリントにいた時ガリオが「執政官代理」だったと述べており,正しい記述であると言えます。(「ガリオ」を参照。)また,テサロニケの入口のアーチにはめ込まれた碑文(その断片は大英博物館に保存されている)も,たとえ古典文学の中に見られないとしても,「市の支配者たち」(「都市支配者<ポリタルケース>たち」,市民の統治者たち)という称号のことを述べている使徒 17章8節が正しいことを示しています。
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年代計算,年代学,年代記述聖書に対する洞察,第2巻
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パウロが初めてコリントを訪れた年代は,執政官代理<プロコンスル>としてのガリオの任期に基づいて算定できます。(使徒 18:1,11-18)「ガリオ」の項で説明されているように,執政官代理<プロコンスル>としてのその任期は西暦51年の夏から西暦52年の夏まで続いたようです。もっとも一部の学者は後者の年代として西暦52/53年のほうを好んでいます。したがって,パウロがコリントで活動した18か月の期間は西暦50年の秋に始まって,西暦52年の春に終わったものと思われます。このことはさらに,ユダヤ人全員にローマからの退去を要求したクラウディウス帝の勅令のために,コリントにいたパウロの仲間の二人,アクラとプリスキラがイタリアから到着して間もないころだったという事実からも確証されています。(使徒 18:2)5世紀の歴史家パウルス・オロシウスは,その命令が出されたのはクラウディウスの第9年,すなわち西暦49年,もしくは50年の初めごろであったと述べています。
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コリント聖書に対する洞察,第1巻
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発掘調査により,アゴラの中心部の付近で,アゴラの高いほうと低いほうの境になっている段から張り出しているベーマまたはローストラと呼ばれる,屋外の小高い演壇が見つかりました。白と青の大理石で造られ,繊細な彫刻の装飾がいっぱい施されたその壇のそばには,モザイク模様の床に大理石の腰掛けの置かれた控え室が二つありました。そのベーマは,キリスト教の音信に反対したユダヤ人がパウロを連れ出して執政官代理<プロコンスル>ガリオの前で審問を受けさせた「裁きの座」であったと考えられています。(使徒 18:12-16)コリント湾の北側にあるデルフォイで発見されたある碑文には,ガリオの名前が記されており,彼が執政官代理<プロコンスル>だったことが示唆されています。―「ガリオ」を参照。
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ガリオ聖書に対する洞察,第1巻
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デルフォイから出土した碑文は,アカイアの執政官代理<プロコンスル>としてのガリオの任期の年代を算定するのに役立ちます。(使徒 18:12)その碑文の本文は断片的なものにすぎなかったため,再建されなければなりませんでしたが,その本文には確かに,「……執政官代理<プロコンスル>,[ルキウス・ユ]ニウス・ガリオ」という名前が含まれています。歴史家たちは,その本文が皇帝クラウディウス・カエサルからの手紙で,その中に出て来る26という数字はクラウディウスが皇帝として推挙された26回目のことを指しているという点でおおむね意見の一致を見ています。(アカイアを元老院直轄の独立した州の地位に回復させ,それゆえに執政官代理<プロコンスル>を置かせるようにしたのは,クラウディウスでした。)この手紙は西暦52年の前半に書き記されたと思われます。なぜなら,ほかの碑文は,クラウディウスが西暦52年8月1日以前に皇帝として27回目の推挙を受けたことを示唆しているからです。カリア語の一碑文とローマのクラウディア水道と呼ばれる送水路の碑文は,クラウディウスが皇帝として推挙された26回目と27回目の出来事を彼が護民官としての職権を行使した第12期の1年以内のこととしています。護民官を務めたその第12期は,西暦52年1月25日から西暦53年1月24日までの期間に当たりました。したがって,ガリオがアカイアの執政官代理<プロコンスル>を務めた期間(夏の初めから始まって,普通1年間続いた在職期間)は,西暦51年の夏から西暦52年の夏まで続いたようです。もっとも,西暦52-53年のほうを好む学者もいます。
ガリオ(ΓΑΛΛΙΩΝ)という名前が刻まれている碑文の一部
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