-
アントニアの塔聖書に対する洞察,第1巻
-
-
さらにはっきりアントニアの塔に言及しているのは,使徒 21章30-40節および22章24節にある記述です。パウロは宗教的暴徒に対する自分の弁明と証言をこの要塞に通じる階段から行ない,そののち取り調べのため兵営の中に連行されたようです。そして多分,サンヘドリンでの騒然たる会合の後にこの場所に連れ戻され,またパウロの命を脅かす陰謀についてパウロのおいが伝えに来た時にもここにいたものと思われます。―使徒 23:10,16。
-
-
アラム語聖書に対する洞察,第1巻
-
-
イエスは何語を話されたか この疑問に関しては学者の間にかなりの意見の相違が見られます。しかし,イエス・キリストが地上におられた当時,パレスチナで使われていた言語に関して,G・アーネスト・ライト教授は次のように述べています。「主要な都市のちまたでは様々な言語が聞かれたに違いない。ギリシャ語やアラム語が通用語であったと思われるが,ギリシャ語のほうが一般的であったカエサレアやサマリアのような“現代的な”あるいは“西洋風の”諸都市においてさえ,都市に住む種々の民族の大半の者は多分,この両方の言語を理解することができたであろう。ローマの兵士や役人たちはラテン語で会話をしたであろうし,正統派ユダヤ教徒は一種の後期ヘブライ語を互いの間で話したと思われる。もっとも,それは古典ヘブライ語やアラム語と類似していたとはいえ,そのいずれでもなかったことを我々は知っている」。イエス・キリストの話された言語に関して,ライト教授はさらにこう注解しています。「イエスの話した言語については,多くの論議が行なわれてきた。イエスがギリシャ語あるいはラテン語を話したかどうかを知る確かな方法はない。しかし,宣教に携わって教える際,いつもアラム語,もしくは相当アラム語化された通俗のヘブライ語を用いた。パウロが神殿で暴徒に話しかけた時,彼はヘブライ語で話したと言われている(使徒 21:40)。学者たちはこれがアラム語のことであると一般に理解しているが,通俗のヘブライ語が当時のユダヤ人の間の通用語であったことは大いにあり得ることである」。―「聖書考古学」,1962年,243ページ。
-
-
ヘブライ語聖書に対する洞察,第2巻
-
-
しかし,ヘブライ語が生きた言語として西暦紀元の最初の世紀まで存続したという見方を支持する最も強力な証拠は,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でヘブライ語に言及している箇所に見いだされます。(ヨハ 5:2; 19:13,17,20; 20:16; 啓 9:11; 16:16)それらの箇所の「ヘブライ語」という用語を「アラム語」と読むべきだと考えている学者は少なくありませんが,「アラム語」の項で述べられているように,その用語が実際にヘブライ語を指して使われていると考えるべきもっともな理由があります。パウロはエルサレムの人々に「ヘブライ語」で話しかけたと述べている医師ルカが,アラム語つまりシリア語を意味していたとは考えられないようです。(使徒 21:40; 22:2。使徒 26:14と比較。)ヘブライ語聖書では,それ以前からアラム語(シリア語)と「ユダヤ人の言語」とは区別されており(王二 18:26),また聖書のこの章句のことを考慮した1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセフスは「アラム語」と「ヘブライ語」について別個の言語として語っているので(ユダヤ古代誌,X,8 [i,2])クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちがアラム語またはシリア語のことを意味して,「ヘブライ語」と言うべき理由は一つもないように思われます。
-