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臨在,共にいること,存在すること聖書に対する洞察,第2巻
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イエスの臨在は目に見えるものである(イエスが人間の目で見ることのできる体をもった形で現われるという意味で)という考えにとって不利な証拠は,イエスご自身が,世の命のために死によって自分の肉を犠牲にすると言われたその言葉や(ヨハ 6:51),復活させられたイエスは「近づき難い光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方」であるという使徒パウロの宣言の中に見いだせます。(テモ一 6:14-16)それでイエスは弟子たちに,「あとしばらくすれば,世はもはやわたしを見ないでしょう」と言うことができました。なるほど,イエスの弟子たちは,イエスを見ることになっていました。それは,イエスが復活後に彼らに現われるからだけでなく,やがて彼らも復活させられて,天でイエスと共になり,『み父がイエスにお与えになった栄光を見る』からでもあります。(ヨハ 14:19; 17:24)しかし,一般の世は,イエスを見ないことになっていました。イエスは霊の被造物としての命に復活させられた後(ペテ一 3:18),弟子たちにしか現われなかったからです。イエスの昇天を見たのも,世ではなく,弟子たちだけでした。その場にいたみ使いたちは,イエスが「同じ様」で(ギ語,トロポス,「形」という意味のモルフェーではない),したがって公に見られることなく,忠実な追随者たちだけが識別するような仕方で戻られることを弟子たちに保証しました。―使徒 1:1-11。
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空聖書に対する洞察,第2巻
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イエスは天へ昇られた際,雲に取り去られて弟子たちから見えなくなりました。彼らが空を見つめていると,み使いたちが現われて,次のように言いました。「ガリラヤの人たちよ,なぜ空を眺めて立っているのですか。あなた方のもとから空へ迎え上げられたこのイエスは,こうして,空に入って行くのをあなた方が見たのと同じ様で来られるでしょう」。(使徒 1:9-11,脚注)み使いたちは,要するに,イエスが空に見えるようになると期待して空を見つめていても意味がないと弟子たちに告げたのです。イエスは雲に取り上げられて見えなくなったからです。しかし,イエスは同じ様で,つまり肉眼では観察できない見えない様で戻って来られることになります。
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