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    聖書に対する洞察,第1巻
    • 一つの軍団は十の歩兵隊,つまり部隊に分かれていました。例えば,聖書には「イタリア隊」や「アウグスツスの部隊」のことが述べられています。(使徒 10:1; 27:1。「アウグスツスの部隊」を参照。)西暦44年にヘロデ・アグリッパが死んだ時,カエサレアには五つの歩兵隊がありました。さらに歩兵隊が細分されて,一つの軍団には60の百人隊がありました。それぞれの隊は普通100人の兵士から成り,一人の百人隊長(士官,新世)が指導しました。これら士官たちは兵士たちを訓練する責任をゆだねられており,特に重要な存在でした。(マタ 8:5-13; 27:54; 使徒 10:1; 21:32; 22:25,26; 23:17,23; 24:23; 27:1,6,11,31,43。「士官」を参照。)各軍団には,護衛兵や急使を務め,時には刑執行者をも務めた,10人の特別な階級の将校がいました。―マル 6:27。

  • カエサレア
    聖書に対する洞察,第1巻
    • カエサレアはローマ軍の主要な本営所在地でしたから,百人隊長コルネリオの住まいがそこにあったのもうなずけます。この都市にはユダヤ人もかなり住んでいましたが,住民の大半は異邦人であったと考えられています。ですから,ペテロは西暦36年に,無割礼のコルネリオとその親族や親しい友人たちに証言するため,またクリスチャン会衆に迎え入れられる最初の無割礼の異邦人としてそれらの人々にバプテスマを施すため,神によってふさわしい場所に導かれたことになります。―使徒 10:1-48。

  • コルネリオ
    聖書に対する洞察,第1巻
    • コルネリオ

      (Cornelius)

      イタリア隊の100人の兵士を指揮した士官(百卒長,欽定)。(「士官」を参照。)コルネリオはカエサレアに駐在し,自分の家を持っていました。そのローマ名からすると,彼は帝都の高貴な家に属していたのかもしれません。コルネリオは「篤信の人」で,「民に憐れみの施しを多く行ない,絶えず神に祈願をささげて」おり,『義にかなった人で,神を恐れ,ユダヤ国民全体からも良く言われて』いました。西暦36年の秋,一人のみ使いが幻の中でこの人に現われて,「あなたの祈りと憐れみの施しとは記念として神のみ前に上りました」と言いました。み使いはまた,人をヨッパに遣わしてペテロを呼ぶようにとコルネリオに告げました。―使徒 10:1-22。

  • イタリア隊
    聖書に対する洞察,第1巻
    • イタリア隊

      (イタリアたい)(Italian Band)

      カエサレアのコルネリオが百人隊長として服務していた,ローマ軍の一部隊の名称。聖書の中でこの語が出て来る唯一の箇所で,コルネリオは「イタリア隊と呼ばれる部隊の士官」であったと言われています。(使徒 10:1)これは恐らく歩兵隊の一隊で,ローマの正規の軍団と区別するためにそのように呼ばれたものと思われます。一歩兵隊は全部で600人前後,つまり一軍団の約10分の1の規模で構成されていました。その名が暗示するとおり,この歩兵隊は恐らくイタリアで召集された志願兵から成り,それらの兵士は,生まれながらの自由人として,あるいは自由民としてローマの市民権を有していたことでしょう。

      聖書は,このイタリア隊がカエサレアに配置されていたとは述べていません。ただ,その部隊の士官の一人であるコルネリオの家がカエサレアにあった,と述べているだけです。―使徒 10:1,2,22,24。

  • イタリア
    聖書に対する洞察,第1巻
    • コルネリオは疑いなくイタリア人で,「イタリア隊」の士官であり,カエサレアに住まいを有していました。(使徒 10:1)パウロがフェストの前での審理に際してカエサルに上訴したのは,カエサレアでのことでした。次いでパウロは船でミラに連れて行かれ,そこで他の囚人たちと共に,アレクサンドリアからイタリアに向かう穀物船に移されました。(使徒 25:6,11,12; 27:1,5,6)その航海中に船が難破したため,一行はマルタ島で冬を過ごさなければなりませんでした。その後,恐らく西暦59年の春に,パウロはイタリアの“つま先”に当たるレギウムに着き,初めてイタリアの土に触れました。そして,その後まもなくポッツオリ(ナポリ)湾のポテオリで下船しました。ローマから160㌔余り南のこの地で,パウロは1週間,土地の会衆と共に過ごし,それからアッピア街道を通ってローマへ歩を進め,その途中「“アピウスの市場”および“三軒宿”」でローマから来た兄弟たちの出迎えを受けました。(使徒 28:11-16)パウロは,恐らくローマでの最初の投獄が終わろうとしていたころか,または西暦61年ごろの釈放の直後,まだイタリアにいた間に,ヘブライ人への手紙を書きました。―ヘブ 13:24。

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