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    聖書に対する洞察,第1巻
    • ルカにより書き記されたものであるという明確な証拠を示している「使徒たちの活動」の書は,様々な都市やそのそれぞれの属州に,さらには様々な称号を持ち,ある特定の期間役職に就いた色々異なった種類の役人にも言及していますが,これは筆者が誤りを犯す危険性のある説明の仕方です。(ルカ 3:1,2にも注目。)ところが,提出された考古学的証拠は,ルカの記述が驚くほど正確であることを実証しています。例えば,ルカは使徒 14章1-6節で,ルステラとデルベをルカオニアの領地内にあるとしていますが,イコニオムは他の領地内にあることを示唆しています。キケロを含め,ローマの著述家たちは,イコニオムのことをルカオニアの中にある場所として述べています。しかし,1910年に発見された,ある記念碑は,イコニオムがルカオニアの都市ではなく,実際,フリギアの都市とみなされていたことを示しています。

  • デルベ
    聖書に対する洞察,第2巻
    • デルベ

      (Derbe)

      使徒パウロが自ら二,三度訪れたと思われる,小アジアの「ルカオニアの都市」。

      最初の宣教旅行中,西暦47-48年の冬になる前のことと思われますが,パウロは近くのルステラで情け容赦ない石打ちにあった後,デルベに到着しました。彼とバルナバはデルベで「良いたよりを宣明してかなり大勢の弟子」を作りました。その中には,後に同使徒の旅行仲間として言及されている「デルベのガイオ」が含まれていたのかもしれません。一般の歴史の示すところによると,西暦41年以後デルベは政治的にはガラテア州の中で最も東にある都市でしたが,ルカはこの記述の中でデルベのことを「ルカオニアの都市」と呼んでいます。ルカがそのように呼んだことには,地方としての意味,もしくは民族誌的な意味があるようです。(使徒 14:6,19-21; 20:4)その後何か月もたって,割礼に関するエルサレムでの会議(西暦49年ごろ)の後,2度目の旅行の途中で,パウロはデルベに戻りました。(使徒 15:36; 16:1)さらに,特に名を挙げられてはいませんが,パウロが3度目の旅行中に『ガラテア地方』の弟子たちを強めた時,デルベはパウロの滞在地だったのかもしれません。(使徒 18:23)パウロがデルベで形となって表われるような反対に直面したという記録はなく,何年も後になって彼がその付近の他の場所で受けた苦しみについて語った際にも,この都市のことは何も述べていません。―テモ二 3:11。

  • イコニオム
    聖書に対する洞察,第1巻
    • イコニオムはフリギアとルカオニアの境界沿いにありました。ストラボンやキケロなど幾人かの古代の著述家がイコニオムをルカオニアの都市としているのに対し,クセノフォンがそこをフリギアの最後の都市と呼んでいることはこれで説明されるかもしれません。地理的な観点からすると,イコニオムはルカオニアに属していましたが,考古学上の発見からうかがわれるように,文化や言語の点ではフリギア的でした。1910年にここの遺跡で発見された幾つかの碑文は,パウロの時代以降2世紀ほどの間,フリギア語がその地で話されていたことを示しています。ですから,「使徒たちの活動」の書の筆者が,イコニオムを,「ルカオニア語」の話されていたルカオニアに含めなかったのはふさわしいことでした。―使徒 14:6,11。

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