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立法者聖書に対する洞察,第2巻
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神は律法契約をイスラエルに与えることにより,単に偶像礼拝を行なっていた異教徒だけでなく,イスラエル人も,つまりすべての人が有罪であることを明らかにされました。律法はイスラエル人に自分たちが完全な規準にかなっていないことを多くの仕方で痛感させるのに役立ちました。「それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するようになるためで(した)。律法によって罪についての正確な知識が生じるのです」。(ロマ 3:19,20)あるイスラエル人は偶像礼拝を行なったことがなかったかもしれず,血を避けていたかもしれませんし,また殺人の罪をおかしたことはなかったかもしれませんが,それでも律法契約により有罪と宣告されました。それは,律法契約により,今や,幾多の行動や態度さえも罪深いものであることが明らかにされたからです。したがって,パウロは自分自身のことをあたかも律法が与えられる前に父祖たちの腰にあって生きていたかのようにみなして,こう述べました。「実際,律法がなかったなら,わたしは罪を知ることはなかったでしょう。たとえば,律法が,『あなたは貪ってはならない』と言っていなかったら,わたしは貪欲ということを知らなかったでしょう。……事実,わたしはかつて律法なしに生きていました。しかしおきてが到来した時,罪は生き返り,わたしは死にました」― ロマ 7:7-9。
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罪聖書に対する洞察,第2巻
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罪はイスラエルに対する神のおきてを通してどのように『誘いを受ける』ことができましたか
使徒パウロは,モーセの律法は人間がエホバ神のみ前で義なる立場を得るための手段ではないということを指摘して,次のように書きました。「わたしたちが肉にしたがっていた時には,律法によってかき立てられた罪深い情欲がわたしたちの肢体のうちに働いて,わたしたちに死への実を生み出させてい(ました)。……では,わたしたちは何と言えばよいでしょうか。律法が罪なのですか。断じてそうはならないように! 実際,律法がなかったなら,わたしは罪を知ることはなかったでしょう。たとえば,律法が,『あなたは貪ってはならない』と言っていなかったら,わたしは貪欲ということを知らなかったでしょう。しかし,罪はおきてを通して誘いを受け,わたしのうちにあらゆる貪欲を生み出しました。律法がなければ,罪は死んでいたのです」― ロマ 7:5-8。
律法がなかったなら,使徒パウロは罪の及ぶ範囲や規模全体,例えば,貪欲の罪深さを知らなかった,あるいは認識しなかったことでしょう。同使徒が注目しているように,律法は罪深い情欲を「かき立て」,貪ることを戒めたおきては罪のための「誘い」となりました。このことは,「律法がなければ,罪は死んでいたのです」というパウロの言葉に照らして理解しなければなりません。人は罪が明確に定義されていなかった間は罪を犯したとして訴えられることはあり得ませんでした。その罪は罪として法的に見分けられていないからです。パウロやその国民の中の他の人々は,律法が到来する以前は,有罪の責めを受けることなく生きていました。罪が明示されていなかったからです。しかし,律法が導入されると共に,パウロやその仲間の同国人は死刑宣告を受けた罪人であることが明示されました。律法は彼らに自分たちが罪人であることを一層強く自覚させるものとなりました。これは,モーセの律法が罪をおかすよう彼らを促したという意味ではなく,律法は彼らが罪人であることを暴露したのです。このように,罪は律法を通して誘いを受け,パウロやその民の内に罪をもたらしました。律法はさらに多くの人々を罪人として宣告する根拠や,またさらに多くの法的な訴因の基準を提供するものになったのです。
ですから,「律法が罪なのですか」という問いかけには,確かに『否!』と答えられます。(ロマ 7:7)律法は神がそれを与えた目的を果たさずに“的を外す”どころか,かえって民を守る指針として良いもの,有益なものであったという点だけでなく,イスラエル人も例外とされずに,すべての人が神による請け戻しを必要とする罪人であることを法的に確証したという点でも“的に命中”しました。同時に,律法はイスラエル人にキリストを必要な請け戻す方として指し示しました。
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