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  • かの有名な宣教者も訪ねた場所
  • 現代における興奮に満ちた始まり
  • 無神論国家
  • 迫害に面してもたじろがず
  • トンネルの先に見えた光
  • 熱心な外国の開拓者たちが業の先頭に立つ
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2005
塔05 10/15 16–20ページ

“鷲の国”でエホバの言葉が高く舞う

アルバニア人は,自分たちの国のことをアルバニア語で“鷲の国”と呼んでいます。アドリア海に面するこの国はバルカン半島にあり,ギリシャと旧ユーゴスラビアの間に位置しています。アルバニア人の起源については諸説があります。しかし歴史家の大半は,アルバニア人が古代イリュリア人の末えいで,アルバニア語もイリュリア人の言語が元になっているとの点で意見の一致を見ています。ブリタニカ百科事典(英語)によると,イリュリア人の文化の歴史は西暦前2000年にまでさかのぼります。

アルバニアの自然は美しく,北部には険しい山岳地帯があり,南部にはアドリア海沿いに白い砂浜が続きます。しかし美しさの点で際立っているのはそこに住む人々です。アルバニア人は温かくて親切,快活で表情豊か,また学習意欲がおう盛で,身振り手振りを使って自分の考えを熱く語る人たちです。

かの有名な宣教者も訪ねた場所

幾世紀も前にこの地にやって来た一人の特別な訪問者は,土地の人々の魅力的な気質や美しい景色に心を奪われたことでしょう。西暦56年ごろ,広く旅をしていた使徒パウロは,「イルリコに至るまで,キリストについての良いたよりを徹底的に宣べ伝えました」と書いています。(ローマ 15:19)イルリコの南部は,現代のアルバニアの中央部と北部に相当します。パウロがその手紙を書いたのは,イルリコの南方にあるギリシャのコリントでした。それで「イルリコに至るまで」徹底的に宣べ伝えたと述べていることから,イルリコの境界付近まで行ったか,実際にイルリコに入ったと思われます。いずれにせよ,現在のアルバニア南部で宣べ伝えたことは間違いないでしょう。ですから,知られている限り,アルバニアで初めて王国伝道の業に携わったのはパウロだと言えます。

それから幾世紀もの時が流れました。さまざまな帝国が興隆しては衰退し,ヨーロッパの片隅に位置するこの地域に外国の諸勢力が押し寄せては去ってゆきました。1912年にアルバニアは独立国家となりました。その10年ほど後に,アルバニアで再びエホバの王国に関する音信が聞かれるようになります。

現代における興奮に満ちた始まり

1920年代,国際聖書研究者として当時知られていたエホバの証人と交わっていた人の中に,米国に移民として住んでいたアルバニア人が幾人かいました。それらの人は学んだ事柄を伝えるためにアルバニアに戻りました。ナショー・イドリジもその一人です。好意的な反応が見られたので,1924年,関心のある人たちを顧みるために,アルバニアにおける宣べ伝える業はルーマニア事務所の監督下に置かれました。

そのころにアルバニアでエホバについて学んだ人にサナス・ドゥリ(アサン・ドウリス)がいます。サナスは当時のことを振り返ってこう述べています。「1925年当時,アルバニアには三つの会衆があったほか,聖書研究生や関心を持つ人々が全国の各地に散在していました。これらの人々の中に見られる愛は,まわりの人々……とはまさに対照的でした!」a

道路網が発達していなかったため,旅行は非常に困難でした。しかし熱意にあふれる奉仕者たちはそれをものともしませんでした。一例として1928年には,南部の海岸沿いのブロラで,18歳のアレティ・ピナがバプテスマを受けました。アレティは険しい山道を上り下りし,聖書を片手に宣べ伝えました。アレティは1930年代にブロラにあった熱心な会衆の一員でした。

1930年,アルバニアにおける宣べ伝える業はギリシャのアテネにある支部事務所が監督していました。1932年,ギリシャの旅行する監督がアルバニアを訪問して,兄弟たちを励まし,力づけました。当時,聖書の真理を学んでいた人のほとんどは,天的な希望を持つ人たちでした。それらの人は清く廉直であるとの評判が広まり,その地域一帯で深い敬意を受けるようになりました。これら忠実な兄弟たちの業は多くの実を結びました。1935年と1936年には,それぞれ6,500冊以上の聖書文書がアルバニアで配布されました。

ある日,ナショー・イドリジはブロラの中心部に行って,J・F・ラザフォードの講演を蓄音機でかけました。人々は,イドリジ兄弟がアルバニア語に通訳するその講演を聞くために,店を閉めてやって来ました。疲れを知らない初期の聖書教育者たちの熱心な働きは確かに祝福されました。1940年には,アルバニアに50人のエホバの証人がいました。

無神論国家

1939年,イタリアのファシストが同国を占領しました。エホバの証人の法的認可は取り消され,宣べ伝える業は禁止されました。その後まもなく,ドイツ軍が侵攻してきました。第二次世界大戦が終わるころ,カリスマ的な軍事指導者エンベル・ホジャが頭角を現わすようになりました。ホジャ率いる共産党が1946年の選挙で勝利し,ホジャは首相に就任します。続く年月は解放の時と称されましたが,エホバの民にとっては全く逆の時となりました。

政府は宗教に対して徐々に不寛容になってゆきました。アルバニアのエホバの証人は,クリスチャンの中立をしっかり守り,武器を取ったり政治にかかわったりすることを拒みました。(イザヤ 2:2-4。ヨハネ 15:17-19)多くの人は投獄され,食糧といった必要最低限のものさえ与えられませんでした。投獄されていなかったクリスチャンの姉妹たちが衣服の洗濯や食事の世話をしてあげることも少なくありませんでした。

迫害に面してもたじろがず

1940年代初頭,十代のフロシナ・ジェカという少女がペルメットの近くの村に住んでいました。フロシナは,兄たちが靴屋のナショー・ドーリーbというエホバの証人から学んでいた事柄を教えてもらいました。当局はエホバの証人を厳しく取り締まっていました。それでも,フロシナは両親に反対されながらも,信仰において進歩してゆきました。「クリスチャンの集会に行こうとすると,両親は靴を隠してわたしをたたきました。不信者との結婚を取り決めようとしたこともありましたが,それを拒むと,家から追い出されてしまいました。雪の降る日でした。ナショー・ドーリー兄弟が,ギロカスタルにいたゴレ・フロッコ兄弟にわたしのことを話してくださり,わたしはその家族と一緒に住むことになりました。兄たちは中立の立場ゆえに2年間投獄されていました。兄たちの釈放後,わたしはブロラに引っ越して兄たちと一緒に住むようになりました。

「警察は政治活動に参加させようとしましたが,わたしは拒否しました。すると警官たちはわたしを逮捕し,ある部屋に連れて行ってわたしを取り囲みました。一人の警官は,『どんな目に遭うか分かっているだろうな』と脅しました。それでわたしは,『エホバがお許しにならなければ何もできないでしょう』と言いました。その警官は,『お前は狂っている! さっさと出て行け!』と言いました」。

当時のアルバニアの兄弟たちの間には,このような忠節の精神がみなぎっていました。1957年には,王国伝道者が最高数の75人になりました。1960年代初頭,エホバの証人の本部の取り決めにより,米国在住のアルバニア系移民であるジョン・マークスがティラナを訪問して,クリスチャンの業を組織しました。c しかしほどなくして,ルチ・ジェカ,ミハル・スベチ,レオニザ・ポペなど,責任ある兄弟たちが労働収容所に送られました。

トンネルの先に見えた光

アルバニアではもともと,宗教はすべて冷ややかな目で見られていました。しかし1967年,ついに一切の宗教活動が許されなくなりました。カトリック教会であれ,正教会であれ,イスラム教であれ,聖職者が儀式を執り行なうことは禁じられました。教会とモスクは閉鎖されるか,体育館や博物館や市場として使用されることになりました。だれも聖書を所有してはならないとされ,神への信仰という話題を口に出すことさえ許されませんでした。

伝道や集会を行なうことはほとんど不可能でした。証人たちは互いに連絡が取れない中,エホバに仕えるためにそれぞれ最善を尽くしました。1960年代から1980年代にかけて,証人たちの数はほんの一握りにまで減りました。しかしそれらの人たちは霊的にしっかりとしていました。

1980年代の後半,アルバニアでは思うように政治改革が進みませんでした。食糧や衣服が不足し,民衆は不満を抱いていました。東ヨーロッパを席巻した改革がアルバニアに押し寄せたのは1990年代初頭でした。45年に及ぶ全体主義政権の後,新たに発足した政府は信教の自由を再び保障するようになりました。

オーストリアとギリシャの支部事務所は,エホバの証人の統治体の指示のもと,アルバニアの兄弟たちと連絡を取るために速やかに行動しました。アルバニア語を知っていたギリシャの兄弟たちが,新たに翻訳されていた聖書文書をティラナとベラトに持ち込みました。離散していた現地の兄弟たちは,長年会えなかった外国のエホバの証人と顔を合わせることができ,喜びに満たされました。

熱心な外国の開拓者たちが業の先頭に立つ

1992年の初め,統治体はアルバニア系の宣教者夫婦マイケル・ディグレゴリオとリンダ・ディグレゴリオがアルバニアに移動するように取り決めました。二人は長年忠実を保ってきた兄弟たちと連絡を取り,国際的な霊的家族に再び加わるよう助けました。11月には,イタリアから16名の勤勉な特別開拓者つまり全時間の福音宣明者が来て,ギリシャからも4人の開拓者がやって来ました。それらの人たちが地元の言語を学べるよう,言語コースが組織されました。

外国から来たそれらの開拓者たちにとって,日々の生活は楽ではありませんでした。電気の供給は断続的でした。冬は寒くてじめじめしていました。食糧や他の必需品を手に入れるために何時間も列に並ばなければなりません。しかし兄弟たちが直面した最大の問題は,真理に応じる大勢の関心ある人たちを収容できる大きな建物を見つけることでした。

アルバニア語に四苦八苦していた開拓者たちは,言語は目的を達成するための手段にすぎないことを悟りました。経験豊かな聖書の教え手はこう述べました。「動詞の活用が完ぺきでなくても,温かくほほえんだり,兄弟たちと抱擁を交わしたりすることはできます。アルバニア人は皆さんの完ぺきな文法ではなく,心からの愛にこたえ応じるのです。心配しないでください。アルバニア人は分かってくれます」。

最初の言語コースが終了すると,開拓者たちはベラト,ドゥラス,ギロカスタル,シュコデル,ティラナ,ブロラで奉仕を開始しました。ほどなくして,それらの都市で会衆が次々に設立されてゆきました。ブロラには,すでに80代になり健康の衰えていたアレティ・ピナがいて,アレティと奉仕するために二人の特別開拓者が遣わされました。人々は外国人がアルバニア語を話していることに驚きました。「他の宗教グループの宣教師たちは,何か学びたければまず英語かイタリア語を勉強しなさい,と言います。でも皆さんが実際にアルバニア語を学んだということは,わたしたちのことを本当に愛していて,何か大切なことを伝えたいと思っておられるのですね」。アレティは1994年1月に地上での忠実な歩みを終えました。最後の月に至るまで宣べ伝える業に意欲的に参加していました。アレティや開拓者たちが示した熱心さは祝福されました。1995年にブロラで再び会衆が設立されたのです。現在,この港町で三つの会衆が宣べ伝える業を活発に行なっています。

国中の人々は,霊的に飢えており,宗教に対する偏見を持っていませんでした。皆,証人たちから受け取った聖書文書をどれもむさぼるように読みました。大勢の若い人たちも聖書の研究を始め,すぐに進歩を遂げました。

国内の90を超える会衆や群れは,「信仰において堅くされ,日ごとに人数を増して」います。(使徒 16:5)アルバニアにいる3,513人のエホバの証人は,まだまだ多くの事柄を成し遂げなければなりません。2005年3月,キリストの死の記念式に1万144人が出席しました。宣べ伝える業の面では,もてなしの精神にあふれる人たちとの話し合いが数多くなされており,それが6,000件以上の聖書研究につながっています。また,最近出版されたアルバニア語の「新世界訳」からも大勢の人が益を受けることでしょう。そうです,この“鷲の国”において,エホバの言葉はまさに空高く舞い,その方に賛美をもたらしているのです。

[脚注]

a サナス・ドゥリのライフ・ストーリーについては,「ものみの塔」誌,1969年4月1日号をご覧ください。

b ナショー・ドーリーのライフ・ストーリーについては,「ものみの塔」誌,1996年1月1日号をご覧ください。

c ジョン・マークスの妻ヘレン・マークスのライフ・ストーリーについては,「ものみの塔」誌,2002年1月1日号をご覧ください。

[20ページの囲み記事]

コソボで民族対立を乗り越える

1990年代の末,コソボという地名は世界の大抵の人に知られるようになりました。領土問題および民族間の根強い憎悪が紛争へとつながり,国際的な軍事介入がありました。

バルカン半島における紛争の間,エホバの証人の多くは周辺国に逃げなければなりませんでした。しかし紛争が終息すると,一部の証人たちはコソボに戻って業を再開しました。アルバニアとイタリアの特別開拓者たちは,コソボに移動して,235万人の住民を何とか助けたいと申し出ました。四つの会衆と六つの活発な群れに属する合計130人ほどの奉仕者たちが,この地域でエホバに仕えています。

2003年の春に特別一日大会がプリシュティナで開かれ,252人が出席しました。大会には,アルバニア系,イタリア系,セルビア系,ドイツ系の人たち,そしてジプシーと呼ばれる人たちがいました。バプテスマの話の最後に,話し手は二つの質問をしました。その質問に答えるために,アルバニア系の人,ジプシー,そしてセルビア系の人が一人ずつ起立しました。

3人のバプテスマ希望者が,「バー!」「ダー!」「ポー!」という大きな声で一斉に答えると,聴衆から割れんばかりの拍手が沸き起こりました。そして,この3人は互いに抱き合って喜びました。彼らはその地を苦しめてきた根強い民族対立への答えを見いだしたのです。

[17ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

地中海

イタリア

アルバニア

ギリシャ

[18ページの図版]

若い証人たちは年上の人たちの熱心さに見倣う

[18ページの図版]

1928年から1994年に亡くなるまで忠実に仕えたアレティ・ピナ

[19ページの図版]

言語コースに出席する,外国から来た開拓者の第一陣

[16ページの図版のクレジット]

Eagle: © Brian K. Wheeler/VIREO

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