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復活聖書に対する洞察,第2巻
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ペテロはまた,そのような人たちが抱く希望について,それは「貴く,しかも極めて壮大な約束」であり,『それによってあなた方は神の性質にあずかる者となるようにされた』と描写しています。(ペテ二 1:4)彼らは,「神の」性質を得るために人間の性質を捨て,そのようにしてキリストの栄光をキリストと分け合う者となることにより,性質の変化を経験しなければなりません。彼らは,忠誠を保って人間の命を永久に断念することにより,キリストと同様な死を遂げなければなりません。それから,キリストが得たような不滅かつ不朽の体を復活によって受けるのです。(ロマ 6:3-5; コリ一 15:50-57; コリ二 5:1-3)使徒パウロは,復活させられるのは体ではないと説明し,むしろ,『神がご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与えられる』という意味で,彼らの経験を,種を植えて芽を出させることに例えています。(コリ一 15:35-40)復活させられるのは魂つまり人であり,神は復活後の環境に適合した体をその人にお与えになります。
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復活聖書に対する洞察,第2巻
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しかし,復活の際には古い体が再び集められるのでしょうか。それともその体は,その者が死んだ時の状態そっくりに造られた,以前の体の正確な複製なのでしょうか。聖書は,キリストの油そそがれた兄弟たちの天の命への復活について論じた際,そうではないと答えています。「しかしながら,『死人はどのようによみがえらされるのか。いったいどんな体でやって来るのか』と言う人がいることでしょう。道理をわきまえない人よ! あなたのまくものは,まず死ななければ,生きたものになりません。そして,あなたがまくものについて言えば,後にできる体ではなく,ただの種粒をまくのです。それは小麦,あるいはほかの何かでしょう。しかし神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与え,種の一つ一つにそれ自身の体を与えられます」― コリ一 15:35-38。
天的な者たちは霊的な体を与えられます。彼らがその天的な環境に適した体を持つことは,神の喜びとなるからです。しかし,エホバはご自分が地的な復活へよみがえらせたいと思う者たちに,どんな体をお与えになるのでしょうか。それが以前と全く同じ原子から成る,同じ体であるはずはありません。人が死んで葬られるなら,その体は腐朽の過程により,植物が吸収できる化学物質に再び変換されます。人間がその植物を食べることもあるでしょう。種々の元素,最初の当人を形造っていた原子は今や多くの人の中に存在しています。復活に際して,同じ原子が最初の人の中に,また他のすべての人の中に同時に存在し得ないのは明らかです。
それに,復活させられる体は,必ずしも死んだ時の体の正確な複製となるように造られる必要はありません。もし死ぬ前に体から手足を切り取られたなら,その人は同じような様で戻って来るのでしょうか。それは道理にかなったことではありません。その人は,「それらの巻き物に書かれている事柄」を聞いて行なえる状況にさえいないかもしれないからです。(啓 20:12)体から血が流れ出て死んだ人のことを考えてみましょう。その人は血のない状態で戻って来るのでしょうか。そうではありません。血がないまま地的な体を持って生きることはできないからです。(レビ 17:11,14)むしろその人には,神の喜びとなるような体が与えられるでしょう。復活させられた人々が「それらの巻き物に書かれている事柄」に必ず従うことは神のご意志であり喜びなので,その体は,あらゆる機能を備えた健全な体でなければならないでしょう。(ラザロの体はすでに部分的に分解していましたが,イエスはすべてがそろった健全な体のラザロを復活させました。[ヨハ 11:39])このようにして,裁きの期間における人の行動に対し,適切に,また公正に責任を問うことが可能になるのです。とはいえ,人は完全になって戻って来るのではありません。人はキリストの贖いの犠牲に信仰を働かせ,キリストとその「王なる祭司」による祭司の奉仕を受けなければならないからです。―ペテ一 2:9; 啓 5:10; 20:6。
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