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ギリシャ,ギリシャ人聖書に対する洞察,第1巻
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少なくとも後期のギリシャ人は,民族として好奇心の強い一面を表わし,新奇な事柄について議論したり話し合ったりすることを性質上好んでいました。(使徒 17:21)彼らは人生や宇宙に関する重要な疑問の幾つかを人間の論理(と憶測)の過程を通して解決しようと努めました。したがって,ギリシャ人は自分たちのことを古代世界の知識階級とみなしました。パウロはコリント人にあてた最初の手紙の中で,そのような人間の知恵や主知主義をそのあるべき位置に置き,とりわけ,「あなた方の中で,自分はこの事物の体制において賢い者であると考える人がいるなら,その人は愚かな者となりなさい。こうして,賢い者となるためです。……『エホバは,賢い人たちの論議が無駄なことを知っておられる』」と述べました。(コリ一 1:17-31; 2:4-13; 3:18-20)彼らは哲学的討論や研究の限りを尽くしたにもかかわらず,その著作は彼らが希望の真の根拠を見いださなかったことを示しています。それは,J・R・S・ステレトとサムエル・アンガス両教授が,「それ以上に人生の悲哀や愛のはかなさ,希望の頼りなさや死の冷酷さを感傷的に嘆いた文学はない」と指摘している通りです。―「フンクとワグナルズの新標準聖書辞典」,1936年,313ページ。
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ギリシャ,ギリシャ人聖書に対する洞察,第1巻
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しかし,パウロは幾つかの箇所でヘッレーネスという語をもっと広い意味でも使っています。特にユダヤ人との対比を示す場合,パウロはユダヤ人でない民族すべてを代表する民族としてヘッレーネス,つまりギリシャ人に言及しています。(ロマ 1:16; 2:6,9,10; 3:9; 10:12; コリ一 10:32; 12:13)例えば,コリント第一 1章で,パウロは明らかに「ギリシャ人」(22節)と「諸国民」(23節)とを対応させています。これはギリシャの言語や文化がローマ帝国全土で際立って卓越したものであったからに違いありません。ギリシャ人はある意味で,ユダヤ人ではない諸民族の首位にありました。これは,一部の注解者が暗に言っているように,パウロやクリスチャン・ギリシャ語聖書の他の筆者たちがヘッレーネスという語を非常に漠然とした意味で用いているため,ヘッレーンという語で異邦人を指しているにすぎないという意味ではありません。パウロはある特定の民族のことを明示するためにヘッレーネスを使っていることを示して,コロサイ 3章11節で「異国人[バルバロス]」や「スキタイ人」とは異なる「ギリシャ人」に言及しています。
前述の事柄と調和して,ギリシャ語学者ハンス・ヴィンディシュは,「[ヘッレーンという言葉の表わしている]『異邦人』という意味は……ヘレニズム的なユダヤ教からも,新約からも証明できない」と注解しています。(新約聖書神学辞典,G・キッテル編; 翻訳者および編集者,G・ブロミリ,1971年,第2巻,516ページ)しかしこの学者は,ギリシャ人の著述家が時にはヘッレーンという語をギリシャの言語や文化を取り入れた他の人種の人々,すなわち“ヘレニズム化された”人々を指して使っていることを示す幾つかの証拠を確かに提出しています。ですから,聖書の中でヘッレーネス,つまりギリシャ人に言及している箇所を考慮する際,多くの場合,そのギリシャ人とは少なくとも,生まれながらの,あるいは系統上のギリシャ人ではない可能性があることを認めなければなりません。
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