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コリント人への手紙聖書に対する洞察,第1巻
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コリントではゆゆしい不道徳行為が習わしにされており,やがてそれは同市のクリスチャン会衆にさえ影響を及ぼすようになりました。パウロは,彼らの間で「諸国民の間にさえないほどの淫行」の問題が持ち上がっていたため,手紙の中でこの会衆を叱責する必要を見て取りました。ある人が自分の父の妻を奪っていたのです。(コリ一 5:1-5)パウロはまた,彼らが理解できる例えを用い,忠実さを保つように励ましました。パウロは,彼らがコリント近郊で催されるイストミア競技会の競技に通じていることを知っていたので,こう書きました。「競走の走者はみな走りはしますが,ただ一人だけが賞を受けることを,あなた方は知らないのですか。あなた方も,それを獲得するような仕方で走りなさい。また,競技に参加する人は皆,すべてのことに自制を働かせます。もちろん彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが,わたしたちの場合は不朽の冠のためです」― コリ一 9:24,25。
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ファーロング聖書に対する洞察,第2巻
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このように訳されているギリシャ語(スタディオン)は,185㍍,または1/8ローマ・マイルに相当する長さの単位を表わしています。(1ローマ・マイルは1,479.5㍍に等しい。)(啓 14:20; 21:16)これはアッティカ・スタディオンやローマ・スタディオンと大体同じ長さです。これは201㍍に相当する現代のファーロングとは異なります。コリント第一 9章24節では,スタディオン(英語,stadium)という語が「競走」と訳されています。ギリシャの競走路の長さが1スタディオンであったからです。しかし,オリンピックの走路の1スタディオンは実際には192㍍でした。
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競技,遊技聖書に対する洞察,第1巻
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例証的な用法 パウロやペテロは一部の競技の特色を,教えの要点を示す適切な例として用いました。油そそがれたクリスチャンも冠を得ようとして懸命に努力しますが,その冠はギリシャの競技の参加者が求めた賞とは対照的に,木の葉でできたしおれる花輪ではなく,不滅の命という報いであることが示されました。(ペテ一 1:3,4; 5:4)そのようなクリスチャンは賞を獲得する決意を抱いて走るべきであり,その賞から目を離してはなりませんでした。後ろを振り向くなら,悲惨な結果になりました。(コリ一 9:24; フィリ 3:13,14)道徳的な生活を律する種々のルール,つまり規則に従って競い,失格しないようにすべきです。(テモ二 2:5)自制,自己鍛錬,および訓練はいずれも不可欠です。(コリ一 9:25; ペテ一 5:10)十分に訓練された拳闘家が力を無駄にせずに行なう打撃が物を言うのと同様,クリスチャンは勝利を目指して,ねらいのしっかり定まった努力をしなければなりませんでした。しかし,クリスチャンの行なう打撃の対象は,だれか他の人間ではなく,自分の失敗を招く恐れのある,自分自身のうちに宿るものをも含め,物事なのです。(コリ一 9:26,27; テモ一 6:12)競走の参加者が厄介な衣服を脱いだのと同様,クリスチャンの走者は妨げとなるあらゆる重荷や信仰の欠如という絡みつく罪を捨てるべきでした。クリスチャンの走者は短距離の疾走ではなく,忍耐の要る競走をする覚悟をしていなければなりませんでした。―ヘブ 12:1,2。
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